テラーノベル
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「断れなかったの?」
ドロシーは眉をひそめる。
「ドロシーの安全にもかかわることなんだ、仕方ないんだよ」
俺はそう言って、諭すようにドロシーの目を見た。
ハッとするドロシー。
「ご、ごめんなさい……」
うつむいて、か細い声を出すその姿に、胸が痛んだ。
「いやいや、ドロシーが謝るようなことじゃないよ!」
ちょっと言い方を間違えてしまったかもしれない。
「私……ユータの足引っ張ってばかりだわ……」
「そんなことないよ、俺はドロシーにいっぱい、いっぱい助けられているんだから」
なんとかフォローしようとしたが、ドロシーの目には涙があふれてくる。
「うぅぅ……どうしよう……」
ポトリと涙が落ち、その一滴にドロシーの心の重みを感じた。
「ドロシー落ち着いて……」
俺はゆっくりドロシーをハグした。どうしようもない震えが伝わってくる――――。
「ごめんなさい……うっうっうっ……」
嗚咽する背中を俺は優しくトントンと叩いた。
「ドロシー、あのな……」
俺は自分のことを少し話そうと思った。これは長い間隠してきた真実を明かす時なのかもしれない。
「俺、実はすっごく強いんだ」
俺はドロシーの瞳をまっすぐに見た。
「……?」
「だから、勇者と戦っても、王様が怒っても、死んだりすることはないんだ」
「え……?」
いきなりのカミングアウトに、ドロシーは理解できてない様子だった。その表情に、戸惑いと混乱が見える。
「……、本当……?」
ドロシーは涙でいっぱいにした目で俺を見つめた。
「本当さ、安心してていいよ」
俺はそう言って優しく髪をなでる。
「でも……、ユータが戦った話なんて聞いたことないわよ、私……」
「この前、勇者にムチ打たれても平気だったろ?」
俺はニヤッと笑った。
「あれは魔法の服だって……」
「そんな物ないよ。あれは方便だ。勇者の攻撃なんていくら食らっても俺には全く効かないんだ」
俺は笑顔で肩をすくめる。
「えっ!? それじゃあ勇者様より強い……ってこと?」
「そりゃもう圧倒的ね」
俺はドヤ顔で笑った。
「う……、うそ……」
ドロシーは唖然として口を開けたまま言葉を失っている。その表情に、俺はついクスッと笑ってしまう。
人族最強の名をほしいままにする勇者。それより強いというのはもはやドロシーの想像を超えてしまっていた。
「あ、今日はもう店閉めて海にでも行こうか? なんか仕事する気にならないし……」
俺はニッコリと笑って提案する。
ドロシーは呆然としたまま、ゆっくりとうなずいた。
◇
俺はランチをバスケットに詰め込み、ドロシーには水着に着替えてもらう。
短パンに黒いTシャツ姿になったドロシーに、俺は日焼け止めを塗った――――。
白いすべすべの素肌はしっとりと手になじむほど柔らかく、温かかった。その感触に、俺は思わずドキリとする。
「で、どうやって行くの?」
ドロシーがウキウキしながら聞いてくる。
「裏の空き地から行きまーす」
少し悪戯っぽく言いながら裏口を指さす。
え……?
ドロシーは何を言っているのか分からずに、けげんそうな顔で小首をかしげた。
◇
俺は空き地のすみに置いてあったカヌーのカバーをはがした。朝露に濡れたカバーの感触が、これから始まる冒険を予感させる。
「この、カヌーで行きまーす!」
買ってきたばかりのピカピカのカヌー。朱色に塗られた船体にはまだ傷一つついていない。その艶やかな色が、二人の気分を盛り上げる。
「うわぁ! 綺麗! ……。でも……、ここから川まで遠いわよ?」
どういうことか理解できないドロシー。その困惑した表情に、俺は笑みをこぼす。
俺は荷物をカヌーにドサッと乗せ、前方に乗り込むと、
「いいから、いいから、はい乗った乗った!」
と、後ろのシートをパンパンと叩いた。
首をかしげながら乗り込むドロシー。
俺は怪訝そうな顔のドロシーを見ながらCAの口調で言った。
「本日は『星多き空』特別カヌーへご乗船ありがとうございます。これより当カヌーは離陸いたします。しっかりとシートベルトを締め、前の人につかまってくださ~い」
「シートベルトって?」
「あー、そこのヒモのベルトを腰に回してカチッとはめて」
「あ、はいはい」
器用にベルトを締めるドロシー。その真剣な表情に、俺はつい微笑んでしまう。
「しっかりとつかまっててよ!」
「分かったわ!」
ドロシーは俺にギュッとしがみついた。ふくよかな胸がムニュッと押し当てられ、その感触に俺は思わず顔が熱くなるのを感じた。
61. 風が作るウェーブ
「あ、そんなに力いっぱいしがみつかなくても大丈夫……だからね?」
「うふふ、いいじゃない、早くいきましょうよ!」
嬉しそうに微笑むドロシー。
俺は赤い顔でコホンと咳払いをした。
「と、当カヌーはこれより離陸いたします」
隠ぺい魔法と飛行魔法をかけ、徐々に魔力を注入していく――――。
ふわりと浮かび上がるカヌー。その瞬間、二人の心も宙に浮いたかのようだった。
「えっ!? えっ!? 本当に飛んだわ!」
驚きと喜びに湧くドロシー。
「ふふっ、冗談だと思ってたの?」
「だって、こんな魔法なんて聞いたことないもの……」
ドロシーは口をとがらせる。普通の飛行魔法では自分一人が浮き上がるのも大変なのだ。カヌーごと浮かび上がらせる魔法など前代未聞だった。
「まだまだ、驚くのはこれからだよ!」
俺はニヤッと笑うと魔力を徐々に上げていく。
カヌーは加速しながら上空へと浮かび上がり、建物の屋根をこえるとゆっくりと回頭して南西を向いた。眼下に広がる景色が、二人の心を高揚させる。
「うわぁ! すごい、すご~い!」
ドロシーが耳元で歓声を上げた。
上空からの風景は、いつもの街も全く違う様相を見せる。陽の光を浴びた屋根瓦はキラキラと光り、煙突からは湯気が上がってくる。
「あ、孤児院の屋根、壊れてるわ! あそこから雨漏りしてるのよ!」
ドロシーが目ざとく、屋根瓦が欠けているのを見つけて指さす。その鋭い観察眼に、俺は感心した。
「本当だ、後で直しておくよ」
「ふふっ、ユータは頼りになるわ……」
ドロシーは俺をぎゅっと抱きしめた。
ドロシーのしっとりとした頬が俺の頬にふれ、俺はドギマギしてしまう。
高度は徐々に上がり、街が徐々に小さくなっていく――――。
「うわぁ~、まるで街がオモチャみたいだわ……」
ドロシーは気持ちよい風に銀髪を躍らせた。
石造りの建物が王宮を中心として放射状に建ち並ぶ美しい街は、午前の澄んだ空気をまとって一つの芸術品のように見える。ちょうどポッカリと浮かぶ雲が影を作り、ゆったりと動きながら陰影を素敵に演出していた。
「綺麗だわ……」
ドロシーはウットリとしながら街を眺める。その瞳に、世界の美しさが映り込んでいた。
俺はそんなドロシーを見ながら、この瞬間を大切に心に刻もうと思った。
◇
「これより当カヌーは石垣島目指して加速いたします。危険ですのでしっかりとシートベルトを確認してくださ~い」
俺の声が風に乗って響く。
「はいはい、シートベルト……ヨシッ!」
ドロシーは可愛い声で安全確認。俺は思わず微笑んでしまう。
俺はステータス画面を出す。
「燃料……ヨシッ! パイロットの健康……ヨシッ!」
そしてドロシーを鑑定した。
「お客様……あれ? もしかしてお腹すいてる?」
HPが少し下がっているのを見つけたのだ。俺は少し心配になる。
「えへへ……。ちょっとダイエット……してるの……」
ドロシーは恥ずかしそうに下を向く。
「ダメダメ! 今日はしっかり栄養付けて!」
俺は足元の荷物からおやつ用のクッキーとお茶を取り出すと、ドロシーに渡した。
「ありがと!」
ドロシーは照れ笑いをし、クッキーをポリっと一口かじる。そよ風になびく銀髪が陽の光を反射してキラキラと輝いた。
「うふっ、美味しいわ! 景色がきれいだと何倍も美味しくなるわね」
ドロシーは幸せそうな顔をしながら街を見回す。
「そうだね……」
俺もクッキーをかじり、芳醇な甘みが広がっていくのを楽しんだ。俺の場合はドロシーと食べるから美味しいのだが。
ドロシーがクッキーを食べている間、ゆっくりと街の上を飛び、城壁を越え、麦畑の上に出てきた。
どこまでも続く金色の麦畑、風が作るウェーブがサーっと走っていく。そして、大きくカーブを描く川に反射する陽の光……、いつか見たゴッホの油絵を思い出し、しばし見入ってしまった。
「美味しかったわ、ありがと! 行きましょ!」
ドロシーが抱き着いてくる。俺は押し当てられる胸に、つい意識がいってしまうのをイカンイカンとふり払った。
「それでは行くよ~!」
防御魔法でカヌーに風よけのシールドを張る。この日のために高速飛行にも耐えられるような円錐状のシールドを開発したのだ。石垣島までは千数百キロ、ちんたら飛んでたら何時間もかかってしまう。ここは音速を超えて一気に行くのだ。
俺は一気にカヌーに魔力をこめた。グン! と急加速するカヌー。
「きゃあ!」
後ろから声が上がる。
カヌーを鑑定すると対地速度が表示されている。ぐんぐんと速度は上がり、あっという間に時速三百キロを超えた。
景色が飛ぶように流れていく――――。
「すごい! すご~い!」
耳元でドロシーが叫ぶ。
「ふふっ、まだまだこれからだよ」
しばらくこの新幹線レベルの速度で巡行し、観光しながらドロシーに慣れてもらおうと思う。
62. 宙を舞う巨体
コンパスを見ながら川沿いに海を目指すと、ほどなくして海が見えてきた。
青く広がる水平線にキラキラと煌めく太陽の光――――。
「これが海だよ、広いだろ?」
俺は後ろを向いた。
ドロシーは身を乗り出し、俺の肩の上で叫んだ。
「すご~い!!」
目をキラキラと輝かせながら海を眺めるドロシー――――。
つれてきて良かったと俺は心から思った。
それにしても、日本だったらこの辺に中部国際空港の人工島があるはずなのだが……、見えない。単純に地球をコピーしたわけではなさそうだ。その事実に、俺は改めてこの世界の不思議さを感じた。
俺は海面スレスレまで降りてきてカヌーを飛ばす。新幹線の速度でかっ飛んでいく朱色のカヌーは、海面に後方乱気流による水しぶきを放ちながら南西を目指す。
ドロシーは初めて見る水平線をじーっと眺め、何か物思いにふけっていた。
どこまでも続く青い水平線……、十八年間ずっと城壁の中で暮らしてきたドロシーには、きっと感慨深いものがあるのだろう。その思いを想像すると、俺の胸に温かいものが広がった。
「あ、あれ何かしら?」
ドロシーが沖を指さす。その声に、好奇心と驚きが混ざっていた。
見ると何やら白い煙が上がっている――――。
「どれどれ……」
鑑定をしてみると、
マッコウクジラ レア度:★★★
ハクジラ類の中で最も大きく、歯のある動物では世界最大
と、出た。
「うっひょー! クジラだ! 海にすむデカい生き物だよ」
クジラなんて俺も初めてである。
「え、そんなのがいるの?」
ドロシーは聞いたこともなかったらしい。
俺は速度を落とし、傾いてゆっくりと旋回しながらクジラの方に進路をとった。
やがて碧く透き通った海の中に長く巨大なマッコウクジラの巨体が悠然と泳いでいるのが見えてきた。その長さはゆうに十メートルを超えている。
デカいーーーー。
その光景に、俺とドロシーは息を呑んだ。
そばに小型のクジラが寄り添っている。多分、子供だろう。
まるで太古の昔から変わらない自然の営みを目の当たりにしているかのようだった。クジラの悠々とした泳ぎに、時間がゆっくりと流れているような錯覚さえ覚える。
「ねえ、ユータ……」
ドロシーの澄んだ声が、風に乗って耳に届く。
「なぁに?」
「こんな世界があったなんて……私、知らなかった」
その言葉に、心が温まってくる。ドロシーの目に映る世界の広がりを、俺も同時に感じているような気がした。
二人は言葉を交わさずに、ただその瞬間を共有していた。海の匂い、潮風の感触、キラキラと輝く海面――――。全てが新鮮で、心に深く刻まれていく。
俺は静かにカヌーを操縦し、クジラたちの邪魔にならない距離を保ちながら、この奇跡的な出会いをできるだけ長く楽しもうと思った。
「本当に大きいわぁ……」
嬉しそうにクジラを見つめるドロシー。
「歯がある生き物では世界最大なんだって」
俺は知識を披露しながら、ドロシーの反応を楽しんでいた。
「ふぅん……あっ、潜り始めたわよ」
クジラはゆったりと潜っていく……。その優雅な動きに、二人は息を呑んだ。
「どこまで潜るのかしら?」
「さぁ……、深海でデカいイカを食べてるって聞いたことあるけど……」
などと話をしていると、急にクジラが急上昇を始めた。その突然の変化に、俺の心臓が跳ね上がる。
「え? まさか……」
クジラはものすごい速度で海面を目指してくる。その迫力に、俺は思わず身構えた。
「え、ちょっと、ヤバいかも!?」
クジラはその勢いのまま空中に飛び出した。二十トンはあろうかという巨体がすぐ目の前で宙を舞う。巨大なヒレを大きく空に伸ばし、水しぶきを陽の光でキラキラと輝かせながらその美しい巨体は華麗なダンスを披露する。その光景は、まさに圧倒的なアートだった。
「おぉぉぉ……」「うわぁ……」
圧倒される二人……。その瞬間、時が止まったかのようだった。
そのまま背中から海面に落ちていくクジラ――――。
ズッバーン!
ものすごい轟音が響き、盛大な水柱が上がる。それをまともにくらったカヌーは小さな木の葉のように揺さぶられた。
「キャ――――!!」
俺にしがみついて叫ぶドロシー。
シールドは激しく海水に洗われ、何も見えなくなった。シールドがなかったら危なかったかもしれない。
「はっはっは!」
俺は思わず笑ってしまう。壮大なクジラのジャンプに洗われる、そんなこと全く想像もしていなかったのだ。
「笑いことじゃないわよ!」
ドロシーは怒るが、俺はとても楽しかった。想像もできないことが起こる、これが人生。まさに生きているという実感が俺の心を熱くさせる。
「クジラはもういいわ! バイバイ!」
ドロシーは驚かされてちょっとご機嫌斜めだ。その表情に、俺は思わず微笑んでしまう。
「ハイハイ、それでは当カヌーは再度石垣島を目指します!」
俺はコンパスを見て南西を目指し、加速させた。カヌーが海面を滑るように進み始める。
ブシュ――――!
後ろで盛大にクジラが潮を吹く。まるで挨拶をしているみたいだった。その音に、俺とドロシーは振り返り、思わず笑みを交わした。
63. タコ刺し、一丁
バババババ……。
新幹線並みの速度で海面スレスレを爆走する。シールドのすそから風をばたつかせる音が響いてくる。
日差しが海面をキラキラと彩り、どこまでも続く水平線が俺たちのホリディを祝福していた。
「ふふふっ、何だか素敵ねっ!」
ドロシーはすっかり行楽気分だ。その笑顔に、俺の心も弾む。
俺も仕事ばかりでここのところ休みらしい休みはとっていなかった。今日はじっくりと満喫したいと思う。
「あ、あれは何かしら!」
ドロシーがまた何か見つけ、嬉しそうに指さした。
遠くに何かが動いている……。鑑定をしてみると――――。
キャラック船 西方商会所属
帆船 排水量 千トン、全長五十二メートル
「帆船だ! 貨物を運んでいるみたいだ」
「へぇ! 帆船なんて初めて見るわ!」
ドロシーは瞳をキラキラ輝かせ、嬉しそうに徐々に大きくなってきた帆船を眺める。
だが、急に眉をひそめた――――。
「あれ……? 何かおかしいわよ」
ドロシーが帆船を指さす。
よく見ると、帆船に何か大きなものがくっついているようだ。鑑定をしてみると……。
クラーケン レア度:★★★★★
魔物 レベル二百八十
「うわっ! 魔物に襲われてる!」
「えーーーーっ!」
俺は慌てて帆船の方にかじを切り、急行する。
近づいていくと、クラーケンの恐るべき攻撃の全貌が明らかになってきた。二十メートルはあろうかという巨体から伸ばされる太い触手が次々とマストに絡みつき、船を転覆させようと体重をかけ、引っ張っている。船は大きく傾き、船員が矢を射ったり、触手に剣で切りつけたり奮闘しているものの、全く効いてなさそうだ。
その壮絶な光景に、俺とドロシーは言葉を失う。海の平和な景色が一変し、生と死の戦いの舞台と化していた。
「ユータ! どうしよう!?」
ドロシーの声が、風を切って届く。
「大丈夫、任しとき!」
俺はニヤッと笑いながら、カヌーの速度をさらに上げた。
クラーケンの巨体が近づくにつれ、その恐ろしさがより鮮明になる。ぬめぬめとした光沢を放つ巨大な腕、それが次々と乗組員に襲い掛かっていた。
「宙づりにしてやる!」
俺はクラーケンに近づくと、飛行魔法を思いっきりかけてやった。黄金色の輝きを帯びたクラーケンの巨体が海からズルズルと引き出されていく。
「おわぁ……」
ドロシーはポカンと口を開きながら、徐々に上空へと引っ張られていくクラーケンを眺めていた。
ヌメヌメとうごめくクラーケンの体表は、陽の光を受けて白くなったり茶色になったり、目まぐるしく色を変えた。その光景は極めて不気味で、受け入れがたいものがある。
「いやぁ! 気持ち悪い!」
ドロシーはそう叫んで俺の後ろに隠れた。
クラーケンは「ぐおぉぉぉ!」と重低音の叫びをあげ、触手をブンブン振り回しながら抵抗するが、俺はお構いなしにどんどん魔力を上げていく……。クラーケンの不気味な叫び声が、海面を震わせる。
何が起こったのかと呆然と見上げる船員たち――――。
ついにはクラーケンは巨大な熱気球のように完全に宙に浮きあがり、船のマストにつかまっている触手でかろうじて飛ばされずにすんでいた。
★5の凶悪な海の魔物もこうなってしまえば形無しである。と、思っていたらクラーケンはいきなり辺り一面に墨を吐き始めた。
まるで雨のように降り注ぐ漆黒の墨、カヌーにもバシバシ降ってくる。さらに、墨は硫酸のように当たったところを溶かしていくのだ。その光景に、俺は一瞬たじろいだ。
「うわぁ!」「キャーーーー!!」
多くはシールドで防げたものの、カヌーの後ろの方は墨に汚され、あちこち溶けてしまった。さすが★5である。一筋縄ではいかないのだ。
「あぁ! 新品のカヌーがーーーー!!」
頭を抱える俺。
ものすごく頭にきた俺はクラーケンをにらむと、
「くらえ! エアスラッシュ!」
そう叫んで、全力の風魔法をクラーケンに向けて放ってやった。
緑色に輝く風の刃が、空気を切り裂きながら音速でクラーケンの身体に食い込む――――。
バシュッ!
刹那、派手な音を立ててクラーケンは真っ二つに切り裂かれた。
「ざまぁみろ! タコ刺し、一丁!」
俺は大人げなく叫ぶ。
無残に切り裂かれたクラーケンは徐々に薄くなり……最後は霧になって消えていった。
水色に光る魔石がキラキラと輝きながら落ちてくるので、俺はすかさず拾う。その熱い感触が、この戦いの現実味を与えてくれる。
ふぅ……。
俺は大きく息をつくと周りを見回した。船員たちの驚いた顔、ドロシーの安堵の表情、そして穏やかになった海面。
「ユータ、すごかったわ!」
ドロシーの声が弾んでいる。
「どう? 強いだろ俺?」
俺は美しい輝きを放つ魔石を見せながら、ドヤ顔でドロシーを見る。
「うわぁ……、綺麗……。ユータ……もう、本当にすごいわ……」
驚きと喜びに圧倒されるドロシーは軽く首を振った。
64. 薬指の苦悩
「大魔導士様! おられますか? ありがとうございます!」
船から声がかかる。船長の様だ。その声には、感謝と安堵が溢れていた。
隠ぺい魔法をかけているから、こちらのことは見えないはずだが、シールドに浴びた墨は誤算だった。墨は見えてしまっているかもしれない。俺は少し緊張し、コホンとせき払いをした。
「あー、無事で何よりじゃったのう……」
俺は頑張って低い声を出す。その声色に、自分でも思わず噴き出してしまいそうになる。
「このご恩は忘れません。何かお礼の品をお贈りしたいのですが……」
(お、お礼!? キターーーー!)
俺は子供のようにワクワクしながらドロシーに聞く。
「お礼だって、何欲しい? 宝石とかもらう?」
しかし、ドロシーは静かに首を振る。
「私は……特に欲しい物なんてないわ。それより、孤児院の子供たちに美味しい物をお腹いっぱい食べさせてあげたいわ……」
俺を見つめるその瞳には優しさがあふれていた。
「そうだよ、そうだよな……」
俺は欲にまみれた自分の発想を反省する。
パサパサでカチカチのパンしか無く、それでも大切に食べていた孤児院時代を思い出す。後輩にはもうちょっといいものを食べさせてあげる……それが先輩の責務だと思った。
俺は軽く咳払いし、言った。
「あー、クラーケンの魔石はもらったので、ワシはこれで十分。ただ、良ければアンジューの孤児院の子供たちに、美味しい物をお腹いっぱい食べさせてあげてくれんかの?」
「アンジューの孤児院! なるほど……、分かりました! さすが大魔導士様! 私、感服いたしました。美味しい料理、ドーンと届けさせていただきます!」
船長は嬉しそうにほほ笑んだ。その笑顔に、俺は人間の温かさを感じた。やはり、恵まれない子供たちに対する支援というのは人の心を動かすらしい。
孤児のみんなが大騒ぎする食堂を思い浮かべながら、俺も今度、何か持って行こうと思った。
ドロシーは俺の横顔を見つめ、静かに微笑み、俺も微笑む。海風が二人の髪を優しく撫でた――――。
「では、頼んだぞ!」
俺はそう言うと、カヌーに魔力を込めた。その瞬間、空気が震える。
カヌーはするすると加速し、また、バタバタと風を巻き込みながら海上を滑走していく。
「ありがとうございましたーーーー!」
後ろで船員たちが手を振っている。
「ご安全にー!」
ドロシーも手を振って応えた。まぁ、向こうからは見えないのではあるが。
「人助けすると気持ちいいね!」
俺はドロシーに笑いかける。
「助かってよかったわ。ユータって凄いのね!」
ドロシーも嬉しそうに笑う。その瞳に、尊敬の光が宿っているのが分かった。
「いやいや、ドロシーが見つけてくれたからだよ、俺一人だったら素通りだったもん」
「そう? 良かった……」
ドロシーは少し照れて下を向いた。
「さて、そろそろ本格的に飛ぶからこの魔法の指輪つけて」
俺はポケットから『水中でもおぼれない魔法の指輪』を出す。金色のリングに大粒のサファイアのような青い石が陽の光を浴びてキラリと輝いた。
「ゆ、指輪!?」
目を丸くして驚くドロシー。
「はい、受け取って!」
俺はニッコリと笑いながら差し出す。
「ユータがつけて!」
ドロシーは両手を俺の前に出した。その仕草に、俺は戸惑ってしまう。
「え? お、俺が?」
「早くつけて!」
ドロシーは両手のひらを開き、嬉しそうに催促する。
俺は悩んでしまった。どの指につけていいかわからないのだ。
「え? どの指?」
「いいから早く!」
ドロシーは教えてくれない……。
中指にはちょっと入らないかもだから薬指?
でも、確か……左手の薬指は結婚指輪だからつけちゃマズいはず?
なら右手の薬指にでもつけておこう。
俺は白くて細いドロシーの薬指にそっと指輪を通した。その柔らかな感触に、俺の心がドキリとした。
「え?」
ドロシーの表情に驚きが走った。
「あれ? 何かマズかった?」
「うふふ……、ありがと……」
真っ赤になってうつむくドロシー。
「このサイズなら、薬指にピッタリだと思ったんだ」
「……、もしかして……指の太さで選んだの?」
ドロシーの表情からサッと血の気が引き、言葉に怒気が混じる。
「そうだけど……マズかった?」
ドロシーは俺の背中をバシバシと叩く。
「もうっ! 知らない! サイテー!!」
ふくれてそっぽを向いてしまった。
「えっ……? えーと、結婚指輪って左手の薬指だよね?」
俺はしどろもどろでドロシーの顔色をうかがう。
「ユータはね、もうちょっと『常識』というものを学んだ方がいいわ……」
ドロシーはジト目で俺の額を指で押した。
「ゴメン、ゴメン、じゃぁ外すよ……」
俺は慌ててドロシーの指に手を伸ばす――――。
「ユータのバカ! もう、信じらんない!」
ドロシーはまた背中をバシバシと叩き、ふくれてプイっとそっぽを向いてしまった。
「痛てて、痛いよぉ……」
女性と付き合った経験のない俺に乙女心は難しい……。俺は途方に暮れて宙を仰いだ――――。
その後、俺は何だか良く分からないまま平謝りに謝った。
(帰ったら誰かに教えてもらおう。こんな時スマホがあればなぁ……)
と、どこまでも続く水平線を見ながら、情けないことを考える。
それでも女の子と指輪で揉めるなんて、前世では考えられない話である。ある意味で幸せなことかもしれない。そう思うと、俺の顔に小さな笑みが浮かんだ。
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