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恋人の兄の登場はリオンの中では織り込み済みで、またそんな兄と顔を合わせたウーヴェの様子が一気に不安定になることも当然ながら予測できていることだった。
だからウーヴェにしがみきながらちゃんとここにいること、何があってもこうして護っていることを伝え、それが伝わったのかウーヴェの身体から少しだけ緊張が解れたことに気付いたリオンは、ウーヴェにそっくりな怜悧な瞳を恐れることなく正面から見つめ、親父の家にお邪魔していると笑みを浮かべる。
それが、人の家に来て騒ぐなと睨まれたことへの皮肉だと気付いたギュンター・ノルベルトは冷たく光る瞳でリオンを一瞥したあと、一瞬で表情を切り替えて柔和な目でウーヴェを見つめる。
「……昨日は話をする暇もなかったが、良く帰ってきてくれたな」
「……何、も……ノルの為に帰ってきた訳じゃ……」
「お前が今ここにいてくれることが嬉しいんだよ」
自分の親代わり、お前にとっての祖父母のような人たちが滞在している今ここにいてくれることが嬉しいのだと、会社の部下達が見れば卒倒してしまいそうな優しい笑みを浮かべて頷いたギュンター・ノルベルトは、ウーヴェと面と向かって話が出来た喜びを密かに噛み締めるが、それが出来るようになった理由がウーヴェにしがみついている-ようにしか見えない-リオンだと父や妹から聞かされたことを思い出して不愉快そうに眉を顰める。
長い間自分たち兄弟-実際には父と子-の間にある壁を壊せる可能性が高いことを先日も妹から聞かされたが、一見すればただ騒々しいだけのこの男の何処にそんな力があるのか。
以前二人が付き合っていることを知った時に調べさせたことを思い出し、その調査で出てきた男女間における素行の悪さの一端に触れた時には心底嫌悪し、ウーヴェにはもっと相応しい、相手に対して誠実で誰よりも大切にしてくれる人がいるだろうとの思いを抱いたのだが、その思いを消し去ることがどうしても出来ず何故リオンなんだと思わず口にしてしまうが、その言葉をしっかりと聞いたリオンの口元に不敵な笑みが浮かび上がる。
「何でお前なんだって前にも言われたことありますけどねー、何でも何も、オーヴェが俺を選んでくれたからですよ」
生まれ育ちなど何もかも引っくるめた上で認め愛してくれたのは他でもないウーヴェだと囁きつつ血色が悪くなっている頬に背後からキスをしたリオンは、あまり自慢できることがない己の過去だが、それでもウーヴェが俺を認め選んでくれたことだけで俺の人生は立派な意義のあるものになったとウーヴェに愛されている自負で彩った顔を室内にいる皆に見せ、目に力を込めてギュンター・ノルベルトを見つめる。
「……あんたになら、この気持ち分かると思うんだけどな」
「……」
ギュンター・ノルベルトの目が軽く見開かれ、何を言わんとするのかを察すると同時に更に見開かれるのをじっと見つめていたリオンは、あの写真でウーヴェを抱いていたあんたはきっと今の俺と同じ思いだっただろうとも告げる。
「自分を受け入れて認めてくれたら守りたいと思う。だけどそれ以上に守ってくれている。そんな存在に出会ったら……もう手放せなくなる」
そんな人がいることがどれ程幸せであるか、力を分け与えてくれるのか、それをあんたは知っているはずだと穏やかに告げると、ウーヴェの髪にキスをした後背筋を伸ばす。
「親父や母親が自分と向き合ってくれない寂しさを知ってるあんたなら……真剣に向き合ってくれたレジーナ・ディストナーと出会ったあんたなら分かるだろ」
「!」
「金銭的には恵まれていても気持ちが満たされていない時にそんな人と出会ったら……そりゃあ一緒にいるために家を出てその人のためにがんばろうって思うよなぁ」
たとえそれが14,5歳のガキであったとしても、いや、子どもだからこそ後先を考えずに家を飛び出したのだろうとつぶやくと、室内の空気が一瞬にして凍り付いてしまう。
「誰からその話を聞いた!?」
その声はリオンが向き合っている相手ではなく背後から聞こえてきたため、ウーヴェをしっかりと抱きしめながら顔を振り向けると、蒼白な顔で震えながらレオポルドに寄り添うイングリッドがいて、その細い肩に腕を回したレオポルドが険しい顔でリオンを睨んでいた。
「誰って……もちろん、オーヴェだ」
感情に邪魔されながらも勇気を出して見せてくれたアルバム、そのアルバムにまつわる話を聞かせてくれたことを伝え、かすかな声で名を呼ぶウーヴェの頬にキスをする。
「兄貴が家出をして帰って来た時にはオーヴェが産まれてた。兄貴が帰ってきた経緯は詳しく知らないけど、オーヴェから教えてもらったのは、これから親子三人で苦労しながらも仲良く暮らしていこうとしていたのを、親父が少しの金を与えてレジーナを追い出してその夢を壊したってこと」
だからウーヴェはその代償に生みの母に誘拐され、その原因を作ったのはおまえの父-これはおそらく親父と兄貴のこと-だといって虐待されたのだと告げると、まずアリーセ・エリザベスが耐えきれなくなって両手で顔を覆い、そんな妻を夫が痛ましそうな顔で抱き寄せる。
娘夫婦を視界の隅に納めたイングリッドだが自身も限界なのかレオポルドにさらに身を寄せるが、蒼白な顔に毅然とした表情を浮かべてリオンを睨み付ける。
「いつだったかオーヴェが、自分が誘拐されてハシムが殺されたのは親父のせいだって言ってたけど、そんな事情があったのならそれも納得できる」
だけど実際にハシムが殺されたのは親父のせいではないことも分かっていると告げると、腕の中でウーヴェが身じろぎをしてリオンを振り返るが、その顔色の悪さと瞳に浮かぶ色が悲しくて血の気を失った唇にそっとキスをする。
「ハシムが殺されたのは、多分……親父や兄貴のせいじゃない」
「どう、いう……ことだ?」
「うん。……ハシムの両親が不法滞在者だった」
「!?」
リオンの言葉に最大限の疑問を浮かべたウーヴェが眉を寄せついで聞かされた言葉に目を見張って不法滞在者と呟くが、それが何の関係があると問い返すとリオンがウーヴェの目を見つめながら利用されたと答える。
「利用された……?」
「ああ。主犯格の男女、ヴォルフとマリアに利用されたんだと思う」
あの事件の中で最重要人物であるハシムだが、ハシムが何故あの場にいて無惨な最期を遂げなければならなかったのか、おそらくだが誘拐を企てた犯人に利用されたからだろうと告げてやるせないため息をつくと、表情を一変させて情けない顔でウーヴェを見つめる。
「……オーヴェ、話は後でちゃんとするからさ、メシ食わせて欲しい」
本当に本当に腹が減って仕方がないと今までの真摯な声や顔が同一の人物とは思えない情けない声にウーヴェが目を見張り、同じく驚愕の顔で見守っていたギュンター・ノルベルトも呆気に取られるが、一番早く立ち直ったのは険しい顔をしていたレオポルドで、腹が減っているのなら早くこちらにきて食べて話の続きを聞かせろと怒鳴り、その声にギュンター・ノルベルトが苛立たしそうに舌打ちをしじろりとリオンを睨み付ける。
「まさか今日泊まるつもりか?」
「明日は休みなので泊まるつもり」
ウーヴェと一緒の部屋で寝るつもりだから気にしないでくれと笑うと、冗談ではない、タクシー代を出すのも腹が立つがタクシーを呼ぶからそれに乗って帰れと言い放ち、リオンが目と口を丸くしてしまう。
「へ!?」
「一緒に寝るなど許さないからな!」
まるでティーンエイジャーの子供を持つ親のように怒鳴ったギュンター・ノルベルトは、呆気にとられているリオンに向けて鼻息荒く許さないし認めないと指を突きつけると足音高くリビングを出て行ってしまう。
荒々しくドアが閉められるのを呆然と見送ったリオンだが、家ではずっと一緒に寝てるんだけどと呟いてウーヴェに同意を求めるが、接触をさけていた兄と避けていた実家で対面した緊張感からか今度は顔中に疲労の色が浮かび上がる。
「頭痛いか?」
「……少し……痛い」
「ん、分かった。……親父、オーヴェが頭痛いって言ってるからオーヴェの部屋で飯を食うことにする」
ウーヴェの身体を支えつつ恋人の両親と姉夫婦に向けて肩を竦めたリオンは、ここで食べたいのは山々だけど部屋に行くと告げると軽く驚いた顔ながらもレオポルドが頷いたため、ウーヴェを支えながらリビングを出る。
ギュンター・ノルベルトが出て行くのを見送ったときとはまた違う顔でリオンとウーヴェを見送ったレオポルドたちだったが、リオンの口から流れ出た真実に打ちのめされたようで、アリーセ・エリザベスも辛そうに顔を振ると、夫のミカの肩に寄りかかる。
「……あの子、どこまで知っているの?」
アリーセ・エリザベスの呟きに誰も答えるものはいなかったが、ヘクターとハンナが顔を見合わせたあとギュンター・ノルベルトの食事の用意をしてくることを伝え、イングリッドに頷かれて立ち上がる。
「ハンナ、お願いね」
「はい。分かっております、奥様」
イングリッドが口に出さない思いを感じ取ったハンナが穏やかに頷き、夫とともにリビングを出て行くと壁掛け時計が時を刻む音だけがやけに大きく部屋に響くのだった。
母や長年勤めてくれているコックの料理よりも疲れた時に食べたくなるのは暖かくて優しいハンナの素朴な手料理であるギュンター・ノルベルトは、念願叶ったハンナの料理を食べながらも不機嫌さが収まらなかった。
「ギュンター様、そのように苛々しながらお食事をされると身体に悪いですよ」
「……ハンナは腹が立たないのか?」
「何がですか?」
一体あなたは何に対してそんなに腹を立てているのかと向かいに腰を下ろしたハンナは、どれだけの年を経たとしても世話をしてきた幼い頃の面影を残すギュンター・ノルベルトの前髪を撫でて乱して下ろさせると、世界規模の会社で陣頭指揮を執る辣腕社長から学生の頃に喜怒哀楽の感情を両親以上に見せてきた顔になる。
「さぁ、ギュンター様、ハンナにはお話し下さる約束でしたね」
それは彼が幼い頃-アリーセ・エリザベスが生まれて間もない頃-に交わした約束だったが、彼と妹が大きくなった今でも効力を発揮していて、その一言には逆らえないと溜息を吐いたギュンター・ノルベルトは、フェリクスがリオンと付き合っているのが気にくわないと拳を握るとハンナが目と口を丸くする。
「まぁ……」
「そうは思わないか? どうしてリオンなんだ……!」
仕事は多少出来る様だが不真面目にしか思えない言動が気にくわない、フェリクスにはもっと相応しい人がいるはずだと力説するギュンター・ノルベルトを微笑ましい顔で見つめたハンナは、リオンだから気にくわないのですかと問いかけ、そうだと力強く返答されてついにくすくす笑い出してしまう。
「ハンナ、笑い事じゃないんだ」
「ええ、分かっております。……リオンの出自が気に入らない訳ではないのですね」
ハンナが答えを想像しながら問いかけるとギュンター・ノルベルトの眉がくっきりと寄せられ、リオンの両親が殺人犯であろうと大統領であろうとあいつはあいつで関係ない、人の出自で判断するような男じゃないと自らを擁護した彼に頷いて先程己が乱した髪を撫で付ける。
「もちろん、ハンナは良く知っていますよ」
ギュンター様がそのような肝の小さな男ではないことを良く知っていますよと頷くと、ギュンター・ノルベルトが顔を背けて鼻息荒く言い放つ。
「しかも、今まで付き合っていた彼女とは別に遊び友達が山ほどいるんだぞ?」
そんな浮気性の男だとフェリクスを悲しませることは簡単に想像出来ると更に力説する彼にハンナが頬に手を宛て、ウーヴェ様がきちんとリオンをコントロールしていると思いますよと告げるとギュンター・ノルベルトの顔が更に面白くなさそうに歪む。
「……とにかく、気にくわないんだ」
「さぁさぁ、今はハンナの料理を食べて機嫌を直して下さい」
あなたのためにハンナが腕によりを掛けましたと笑う彼女にギュンター・ノルベルトも溜息ひとつで気分を切り替え、空腹を満たしてくれる今も昔も変わらない料理を美味しそうに食べるが、この優しい空気も料理もいつか喪われてしまうことを思い出した彼は、目の前で母よりも母親らしく暖かく優しい顔で笑うハンナとそんな妻をずっと見守り続けてきたヘクターの顔を交互に見つめるが首を傾げられて無言で肩を竦める。
「ギュンター様?」
「何でもない。ヘクター、まだ大丈夫なら後で少し飲まないか?」
その誘いはヘクターにとっては随分と遠い昔から響くもののように思えるが、リオンと比べればまだましだが同年代の子どもに比べれば随分と手のかかる子どもだったギュンター・ノルベルトもしっかりとした大人の男になっている証でもあることに気付き、うれしさを隠さない顔で頷くとハンナが頬に手を宛いながら溜息をつく。
「ギュンター様、あまり飲ませないでくださいよ」
「一杯ぐらいはいいだろう?」
「そうだ、せっかくギュンター様のお誘いなんだぞ」
ギュンター・ノルベルトの誘いは本当に貴重なものだと笑うヘクターにハンナも呆れそうになるが、ここにいる間は以前のように世話も出来るが家に帰れば顔を見ることもなかなか出来ないと気づき、男同士の時間に水を差すようなことは控えようと笑って二人に許可を与えるのだった。
疲労の色を隠さないでもたれ掛かってくるウーヴェをしっかりと支えていたリオンだが、ウーヴェの部屋に入ってソファに座ると、ウーヴェが頭痛を堪えながらリオンを見つめる。
「リーオ……さっきの言葉は本当なのか?」
「……利用されたってことか?」
ウーヴェの問いには真摯に向き合いたかったがそれ以上に今は空腹感を覚えていて、その苛立ちを言葉に載せてしまったリオンは、躊躇うように目をそらせるウーヴェに己の態度を教えられ、小さく悪いと詫びたあとにちゃんと話をしたいから今は本当に飯を食わせてくれと頼み、ウーヴェにもリオンを急かしていたことに気づかせる。
「……食べてくれ」
「ダンケ、オーヴェ」
自らの態度を互いの言葉で察して反省をした二人だったがリオンが訴えていた空腹を解消するために恐るべき早さでプレッツェルサンドを食べ終え、ウーヴェが持ってきたビールも水か何かのように飲み干してひとまずの満足を吐息で示すと、死刑執行前に己の疑問を解消したいと思っている顔で見つめてくるウーヴェに肩を竦め、ソファで向かい合うように姿勢を正したリオンは、同じように向き合ってくれるウーヴェの頬を撫でてさっきのことだと切り出す。
「さっきの利用されたって言葉だけど、多分間違ってないと思う」
「どうして、そう思う……?」
ハシムの両親が不法滞在だったとしてそれをどのように利用したんだとウーヴェが問い返すが、さすがにまだそこまでは分からないとリオンが肩を竦めつつも疑うことを許さない強い光を宿した目でウーヴェを見つめる。
「これは俺のカンだからはっきり言えねぇけど、でも、多分利用されたってことに関しては間違ってないと思う」
今日職場で事件の調書を読み返したときに感じた疑問とその後得られた確信は疑いようがないものだと直感が告げている。人のカンなど大してアテにならないと思うだろうが、でもそれを信じてほしいとも告げると、ウーヴェが考え込むように目を逸らすものの、だからどうして利用されたと思うんだ、カンの拠り所を教えてくれと問いかけると、今度はリオンが考え込むように天井を見上げる。
「親父が金で子どもを奪い取ったって前に言ってたよな。その憎しみや恨みからお前が誘拐されたってことなんだろうけど、それだけ憎んでたなら利用できるものは何でも利用するよな」
もしも自分が誘拐犯だとすれば復讐したい相手をいかに苦しめるかを考えるだろうし、利用できるものがあるのならば躊躇うことなく利用することを告げると、リオンの言葉よりも表情に何かを感じ取ったウーヴェが目を伏せ、額をリオンの肩に触れさせてくる。
「オーヴェ?」
「……刑事の目を甘く見るなと言っていたな」
「ボスやコニーらに比べたら薄っぺらい経験しかしてねぇけど、でも刑事として頑張ってるつもりだ」
だからその目を信じてくれれば嬉しいが、疑われても仕方がないと肩を竦めるリオンの胸元でウーヴェの髪が小さく左右に揺れ、またいつものように甘く見ていたことを反省する言葉も胸元にこぼれ落ちると、リオンの手がウーヴェの背中に宛われてぽんと叩くことでそれを許す。
「……やはり、ハシムは……利用されて、……たのか?」
途切れる言葉が悲しくてウーヴェの頭に頬を宛うように首を傾げたリオンは、これもまだ確証はないが可能性として最も高いのはハシムが両親の不法滞在をネタに主犯格の二人から脅迫され利用されていたこと、あと、事件で命を落とした大人たちは誰かしら繋がりがあり、主犯格の二人だけじゃなく全員が顔見知りの可能性も高いと告げればウーヴェの肩がびくりと揺れる。
「あの事件で本当の意味での純粋な被害者は……多分お前だけだ」
「ハシムが殺された、のはどうなんだ……!?」
あの事件の最中、人としての尊厳や当然の権利をすべて奪い取られたウーヴェに唯一残されたか細い救いはハシムという異国の少年だったが、その少年は無惨に命を奪われてしまった、それは被害者とは言わないのかと、顔を上げることなく詰られたリオンだったが、自身でも軽く驚きを覚えるほどの冷たい声で、残念ながら被害者であり加害者だと告げてウーヴェの顔を勢いよく上げさせてしまう。
「どう、いうことだ……!?」
「……ハシムは利用されていた。お前の側にいて信頼させろと命じられていてもおかしくない。もしそうなら……いくら脅されていたからと言っても、ある種の加害者だ」
「だ、けど、被害者でもある……! あ、んな……最期……っ!」
加害者である前に被害者だと言い張るウーヴェの顔色は本当に悪くて痛ましかったが、その頬を両手で挟んでじっと目を見つめたリオンは、10歳にもなれば色々な知恵をつけるし、また周囲にいる人間によって色々教えられることを己の経験から呟いて苦く笑えば、ウーヴェの目が見開かれていく。
「ハシム、も、……そう、だと言う、のか……?」
「不法滞在するような親に育てられた子どもだから何をしでかすか分からないとは思わねぇけど、周囲がそう思っても、それを犯人が利用してもおかしくはない」
自分の場合にはマザー・カタリーナという絶対に揺るがない保護者がいたにも関わらずに様々な悪事に手を染めてしまった。
そんな存在がハシムにはいただろうか、また彼の両親にもそんな人たちがいなかったとすれば、当然彼の周囲にいる大人はどんな類の人たちかは見なくても分かることだ。
己の過去を振り返っているようで断言するのは心苦しいが、悲しいかな現実はそうなんだと呟くリオンにウーヴェが口を開いては閉ざすが、ハシムはそうじゃないと俯いてしまう。
「俺もそう思いたい。だからもしかすると、この日記から何かが分かるかも知れない」
そう思って日記を持って帰ってきたから、一緒にそれを読もうと告げてウーヴェの顔を覗き込んだリオンは、長い長い沈黙の後に短く分かったと返されて安堵に胸を撫で下ろす。
「……さっきのようにお前の刑事としての目を甘く見ることになるかも知れないが……」
あの時、ずっと側にいてくれたハシムの優しさは嘘や仕組まれたものではないと思いたいと、過去の己の経験からくる感情に従ってしまう気持ちを抑えきれずに声に滲ませたウーヴェにリオンが無言で頷いて髪にキスをする。
「……分かってる。そのことでお前を責めたりしないから安心しろ」
事件の最中、きっかけはどうであれハシムの存在がお前の望みだったことは分かっているつもりだとも伝えると、リオンの胸に小さな子どものような吐息がこぼれ落ちる。
「ダンケ、リオン」
ウーヴェの身体にしっかりと腕を回して抱きしめたリオンは、そのままソファに倒れ込むと、見下ろす形になったターコイズ色に浮かぶ悲哀にきつく目を閉じる。
何不自由なく家族の愛情に囲まれて育っていたウーヴェがある日突然巻き込まれた事件、その中で知り得た同い年の少年の悲しい最期を思えば彼が事件の中で背負っていた役目が気になるが、それよりも何よりも年端もいかない少年に一方的にすべてを押しつけた周囲の大人たちへの怒りが静かにわき起こってくる。
今日の午後に得た確信だったが、純粋な被害者がウーヴェ一人であることは疑いようがなく、それだからこそ事件を企んだ犯人たちの意図に怒りと底知れない恐怖を感じてしまう。
それをまだウーヴェに伝えるわけにはいかないために何とか押し殺したリオンは、疑いを抱きつつも全幅の信頼を寄せる目で見上げられて自分が不安を感じる以上にそれを感じているのが誰であるかを思い出せとのマザー・カタリーナの言葉も思い出すと、自然と口元に笑みが浮かび上がる。
「……大丈夫だ、オーヴェ」
「リオン?」
「たとえ事件でハシムがどんな役目を背負わされていたとしても、どんな事情が死んだ人たちにあったとしても、お前にとってのハシムはあのとき感じていたものから何も変わらない」
だからそんな不安な顔をするなと、ただ一人ウーヴェだけを安心させる顔で頷くと、その思いが伝わったのか一瞬笑顔が浮かびそうになるものの、まるで何かに引きずられたかのように表情が曇り、戻りかけていた血の気が失せていってしまう。
「オーヴェ?」
「……な、んでも……な、い」
「またそんなことを言うだろ?」
その顔を見てなんでもないと言われて納得できる奴がいるのかと声を潜めるリオンに、ウーヴェがきつく目を閉ざして顔を背け掠れた小さな声で悪いと謝罪をする。
「……ま、いいか」
今だけは仕方がないと己を納得させるリオンにウーヴェが安堵の溜息をつくが、リオンに引き起こされてソファに座り込むと、それだけで限界なのかそのままリオンの身体に寄りかかってしまう。
「親父たちに話をしてこなければならないけど、オーヴェはどうする?」
レオポルドたちとの約束を果たすために階下に行って話をしなければならないがどうすると問えばウーヴェの髪が小さく左右に揺れたため、小さく頷いてその髪にキスをする。
「じゃあレオと一緒に寝てろよ」
「……そう、する」
「ああ」
どのくらい親父達と話をするのかは不明だが、なるべく早く戻って来ることを告げ、その間レオと一緒にベッドにいろとも告げると、己の身体とソファの間でウーヴェが小さく頷き震える吐息を零す。
「……リーオ……」
出来るだけ早く戻って来てくれと密かに懇願されてしまったリオンは、確約は出来ないがとにかく親父達と話をしてくることを再度告げてウーヴェを立ち上がらせると、力が入らないようなウーヴェを支えてベッドに連れて行き、先日のようにテディベアを枕元に置いて掛け布団を引っ張り上げる。
「レオがいるから大丈夫だろ?」
「……」
「眠れねぇかもだけど、ちょっとだけでも寝てろよ」
眠る事で考えすぎる脳を休める事になると苦笑するリオンをウーヴェが全幅の信頼を置く目で見つめ、その言葉に従う様に目を閉じる。
自ら閉ざした世界の中で瞼と喉に濡れた感触を覚えたウーヴェだったが、程なくして聞こえてきたドアが開閉された音からリオンが出て行ったことを知り、目を閉ざしたまま手をテディベアの足の上に載せて何度か深呼吸を繰り返すのだった。