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1929年、10月24日木曜日。この全世界の株式が暴落この時。世界、国、街並みに死神が溢れかえった日である。ここドイツのベルリン郊外にあるブランデンブルグ門にも死神の影響が出ていた。
ある若者が薬雨の雨宿りとして誰もいない門でため息をついた。ここベルリンも荒廃し街も死界のようにとても言葉で表現できないような状態だった。
[会社も倒産したし……家も追い出されたし……食べ物もお金もない……] とマルクと書かれた紙を眺めながら若者が呟く。申時の頃である。
コツコツコツ、誰かがやってくる事に気付いたが若者は洋服屋のマネキンのように起き上がる気力も失っていた。
[OK? OK? Wenn Sie noch leben, antworten Sie bitte! ] そう誰か声をかけている。私は柱に鉛がついたような重い体をゆっくりと起こし目を開けた。
[大丈夫? 大丈夫? 生きてるなら返事をしてください! ]
そこには可憐な金髪の女の子がいた18歳くらいで私と同じくらいだろうか、そう思いつつ返事をすると、、
彼女はボロボロのバックから何か袋を取り出し私の手に握らせた、包み紙であった。恐る恐る開いてみるとキャラメルキャンディだった。聞くと彼女はベルリン郊外でお菓子屋さんを営んでいるらしい。しかしあまり繁盛してなかった上に死神が襲ってきた影響で八方塞がりで路頭でお菓子を売っていた時に門で一人倒れていた私に売れ残っていた飴を渡してくれたらしい。
そんな飴を嗜みながら他愛もない話をしてるうちに少しずつ生きる活力と彼女に対する好奇心。好意が生まれた。それとばかりか、飴はとても甘く、そして少しばかりがほろ苦かった。
次の日私ははある決心をした。あの飴玉のように苦しい人を立ち直らせるようになりたい、あの子に恩返しがしたい。そう思うようになっていた。その日は夕立がとても綺麗だった。
その日から話が葉に滴る水のように流れが進み若者はとある党に入党していた。、その党は公共事業や経済対策によりどんどん国の復興を進めた。しかし1933年。ここまではすべてが上手く言っていた。それなのに……、、
-少数民族の迫害政策を始める- そうその党の指導者が発表した。
ふとその女の子と包み紙を思い出した。 無性に口の中がほろ苦かった。
次の日。その手始めとして私はベルリンのあの門に党の新鋭隊とその指導者に同行させられた。伊勢清めの雨の日であった。
門の柱の陰をみると、ー
少数民族がたくさん隠れていた。それもひな鳥が巣にいるかのように怯えている。
[ーーーーーやりたまえ。] そう指導者の一言で私はライフルを構えの引き金に指をかける。
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ふとー、ここへ来ると何か懐かしい感じがする。 あの日あの時あの瞬間、ここで私は助かった。助けられたというほうが正しいであろう。キャラメルの匂いがする。ほろ苦くそして人を包むように甘く。ハッとした。 そうだ。俺はこんな事がしたかったんじゃない。
困ってる人を助けたいんだ、、、あの子のように……!!
[どうした。さっさとやりたまえ。]指導者が声を荒げる。私はその瞬間にその指導者に向かって銃口を向けた。
私は咄嗟に[逃げろ!!! 早く逃げろ!!!! ]と声と喉張り裂けるように叫んだ。
1945年 フランス時間5月8日にすべてが終わった。
死神が来てそこから悪魔が通り去りここ、ブランデンブルグの門の柱にある金髪の女の子が、知恵の種で育ち、愛のような太い茎で伸び、この悪夢から目覚めたような平和な花。
ーオリーブの花を献花していた。
今日は禊ぎの雨が降っていた。