ゆっくりと更衣室の扉が開かれる音が続く。
「失礼します」
まずい、誰か来た。
慌てた和臣は咄嗟に立ち上がり入口に背を向け、白衣の袖で眦を拭う。
「あれ、東宮先生まだ残ってたんですか?」
背後からかけられた声に、和臣はハッと双眼を見開く。
何でこんな時に、一番顔を合わせたくない男がやってくるんだ。
「先生? どうかしました?」
「いや、な……んでもない。お前こそ何で……」
「何でって、もう上がりの時間だから……」
今日、西条は遅上がりで二十三時までの勤務だったはずだと時計を見上げて、和臣はすぐに自分を殴りたくなった。
時計の針は西条の退勤時間を軽く超え、そろそろ日が変わる時間に迫っている。こんな時間まで残っていれば、西条がやってくるのも当然だろう。
しかし、まさかこんなにも時間が経っていたなんて、思いもしなかった。
「先生こそどうしてこんな時間まで?」
何かあったんですかと問われ、和臣は西条に背を向けたまま首を横に振る。
「ちょっと用事があっただけだ。もう帰る」
「あれ……先生、もしかして体調悪いですか? 少し声おかしい……」
些細な変化を指摘され、心臓がギュッと絞まる。
さすがは医者。気づくのが早い、なんて今は皮肉にしか思えない。
「別に何でもない」
動き出した足音で西条がこちらに近づいてくることが分かり、振り返ることができない和臣は声で制しようとする。が、これは逆効果だった。
「調子の悪い患者ほど、何でもないっていうんです」
同じ医者なんだから隠さないでください、と言いながら西条が前に回ってくる。和臣は咄嗟に身体を向きを逸らそうと考えたが間に合わず、真正面から最悪な顏を見られてしまった。
「え……先生、泣いて……」
和臣の顏を覗き込んだ西条の表情が固まる。
「どうしたんですかっ? 何かあったんですか?」
「……っ、違う!」
西条が驚いているうちに一歩距離を取り、再び背を向ける。
「ほ、本当に何でもないし、お前には関係ないことだ。だから放って……」
「何もないのに先生が泣くわけないでしょう! それにたとえ関係なくても、こんな先生を放っておくことなんてできません!」
和臣の言葉を遮って西条が近づいて来る。
「俺、ずっと先生に助けられてきました。だから、ほんの少しでいいですから、俺にも先生を支えさせてください」
「あ……んなことに、恩義なんて感じなくていい。あれは……」
こっちが利用したことなのだから。真実が脳裏を過ったが、臆病な自分は咄嗟に言葉を喉の奥へと引き戻した。
「先生?」
「……とにかく個人的なことなんだ。オレ一人でどうにかできるから、お前は心配しなくてもいい」
どうにかしてでも西条を遠ざけたい和臣は、頑なに言葉を跳ね返す。そしてそのまま顔も見ずに更衣室から出て行こうとした時、不意にトン、と軽い衝撃が背中に響いた。
温かな体温が肩甲骨の辺りから広がったと同時に、逃げようとしていた身体が背後から引く力によって止められる。
気づいた時には、西条の長い腕に捕まっていた。
「さ、西条っ、おまえ、ここをどこだと思ってるんだっ」
突然抱き締められたことに驚き、声が慌ててしまう。
「誰かに見られたらどうする!」
今の状態を見られたら二人は恋人同士なのでは、なんて変な勘違いをされてしまう。焦燥から、和臣は何とか西条の腕から逃れようとするが、和臣を閉じ込める力はことのほか強くて、抜け出すことができない。
「西条っ!」
「大丈夫です。この時間に男子更衣室を使う人間はもういません」
今夜の夜勤担当は女医の横手で、男性看護師も日勤ですでに帰った。西条にそう説明され、一気に高まった焦燥が穴が空けられた風船のように萎んでいく。
「何で……」
「先生を逃がさないためです」
耳元で甘い声が響く。するとたちまち背筋がぞくりと震えた。
頭はまだ警告音を出し続けているのに、和臣の身体は意思に反して力を抜いてしまった。それどころか突然与えられた幸福に喜びを訴え始める始末で、己の身体ながら恨めしく思えて仕方なかった。
「――先生は温かいですね」
「え……?」
「俺、ずっと東宮先生のこの優しい温もりに守って貰ってきました。先生がいたから、今日まで小児科医を続けて来られたんです」
「西条……」
「俺にとって先生の背中はすごく大きくて、なかなか手が届かないものだけど、こうして抱き締めると意外に小さくて……。俺でも捕まえていられることができるんだなぁって、嬉しい気持ちになったりするんですよ」
ゆったりとした口調で語る西条の言葉は心から先輩を慕う後輩のそれで、いつもの和臣だったら『お前に小さいなんて言われるなんて心外だ』なんて嫌味の一言でも返していたが、今はそれが酷く重たく感じて苦しみばかりが生まれた。
「……オレはお前が思うほど立派な医者でもないし、手が届かないものでもない。……価値のないものだ」
「価値がないだなんて、どうしてそんなことを言うんです? 誰かに何か言われました? だったら俺が抗議してきますよ。俺の大切な人に何て失礼なことを言ったんだ、ってね」
「別に、誰かに何かを言われたわけじゃない。本当に、違うから……」
だから変なことは考えなくていいと言うが、西条の腕の力は一向に弱まらない。
「ねぇ、先生。俺、研修医時代からずっと一緒にいますけど、俺が長年見てきた先生は理由もなしに自分を卑下するような人じゃありません」
「西……条……」
「俺が研修医の頃、言ってたじゃないですか、『卑屈な医者に、人の命を預かる資格はない』って。そんな人が自分に価値がないだなんて、おかしく思わない方が変ですよ」
弱いところを突かれ、和臣は何も言い返せなくなる。確かに自分は昔そう言って西条を指導したが、それを覚えていたなんて思いも寄らなかった。
「俺は先生の背中だけ見てきたんです。先生のことなら何でも知ってるって自負がありますし、知らないことがあるならワガママだって言われても全部知りたい。だから教えてください。今、先生を苦しめているものが何なのか」
俺にも背負わせて欲しい。
お願いしますと切なく請われ、心の奥が震えた。
ーー西条に寄りかかりたい。
ーーだめだ、自分は指導医だ。そんなことは許されない。
ーーほんの少しだけでいいから
ーーいけない。幻滅されるぞ。
真逆の感情が、せめぎ合う。
だけれど。
西条の温もりとともに少し早くなった鼓動がこちらに伝わってきた瞬間に、すっかり弱りきった心が白旗を上げた。
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