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「……かったんだ」
「え?」
「怖……かったんだ」
「怖い?」
「今日のコードブルーだよ……。他科の医師たちから『小児専門だろう』『分かるはずだ』って確定診断を求められた時、間違えたらどうしよう、誤った処置で死なせてしまったら、って急に全部が怖くなって……何も考えられなくなった」
そのせいで処置が遅れてしまったと、正直に告げる。すると西条はすぐに「うーん」と疑問を表すような声を発した。
「でもあれは稀にあるかどうかの特異な状態でしたし、あの場合は東宮先生だけじゃなく、他の先生たちも病名を特定するために考えるべき状況ですよね? だったら東宮先生だけのせいじゃ……」
「けど患者は子どもだ。身体のつくりが大人と違う分、成人症例に照らし合わせて考えるより、専門医に委ねたほうが賢明だってことくらいお前だって分かるだろう」
医者だって人間である。救命救急科で毎日全身治療と接しているなら別だが、そうでない一般の専門医に老若男女、頭から爪先まですべての病態を把握しろというほうが無理だ。
「それなのに自分の専門分野の対応すらできなかった。オレは……っ、医者失格だ」
覚悟を決め、恐れている言葉を形にする。しかし、西条はすぐにフッと軽い苦笑を零した。
「先生が医者失格なら、オレは医学部受験からやり直しですよ」
「茶化すな、オレは――――」
「茶化してません。だって先生がどれだけ優秀な医者かは俺が一番よく知ってますし、それに原因が判明した後の処置を見た限りでは、先生が言うような不安は感じませんでしたよ。きっとその時はたまたま調子が悪かったとかじゃ……」
「今回たまたまじゃない。きっとオレはこれからだって……」
同じ現場に出会したら、同じ状態になる。そんな不安しかなくて、今は患者の前に立つことすら申し訳ないと感じてしまっているぐらいだ。
「どうしてそう思うんです?」
「どうしてって……」
問われ、和臣は閉口する。
理由を問われても、ただ漠然と自分がこの先も使い物にならないとしか思えないだけ。けれどそのことが上手く説明ができず、和臣はまごついてしまう。
「もしかして、自分でも不調の原因が掴めてないとか?」
「それは……」
「ほら、普通の人だって何もなしにそんな状態にはならないでしょう? 何か……たとえば直前に衝撃的なことがあった、みたいな要因があって一時的に自分を見失ってる、とか」
そういったことが起こらなかったかと聞かれて、和臣は誘導されるまま考え込む。と、一番に出てきたのは。
『――――いやだ、西条を失いたくない』
音のない部屋で一人慟哭する、己の姿だった。
「……っ、ぁ……」
思わず小さな声が漏れる。目の前のロッカーを映していた瞳がこれでもかというほど開いていくのが、自分でも分かった。
今日の緊急事、咄嗟に浮かんだのは以前、救うことができなかった患者の保護者の顔だった。だから一番の原因はそれだと思っていたが、弱かった頃の自分を思い出すきっかけとなったのは、西条の喪失だった。
気づいてしまった事実が胸にストンと落ち、納得という二文字を弾き出す。
そう、やはり自分は西条の喪失を受け入れられないのだ。
これはもはや依存だ。しかも重度の。
――まるで少し前までの西条じゃないか。
患者の死を受け入れられず、目の前の道を見失いかけてしまう以前の西条。だが西条と自分で大きく違うところは、自身で処理できない不安を支えてくれる相手が隣にいるかいないか、だ。
西条には自分がいた。
でも自分は西条を心の拠り所にすることはできない。
誰かを西条の代わりにすることも無理だ。
なぜなら、西条を愛してしまってるからだ。
こんな状況で一体どうすればいいというのだ。
「先生? 何か分かったんですか?」
「え……いや、何も……」
西条が静かに尋ねてきたが、和臣は首を横に振って否定する。
原因を掴むことはできたものの、本当のことなんて言えるはずがない。
とりあえずここは悟られないようにしよう。そう決めて話題を逸らそうと思考を巡らせるが、良案が思いつくより先に背後から呆れを含んだ溜息が聞こえてきた。
「先生って驚くぐらい嘘が下手なんですね。そんな態度見せたら、『原因が分かったけど、言いたくないから逃げたい』って言ってるようなもんですよ」
西条は、最初に和臣が小さく声を零した時点で気づいたという。
「っ、気づいたんだったらーー」
「嫌です。先生が原因を教えてくれるまで、絶対に離しません」
より強く抱き締められ、拒絶を奪われる。
「何でっ……」
こんなにも強情なのだ。人のことなんだから放って置けばいいのに。眉根を寄せ文句を吐いてやろうとした時、フッと首筋に密着した西条の息が吹きかかかった。
「んっ……」
するとたちまち身体が火照ってしまい、また和臣の中の焦燥が色濃くなる。
こんな時に反応してしまう自分の身体が恨めしい。
「西条……頼むから、離してくれ」
「すみません。俺だって先生のお願いなら何でも聞いてあげたいです。でも今、先生を手放したら二度と捕まえられない……そんな気がするので、絶対に離しません」
優頑なに腕の拘束を解こうとしない西条に、和臣は唇をグッと噛んでから大きく動いてみる。だが体格も腕力も差がありすぎて、わずかの隙間すらできなかった。
やがてあまりの無力さに途方に暮れてしまった和臣は、両目を閉じて長い溜息を吐いた。
諦めが、指先からじわりじわりと全身に広がる。
「理由を聞いて後悔するのはお前だぞ……」
「聞かずにいるほうが後悔します」
「お前は俺のことを絶対に軽蔑する」
「大丈夫、俺はどんな内容でも先生を軽蔑したりしませんから」
おそらく、西条は何を言っても退かない。
だったらもう真実を告げてしまったほうが楽になれるかもしれない。
どうせ話しても話さなくても、結果は変わらないのだから。
もう全部話して、全部壊してしまえ。
自暴自棄になった心が、思考を放棄する。