責められているわけではないのだが、言い訳をするように蓮の喉トントンの仕草。
「き、君も俺くらいの歳になったら分かるよ。いろんなことがポロポロ抜け落ちていって、恐ろしいくらいに忘れてしまうんだ」
言い訳しながら歩を進めるものだから、例によって足元が留守になる。
よろりとよろけた蓮は、ネモフィラを踏まないように身体をずらした結果、派手に転んでしまった。
「痛た……。ほら、三十路になると、こんな何でもない所で転んでしまうんだよ」
呻きながら起きあがる蓮に、梗一郎が手を差し伸べる。
すまないねぇと手を取りながらも、蓮はすこしホッとしていた。
強張って見えた梗一郎の表情が、今はすっかり和らいでいたからだ。
手を取られ、教員棟の通用口へと入っていく。
「花咲」とネームプレートのついた扉を開けるなり、上からファイルが落ちてきた。
今度は別の意味で梗一郎が顔をしかめる。
かすかに漏れるうめき声。
「もう、小野くん。ドアはそっと開けなきゃいけないよ。部屋が崩壊するじゃないか」
口を尖らせながら蓮がファイルを拾って、さらなる崩壊を招いている。
床に用紙が散乱した。
「なんでこの部屋、こんな汚……グチャ……散らかっ……その、整頓されてないんですか」
「うわぁ、ものすごく言葉を選んだ言い方だねぇ」
そこそこスペースのある教員準備室だが、左右の壁に設置された書棚には天井まで本が詰め込まれている。
奥の窓辺で本と書類に埋もれているのはデスクであろう。
部屋の中央に並べられた会議用の長机の上もまた然り。
「この春に着任されたっていうのに、もうこの散らかりよう……」
「的確に状況説明しないでくれよ。違うよ? 俺だけじゃないよ? よその部屋もみんなこんな感じだよ?」
「いやぁ、どうでしょう……」
さすがに恥ずかしくなったか、蓮が長机の上に散乱していた書類を一か所にまとめ始めた。
「来月、学会の発表があるから準備で大変なんだよ。なのに、お世話になってる先生がアンケートの集計とか雑用を押しつけてくるから」
あまりに聞き苦しい言い訳を、梗一郎はサラリと流してくれた。
「集計でしたら僕が手伝いますよ」
「エッ、ホントに」と叫んで優等生を見上げる新米講師。
「ダメだ、君……君はダメだ。なんでこんなに良い子なんだ。なんかホントにキラキラしてるじゃないか!」
「……ちょっと先生が何を言ってるか分からないですね」
さりげなくひどい言葉を吐きながら、梗一郎は足元に転がっているペンを拾った。
指先でクルクル回しながら、ふと不思議そうに小首をかしげる。
「おや、気付いたかい? さすが小野君、お目が高い」
「お目が高いって何ですか」
梗一郎の手元にあるのはシャープペンシルである。
隣県の有名な博物館のマークが刻まれていることから、ミュージアムショップで購入したものだと思われた。
ペンの持ち手には絵柄がプリントされており、梗一郎が目を細めたのはそれがユーモラスな動物のイラストだったからだ。
デフォルメされたウサギとカエルが並んでいる。
まるで日常会話を楽しんでいるかのように、表情に愛嬌がある。
「鳥獣戯画ですね。可愛らしいですよね」
擬人化された鳥や獣が生き生きと描かれた、国内最古の漫画とも呼ばれる絵巻物の名をあげ、梗一郎は蓮にペンを返そうとした。
しかし、連は受け取ろうとしない。
よくみると、口元に不敵な笑みが浮かんでいた。
「よく見てごらん。それ、鳥獣戯画とは微妙に違うから」
「そうですか?」
クルクルと回転させたペンのイラスト。
その一点で、梗一郎の目元が歪められる。
可愛らしい表情のウサギが、カエルの足をクイと左右に広げて伸しかかっている図だ。
「これはまさか……いや、どうみても。いや、そんなはずは……」
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