テラーノベル
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歩きながら、また記憶が滲み出すように流れ込んできた。白い大理石の廊下。いつも冷たい母の指が、オランジェットの肩に置かれる。「背筋を伸ばしなさい。微笑みなさい。あなたはドナー伯爵家の長女なのよ」同じ血を分けた双子の妹、ミランジェは、母の隣で自由に笑っていた。
髪を振り乱して庭を駆け回り、ドレスを汚しても叱られない。「ミランジェはまだ子供だから」と、母は優しく許す。けれど、オランジェットには許されない。
長女だから。跡取りだから。伯爵家の顔だから。完璧でなければならない。泣いてはいけない。弱さを見せてはいけない。だから、いつもひとりで鏡の前で練習した。泣きそうな顔を殺して、微笑む練習を。夜、誰もいない部屋で、枕を噛んで泣いた。鏡の中の自分に、小さく呟いた。
「私……いつまで、こんなふうに生きなきゃいけないの?」
その答えは、誰にも返ってこなかった。私は歩きながら、ぎゅっと拳を握った。
(もう、いい)
(お前はもう、ひとりじゃない)
(私がいる)
胸の奥で、オランジェットの涙が、私の怒りに溶けていくのを感じた。
「ここだよ」
レオンの「オランジェ、こっちだ」という低い声で、はっと我に返った。薄暗い馬小屋の中、藁の甘い匂いと馬の体温が混じり合っている。三頭の馬がこちらを見ていた。白い馬はレオンに気づくと、すぐに鼻を鳴らして近寄り、彼の手に大きな頬をすり寄せる。
優しい琥珀色の瞳が細まり、まるで「遅かったじゃないか」と言っているようだった。
レオンは苦笑しながら、その首筋を撫でてやる。一方、黒毛と赤茶の馬は、見慣れない私とリバーを見て耳をピンと立てた。黒い方は前脚で地面を蹴り、赤茶の方は急に後ろ足で立ち上がって、ヒヒィーン!と威嚇のいななきを上げる。
「……おっと、落ち着け」
リバーが慌てて手を差し伸べるが、馬はさらに耳を伏せて興奮する。私は一歩前に出て、静かに息を吐いた。怖くない。馬は嘘をつかない。怯えているのは、こっちも同じだ。
「……大丈夫だ、私の名前はオランジェだ」
私はゆっくりと手を差し出し、赤茶の馬の鼻先に近づけた。熱い息が指にかかる。最初は鼻を鳴らしていた馬が、ふっと息を落ち着かせ、私の手をそっと嗅ぎ始めた。レオンが驚いたようにこちらを見た。
「……馬、嫌いじゃなかったんだ?」
「ううん。初めてだけど……なんとかなる気がした」
私は小さく笑った。だって、こいつらも私と同じだ。知らない場所に連れてこられて、怯えて、でも必死に生きようとしている。私たちは、同じだから。
リバーが手綱を引いて、白い馬と赤茶の馬を小屋から連れ出す。
赤茶の馬はリバーの黒髪に鼻を突っ込み、フンフンと熱い息を吹きかけて匂いを嗅いだ。どうやら川上の匂いも合格らしい。尻尾を振って、嬉しそうに首を振る。レオンが白馬の鐙を整えながら、ちょっと困ったように私を見た。「オランジェット、君は馬に……乗れそうかい?」私は頷いた。
……まあ、乗ったことはないけど。
でも、ドレスの裾はもう自分で力任せに引きちぎったせいで、膝上二十センチは軽く出ている。日本ならミニスカートなんて当たり前だけど、この世界じゃ完全にアウトな長さだ。レオンとリバーが同時に視線を逸らした。
レオンは耳まで赤くなり、リバーは包帯の隙間から顔を真っ赤にして「うわっ……」と小さく呻く。「……見ないでよ」私が睨むと、二人は慌てて背を向けた。「見てない見てない!」「見、見てません! 誓って!」……嘘つけ。
ちらちら見てたでしょ。私はため息をついて、赤茶の馬の鐙に足をかけた。
「行くよ。ドナー伯爵の屋敷まで」
短い裾が風にひらりと舞い、朝日が素足を照らす。もう、隠すことなんて何もない。私はここから、オランジェット・ドナーの人生を、全部取り戻しに行くんだ。
馬上の風は冷たく、でも気持ちがいい。私は赤茶の馬にまたがり、リバーが白馬、レオンが黒馬。三頭の蹄が石畳を蹴り、朝の市場を抜けると、たちまち街の外へ出た。道は緩やかな下り坂から、森の小径へ。
木漏れ日がドレスの破れた裾をちらちらと照らし、馬のたてがみが私の頬をくすぐる。最初は鞍が硬くて尻が痛かった。鐙に足を入れる位置も分からず、馬が少し跳ねるたびに「うわっ」と声を上げてしまう。レオンが横から手を伸ばして、私の腰を支えてくれた。
「もっと膝で挟んで」
「……こう?」
「うん、上手い」
彼の指が一瞬、素肌に触れている。熱かった。リバーは先頭を走りながら、時々振り返る。包帯の隙間から覗く顔は真っ赤で、視線が私の脚にいきそうになると慌てて前を向く。
……川上、相変わらず純情だな。
森を出ると、広大な麦畑が黄金色に揺れていた。遠くに見える丘の上に、白い石造りの大きな屋敷が見えてきた。ドナー伯爵家の屋敷。
「リバー、あれがそうなのか?」
「はい、ドナー伯爵様のお屋敷です」
胸がどきどきする。あの中に、オランジェットの過去が、全部詰まっている。私は無意識に手綱を握りしめた。
「……もうすぐだ」
馬が最後の坂を駆け上がる。蹄の音が、まるで私の鼓動みたいに高鳴った。
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