テラーノベル
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ある日の夜。
その日は満月のはずだったが、厚い雲に覆われて、月の光は一切落ちてこなかった。
闇は静かで、六年生の長屋も寝息だけに包まれていた。
――ドンっ。
鈍い音が、廊下に響く。
一瞬の間もなく、仙蔵が身を起こした。
音の方向を確かめるまでもない。
弦の部屋だ。
障子を開ける音を、最小限に抑えながら中に入る。
その瞬間、仙蔵は足を止めた。
部屋の真ん中に、弦が立っていた。
裸足のまま、
何もない空間を、まっすぐに見つめて。
「……英二郎……」
声は、震えている。
けれど、そこに“誰か”がいるような、はっきりとした呼び方だった。
「……あの時……
……俺……」
弦は、一歩、前に出る。
何もないはずの場所へ。
「……助けられなくて……
……ごめん……!」
声が裏返り、膝が折れる。
そのまま、そこに向かって頭を下げた。
「……俺… ……怖くて……
……動けなかった……!」
涙が落ちる。
畳に、ぽつり、ぽつりと。
廊下から駆けつけた文次郎が、思わず前に出る。
「弦――」
その腕を、仙蔵が静かに制した。
「……待て」
低い声。
強くはないが、はっきりとした制止。
文次郎は戸惑いながらも、弦を見る。
「……仙蔵……?」
その疑問は、すぐに消えた。
弦の視線が、確かに“誰か”を追っていることに気づいたからだ。
そこには、何もない。
だが、弦の目には――
「……言いたかった……
……ちゃんと……
……一緒に帰ろうって……」
嗚咽が混じる。
「……置いていきたくなかった……
……!」
声を上げて、泣く。
それは、これまで誰にも言えなかった言葉だった。
言ってしまえば、現実になる気がして。
弦は、そこにいる“英二郎”に向かって、すべてを吐き出していた。
謝罪も、後悔も、
言えなかった言葉も。
「……英二郎……」
その名を呼ぶ声は、
今までで一番、近かった。
文次郎は、唇を噛みしめる。
止められない。
止めてはいけない。
仙蔵は、ただ見ていた。
これは幻覚だ。
分かっている。
だが――
弦にとっては、違う。
今この瞬間、
弦の前にいるのは、
確かに“親友”なのだ。
弦は、何もない空間に手を伸ばす。
触れられない。
それでも。
「……ごめん……
……ごめん……!」
そのまま、崩れ落ちる。
誰も、声をかけなかった。
誰も、引き離さなかった。
雲に隠れた満月の夜、
弦は初めて――
英二郎に、すべてを話していた。
たとえそれが、
弦にしか見えない存在だったとしても。
廊下に、気配が増えていく。
物音を聞きつけた伊作。
その後ろから留三郎、小平太、長次。
次々に、弦の部屋の前に辿り着く。
障子は半分開いたまま。
中の様子は、すぐに目に入った。
——弦が、いる。
——そして、何もない場所に向かって話している。
「……英二郎……
……あの時……」
伊作は、思わず一歩踏み出しかけた。
「弦——」
その瞬間。
仙蔵が、静かに手を伸ばし、制した。
声は出さない。
ただ、首を横に振る。
伊作は、その意味を問いかけるように仙蔵を見る。
仙蔵は、視線だけで返した。
——今は、駄目だ。
留三郎も、弦の様子を見て理解する。
喉まで出かけた言葉を、飲み込む。
文次郎は、すでに拳を握りしめていた。
止めたい。
抱きしめたい。
現実に引き戻したい。
それでも、動かない。
小平太は、歯を食いしばったまま、黙って立つ。
長次は、弦が向けている視線の先を見て、そっと目を伏せた。
部屋の中。
弦は、誰かが来たことに気づいていない。
「……逃れなかった……
…お前を連れて……
……俺が、弱いから……」
涙が、止まらない。
「……一緒に帰ろうって……
……約束、したのに……」
何もない空間に、必死に言葉を投げる。
そこには、
返事も、動きも、
何ひとつない。
けれど弦は、確かに“会話”をしていた。
伊作は、息を殺す。
——もし、ここで声をかけたら。
この時間を、
この“英二郎との距離”を、
壊してしまう気がした。
仙蔵は、低く囁く。
「……今は、触れるな」
「弦が、自分で終わらせる」
誰も、反論しなかった。
弦は、最後にもう一度、名前を呼ぶ。
「……英二郎……」
声は、疲れ切っている。
それでも、必死だった。
その場にいる六年生全員が、
同じことを思っていた。
——これは、救いじゃない。
——でも、必要な時間だ。
誰も、口を開かない。
ただ、
雲に隠れた満月の下で、
弦が“見ているもの”を、
否定しないために。
静かに、
息を潜めて、
その夜を見守っていた。
満月の日多すぎてごめんなさい…😭😭😭
(これからもほぼ満月です)
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