さらにしばらく海面をすべるように進むと、断崖絶壁の上に聳え立つ純白の灯台が姿を現した。本州最南端、潮岬だ。灯台は石造りの堂々とした建築で、吹き付ける潮風に負けじと、威風堂々と海の安全を見守っている。その姿は、まるで時代を超えて立ち続ける不動の守護者のようだった。
潮岬を超えたら少し右に進路を変え、四国の南をかすめながら宮崎を目指そう。そう決めた矢先、ドロシーの歓声が響いた。
「うわー! あれ、灯台よね? すごい!」
ドロシーは初めて見る灯台に興奮気味だ。先ほどまでの不機嫌さは影を潜め、目を輝かせている。その様子を見てホッとした。
「よし、灯台見物だ! よく見ててよ!」
俺は灯台の方向にかじを切る。徐々に近づいてくる灯台。その威容が大きくなるにつれ、ドロシーの息遣いが荒くなるのを感じた。
「しっかりつかまっててよ!」
「えっ!? ちょっと待って! ユータ、何するつもり……?」
崖ギリギリまで近づくと俺は高度を一気に上げ、断崖絶壁をスレスレにかすめる。生えていた草がパシっとシールドを叩く音が、心臓の鼓動のように響く。
そして、ぐっと大きく迫ってくる灯台のすぐ横を飛んだ。
視野を大きく純白の壁が横切る。まるで巨人の顔がゆっくりと横を通り過ぎていくかのようだ。
「きゃぁっ!」
ドロシーが俺にしがみつく。
ドン!
カヌーが引き起こす後方乱気流が灯台にぶつかって鈍い音を放つ。その衝撃が下っ腹に響いた。
「ははは、大丈夫だよ。怖かった?」
「もぉ……ユータの馬鹿!」
ドロシーは俺の背中をパンと叩き、振りむいて、ぐんぐんと小さくなっていく灯台を眺めた。
「なんだかすごいわ……。ユータは大魔導士なの? こんな凄いことができるなんて」
「大魔導士であり、剣聖であり、格闘家……かな? 要するに、なんでもできる万能選手ってところだ」
俺はニヤッと笑う。
「何よそれ、全部じゃない……。欲張りすぎよ」
「ははは。すごいだろ? 感動した?」
俺がドヤ顔でそう言うと……。
「すごすぎるのも……何だか怖いわ……」
ドロシーは俺の背中に顔をうずめた。
確かに『大いなる力は大いなる責任を伴う』である。力は大きければいいというものではない。
例えば武闘会で勇者叩きのめすのは簡単だ。でもそんなことしてしまったらもう街には居られないだろう。そう考えると、自分の力の大きさを手放しには喜べない。
リリアンの騎士にでもなれば居場所はできるだろうけど、そんな生き方も嫌なのだ。
俺はぽっかりと浮かんだ雲たちをスレスレでよけながら高度を上げ、遠くに見えてきた四国を見つめる。四国の山々は、まるで歓迎するかのように、徐々にその姿を大きくしていった。
◇
俺はグングンと速度を上げ、さらに高い空を目指す。空気が薄くなるにつれ、カヌーの周りを流れる風の音が変わっていくのを感じた。
この速度では石垣島まで何時間もかかってしまう。そろそろ本気を出して飛んでみよう。
「これより、当カヌーは超音速飛行に入りま~す。ご注意くださ~い!」
俺は冗談めかして機内アナウンスのような口調で告げた。
「え? 超音速って……何?」
ドロシーがバタつく銀色の髪を押さえながら、不安そうに聞いてくる。
「音が伝わる速さを超えるってことだよ、とんでもない速度で飛ぶってこと。この世界では誰も経験したことがないはずさ」
俺は少し得意げに説明した。
「もっと速くなるの!? 音より速い!? なんなのそれ!? ユータ、大丈夫なの?」
ドロシーがまん丸い目をして俺を見る。その表情には興奮と恐怖が入り混じっていた。
「しっかりつかまっててよ! 世界初の超音速フライトの準備はいい?」
俺はそう言うと注入魔力をグンと増やした。
カヌーはビリビリと震えながら速度を上げていく。
:
対地速度 600km/h
:
:
どんどんと上がっていく速度。
雲のすき間をぬって飛んでいくが、大きな雲が立ちふさがった。積乱雲だ。その巨大な姿は、天に聳える白い城塞のようだった。
これを避けるとなると相当遠回りになってしまう。
「雲を抜けるよ、気を付けて! ちょっとした嵐の中に突っ込むかもしれないぞ」
俺は声をかけながら、カヌーの姿勢を整えた。見る見るうちに迫って来る艶々とした雲の壁――――。
「く、雲!? 嵐!? ユータ、やめ……」
ドロシーの言葉が途切れた。
ボシュ!
いきなり視界がグレー一色になる。
「きゃぁ! 何も見えないっ!」
俺にしがみつくドロシー。
雲の中に突っ込んだのだ。周囲は濃密な水滴に包まれ、視界はゼロ。ときおり雷光が走り、轟音が耳を襲う。
俺は構わずさらに速度と高度を上げていく。カヌーがガタガタと激しく揺れる中、必死になって操縦に集中する。
:
:
ジェット旅客機の速度に達し、船体がグォングォンとこもった音を響かせ始める。その音は次第に高くなり、やがて耳をつんざくような金属音へと変わっていく。
ドロシーはギュッと俺にしがみついている。
すると急に視界が開けた――――。
66. 地上の楽園
真っ青な青空に燦燦と照り付ける太陽、雲の上に出たのだ。眼下には真っ白な雲海が広がり、その上には無限に続く碧空が広がっていた。
「ヒャッハー! やったぞ、突破成功だ!」
俺は思わずガッツポーズをする。
「すごーい…… こんな世界があったなんて……」
「ここが雲の上だよ。まだ街の人は見たことのない景色さ」
俺は誇らしげに言った。
「なんて神秘的なのかしら……。まるで天国みたい……」
ドロシーは雲と空しかない風景にしばし絶句していた。その瞳には、驚きと畏怖の念が交錯している。
その間にも速度はぐんぐんと上がる。カヌーが軋むような音を立て、振動が増していく。
:
対地速度 1100km/h
:
対地速度 1200km/h
:
カヌーの周りにドーナツ状の霧がまとわりつく。亜音速に達したのだ。
いよいよ来るぞ――――。
俺の心臓が高鳴る。
ドゥン!
激しい衝撃音が響き、カヌーが大きく揺れる。
「キャーーーー! 何!?」
ドロシーが叫ぶ。
俺は興奮を抑えきれず、こぶしを突き上げた。
「Yeahーーーー! やったぞ、ドロシー! 俺たち、音の壁を破ったんだ!」
ついに音速を超えたのだ。その瞬間、世界が一変したかのような感覚に襲われる。
シールドの先端は真っ赤に光り輝き、熱線を放っていた。これが超音速の世界なのだ。
そしてさらに魔力を上げていく。体中に昂ぶりが走っている。
対地速度 M1.1
:
対地速度 M1.2
:
対地速度 M1.3
:
速度表示がマッハ(M)に変わり、どんどん増えていく。
「ユータ、これってどういうこと?」
ドロシーが轟音鳴り響く中、尋ねてくる。
「音の速さを超えたってことさ。普通の人には想像もつかない速度だよ」
俺は少し自慢げに答えた。
「音の速さ……?」
ドロシーにはピンとこないらしく、首をかしげている。
音速を超えるとシールドにぶつかってくる空気は逃げられない。尖がったシールドの先端では圧縮された空気が衝撃波を作り、高熱を発しながら周りに広がっていく。この衝撃波は強力で、遠く離れていても窓ガラスを割ることがあるらしいので、なるべく海上を飛んでいく。
ギュゥゥゥーーーー!
カヌーからきしむ音が響く。ピカピカの朱色のカヌーは今、超音速飛行船となって空の上高く爆走しているのだ。カヌーを作ったおじさんにこの光景を見せたら、きっとぶったまげるだろうな……。俺はそんなことを思いながらニヤッと笑った。
雲の合間に四国の先端、室戸岬を確認できる頃にはマッハ3に達していた。緑豊かな山々と青い海が織りなす絶景が、一瞬で目の前を通り過ぎていく。
そこから宮崎まで約五分、さらに南下して種子島・屋久島を抜け、奄美大島まで五分。戦闘機レベルの高速巡行は気持ちいいくらいに風景を塗り替えていく。
空から見る奄美大島はサンゴ礁に囲まれ、淡い青緑色の蛍光色に縁どられて浮いて見える。この世界は工場があまり発達していないから環境汚染もないだろう。まさに手付かずの美しい自然、ありのままの姿なのだ。
ドロシーにも見てもらおうと後ろを見たら……、俺にしがみついたまま動かなくなっている。その顔は蒼白で、汗が滲んでいた。
「ドロシー? 大丈夫か?」
「う~ん、ちょっと気分が…… 目まいがして……」
どうやら船酔いのようだ。これはまずい。
「ヒール!」
俺は急いで治癒魔法をかけた。ボワッと淡い光に包まれるドロシー。その光は温かく、優しく彼女を包み込んでいく――――。
「これでどう? 少しは楽になった?」
「うん……、良くなったわ。ありがとう、ユータ」
力のない笑顔を見せるドロシー。その表情に安堵しつつも、まだ心配が残る。
「ごめん、無理させちゃって。もう少しで着くからね。それまでゆっくり休んでていいよ」
俺は優しくそう声をかけ、ドロシーの腕を軽くさすった。
◇
沖縄列島の島々を次々と見ながら南西に飛び、十分程度するとヒョロッと長い半島が突き出た独特の島、石垣島が見えてきた。その姿を見た途端、懐かしい記憶が蘇ってくる。
俺は学生時代、一か月ほど石垣島で民宿のアルバイトをやったことがあった。石垣島の人たちは温かくて優しく、ちょっとひねくれていた学生時代の俺を、まるで自分の子供のように丁寧に扱ってくれた。その思い出が鮮やかによみがえる。
暇なときは海に潜って遊び、夜は満天の星々を見ながら、オリオンビールでいつまでも乾杯を繰り返した。それは今でも大切な記憶として俺の中では宝物になっている。
はるばるやってきた懐かしの島が徐々に大きくなっていく。俺は心臓が高鳴るのを感じた。
速度と高度を落としながら石垣島の様子を観察する。サンゴ礁に囲まれた美しい楽園、石垣島。その澄みとおる海、真っ白なサンゴ礁の砂浜の美しさは俺が訪れていた時よりもずっと輝いて見えた。翡翠のような海の色、真珠のような砂浜、そして鬱蒼とした緑の森。それらが織りなす光景は、まさに地上の楽園そのものだった。
67. エメラルドグリーン
一通り島を回ってみたが、誰も住んでいないし魔物がいる気配もない。手つかずの無人島の様だ。前世の賑わいはどこにも見当たらない。
「誰もいないのか……。まぁ、リゾートにはちょうどいい……か」
俺は後ろを向いて半ば寝ていたドロシーをやさしく揺らした。
「着いたよ! 楽園だ!」
「う? もう着いたの……?」
ドロシーは目をこすりながら、真っ白な砂浜にエメラルドグリーンのサンゴ礁を見回し……、
「うわぁ! すごい、すごーーい!!」
と、歓声を上げる。その目は驚きと喜びでキラキラと輝いていた。
「ようこそ石垣島へ。俺の第二の故郷さ」
俺は少し誇らしげにドロシーを見つめる。彼女の反応に、かつて自分が初めてこの島を訪れた時の興奮が蘇る。
「すごい綺麗だわ! ユータ、この景色、絵みたい!」
美しく澄み通る海、それはドロシーが想像もしたこともない、まさに南国の楽園だった。その美しさに、彼女の声は興奮で震えている。
俺は美しい入り江、川平湾に向けて高度を落としていく。徐々に大きくなっていく白い砂浜にエメラルド色の海……。その景色は、記憶の中のものよりもさらに鮮やかだった。
俺は船尾から先に下ろし、ザバッと水しぶきを上げるとそのまま静かに着水していく。
カヌーは初めて本来の目的通り、海面を滑走し、透明な水をかき分けながら熱帯魚の楽園を進んだ。水面下には、色とりどりの魚たちが群れをなして泳いでいる。
潮風がサーっと吹いて、ドロシーの銀髪を揺らし、南国の陽の光を受けてキラキラと輝いた。
「うわぁ……まるで宙に浮いてるみたいね…… ユータ、これが海なの?」
「ほんとだよね。こんな綺麗な海は俺も初めてだよ」
澄んだ水は存在感がまるでなく、カヌーは空中を浮いているように進んでいく。
俺は真っ白な砂浜にカヌーをそのままザザッと乗り上げる。
「到着! お疲れ様! 気を付けて降りてね」
ドロシーは恐る恐る真っ白な砂浜に降り立ち、足の下の感触を確かめるように少し歩いてみる。サクッサクッとサンゴ礁のかけらでできた砂が心地よい音を立てた。
「うふふ、すごいいところに来ちゃった!」
真っ青な海を眺めながら大きく両手を広げ、深く深呼吸をするドロシー――――。
俺はそれを見ながら胸が熱くなるのを感じる。
「ユータ、ありがとう!」
俺に振り向いて輝く笑顔で言った。
「どういたしまして……」
このドロシーの笑顔をもっともっと見ていたい。俺は心の底からそう思った。
◇
前世では世界の羨望のまなざしを受けていたダイビング天国石垣島。そこが今、二人だけの貸し切り状態なのだ。思いっきり満喫してやろう。
俺はカヌーを引っ張り上げて木陰に置くと、防寒着を脱ぎながら言った。
「はい、泳ぐからドロシーも脱いで脱いで! 海水の気持ちよさを全身で感じようぜ」
「はーい! でも……泳ぐってどうするの?」
ドロシーはうれしそうに笑ったが、少し不安そうな色がある。アンジューの街の人たちは一生泳ぐことなどないのだ。
「大丈夫、俺が教えてあげるから。まずは水に慣れるところからだ」
「分かったわ! それーー!」
水着になったドロシーは白い砂浜を元気に走って、海に入っていく。その姿は、まるで解き放たれた小鳥のようだった。
「キャーーーー! 冷たい! でも気持ちいい!」
うれしそうな歓声を上げながらジャバジャバと浅瀬を走るドロシー。
銀髪の美少女が美しいサンゴ礁の海をかけていく――――。
あぁ、まぶしいなぁ……。
俺は心が癒されていくのを感じていた。
「ねえ、ユータ! 早く来てよ! 一緒に遊ぼう!」
「はいはい!」
ドロシーの呼びかけに、俺も海に飛び込んだ。水しぶきを上げながら彼女に近づき、二人で笑い合う。この瞬間、俺は全てを忘れ、ただ今を楽しむことができた。石垣島は、再び俺に幸せをもたらしてくれている。
◇
「そろそろ潜ろう。水中の世界を見せてあげるよ」
俺は頭の周りを覆うシールドを展開した。巨大なシャボン玉のような透明な薄膜が頭を包み込む。こうしておくと水中でもよく見えるし、会話もできるのだ。魔法の力って本当に便利である。
俺はドロシーの手を取って、どんどんと沖へと歩く。波が二人の体を優しく包み込んでいった。
胸の深さくらいまで来たところで、ドロシーに声をかける。
「さぁ、潜ってごらん。この世界の神秘が見えてくるよ」
「え~、怖いわ。潜ったことなんてないし……」
怖気づくドロシー。
「じゃぁ、肩の所つかまってて。俺が案内するから」
そう言って肩に手をかけさせる。ドロシーの温かい手が俺の肩に触れる。
「こうかしら……? え? まさか! ユータ、何を……」
俺は一気に頭から海中へ突っ込んだ。一緒に海中に連れていかれるドロシー。
「キャーーーー!! ちょっと、心の準備が……!」
ドロシーは怖がって目を閉じてしまう。その表情が可愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。
俺は水中で優しく言った。
「大丈夫だって、目を開けてごらん。奇跡の世界が広がってるよ」
恐る恐る目を開けるドロシー――――。
そこは熱帯魚たちの楽園だった。
68. 海の天使
「え!? すごい!」
コバルトブルーの小魚が群れ、真っ赤な小魚たちが目の前を横切っていく……。まるで色とりどりの宝石が舞っているかのような光景だ。
「すごーい! これが海の中!? 夢みたい……」
瞳をキラキラさせ、ドロシーの声が弾む。
「さ、沖へ行くよ。もっと素晴らしい景色を見せてあげる」
俺はドロシーの手をつかみ、魔法を使って沖へと引っ張っていった。二人の体はまるで魚のように水中をスイスイと進んでいく。
サンゴ礁の林が現れ、そこにはさらに多くの熱帯魚たちが群れていた。白黒しま模様のスズメダイや芸術的な長いヒレを伸ばすミノカサゴ、ワクワクが止まらない風景が続いていく。
透明度は四十メートルはあるだろうか、どこまでも澄みとおる海はまるで空を飛んでいるような錯覚すら覚える。太陽の光は海面でゆらゆらと揺れ、まるで演出された照明のようにキラキラとサンゴ礁を彩った。その光景は、まさに海底の楽園そのものだ。
「ユータ、なんて素敵なのかしら……。こんな世界が存在するなんて……」
ドロシーはウットリと辺りを見回した。
「素晴らしいよね……」
彼女の笑顔を見ていると、俺は自分の心も軽くなっていくのを感じる。
「ねえ、ユータ。あれは何?」
ドロシーが指さす先には、大きなウミガメがゆっくりと泳いでいた。
「ウミガメだよ。何百年も生きる海の賢者さ」
「わぁ、すごい! 近づいてみてもいい?」
「もちろん。でも優しくね」
二人でゆっくりとウミガメに近づく。そのゆったりとした泳ぎに、悠久の時の流れを感じた。
◇
さらに沖に行くと、大きなサンゴ礁が徐々に姿を現す。その特徴的な形は忘れもしない俺の思い出のスポットだった。海底からキノコのようにせり上がる複雑に入り組んだ形、色とりどりのサンゴが作り出す幻想的な風景。それは、まるで海底の秘密の庭園のようだ。
俺はそのサンゴ礁につかまると、期待に胸を膨らませて言った。
「ここでちょっと待ってみよう。素晴らしいものが見られるかもしれない」
「え? 何を? もっと素敵なものがあるの?」
ドロシーの目が好奇心で輝く。
「それは……お楽しみ! きっと驚くよ。ふふっ」
俺は微笑みながら答えた。
「へぇー、何だろう……?」
ドロシーはワクワクしながら辺りを見回す。
しばらく俺も辺りの様子を注意深く見回していく――――。
ドロシーはサンゴ礁にカラフルなウミウシを見つけ、
「あら! かわいい! これなに? 宝石みたい」
と、喜んでいる。その無邪気な様子に、俺の心も和んでいく。
ほどなくして、遠くの方で影が動いた。俺の心臓が高鳴る。
「ドロシー、来たぞ! あれを見て!」
それは徐々に近づいてきて姿をあらわにした。巨大なヒレで飛ぶように羽ばたきながらやってきたのはマンタだった。体長は五メートルくらいだろうか、その雄大な姿は感動すら覚える。
「キャーーーー! あれ、なに? すごく大きい!」
いきなりやってきた巨体にビビるドロシー。
「大丈夫、人は襲わないから。マンタっていう魚だよ。海の天使とも呼ばれてる」
俺は優しく説明した。
優雅に遊泳するマンタは俺たちの前でいきなり急上昇し、真っ白なお腹を見せて一回転してくれる。まるでバレリーナのような優美さだ。
「うわぁ! すごぉい! ユータ、見て! 踊ってるみたい!」
巨体の優雅な舞にドロシーも思わず見入ってしまう。その目は驚きと喜びで輝いていた。
ただ、俺はその舞を見ながら気分は暗く沈んだ。このスポットは前世で俺が遊泳していてたまたま見つけたマンタ・スポットなのだ。広大な海の中でマンタに会うのはとても難しい。でも、なぜか、このスポットにはマンタが立ち寄るのだ。そして、地球で見つけたこのスポットがこの世界でも存在しているということは、この世界が単なる地球のコピーではないということも意味していた。地形をコピーし、サンゴ礁をコピーすることはできても、マンタの詳細な生態まで調べてコピーするようなことは現実的ではない。
俺はこの世界は地球をコピーして作ったのかと思っていたのだが、ここまで同一であるならば、同時期に全く同じように作られたと考えた方が自然だ。であるならば、地球も仮想現実空間であり、リアルな世界ではなかったということになる。そして、この世界で魔法が使えるということは地球でも使えたということかもしれない。俺の知らない所で日本でも魔法使いが暗躍していたのかも……。
しかし……。こんな精緻な仮想現実空間を作れるコンピューターシステムなど理論的には作れない。一体どうなっているのか……。俺の頭の中で疑問が渦巻く。
「ねえ、ユータ。見て! もう一匹来たわ!」
ドロシーの声に我に返る。
「えっ!? あっ、本当だ!」
もう一頭マンタが現れて、二頭は仲睦まじくお互いを回り合い、そして一緒に沖へと消えていった。その光景は、まるで永遠の愛を誓い合う二人の恋人のようだ。
「素敵だわ…… ユータ、ありがとう。こんな素敵な光景を見せてくれて」
ドロシーの声には感動が溢れている。
俺はサムアップすると、そっとドロシーの肩を抱き寄せた。
しかし、俺の心は世界の謎にとらわれたままである。
消えていったマンタの方をいつまでも眺め、不可解なこの世界の在り方に首をかしげた。
69. プロンプトベース
「そろそろランチにしよう。お腹が空いただろ?」
俺はそう言って、ドロシーの手を取って陸へと泳ぎ始めた。
海から上がると、真っ白な砂浜に空の太陽が燦々と照りつけ、潮風が気持ち良く吹いてくる。その風に乗って、潮の香りが鼻をくすぐった。
「海はどうだった? 楽しめたかい?」
俺はドロシーの手を引いてカヌーへと歩きながら聞く。砂の感触が足裏をくすぐり、ゆったりとした気分になる。
「まるで別世界ね! こんな所があるなんて知らなかったわ! ユータ、本当にありがとう」
眩しい笑顔でにこやかに笑うドロシー。
俺は自然と湧き上がってくる笑みのまま軽く首を振った。『ありがとう』は自分の言葉なのだ。
木陰に折りたたみ椅子を二つ並べると、俺は湯を沸かしてコーヒーを入れていく――――。
準備をしながら、ふと懐かしさが込み上げてくる。かつてこの島で過ごした日々が、走馬灯のように蘇る。もう二度と会うことはできないけど、民宿のおじちゃん、おばちゃんは元気だろうか……?
全く同じ石垣島に居ながら、この世界には誰も住んでいない。その不思議な感覚に俺は深いため息をついた。
◇
「はいどうぞ」
俺はサンドイッチを切ってドロシーに渡した。
「ふふっ、ありがと!」
ザザーンという静かな波の音、ピュゥと吹く潮風……。ドロシーはサンドイッチを頬張りながら幸せそうに海を眺める。その横顔に、俺は思わず見とれてしまう。
「美味しい! ユータ、このサンドイッチ、どこで買ったの?」
「買ってないよ。俺が作ったんだ。昔、この島で覚えたレシピなんだ」
「すごい! ユータって料理も上手なのね」
ドロシーの目が輝く。その言葉に、少し照れくさくなる。
「サンドイッチに上手いも下手も無いよ」
俺は苦笑し、サンドイッチを頬張った。
◇
コーヒーをすすり、苦みが口の中に広がっていくのを感じながら、いったいこの世界はどうなっているのか、俺はボーっと考えていた。
仮想現実空間であるなら誰かが何らかの目的で作ったはずだが……、なぜこれほどまでに精緻で壮大な世界を作ったのか全く見当もつかない。地球を作り、この世界を作り、地球では科学文明が発達し、この世界では魔法が発達した。一体何が目的なのだろう?
そもそも、こんな世界を動かせるコンピューターなんて作れないのだから、仮想現実空間だということ自体間違っているのかもしれないが……。では全知全能なヌチ・ギや、プランクトンが個体識別され管理されていたのは何だったのか?
俺が眉間にしわを寄せながら考えていると、ドロシーが俺の顔を覗き込む。その大きな瞳に、俺の悩みが映っているようだ。
「どうしたの? 何かあった? さっきから深刻な顔してるわ」
俺はふぅと大きくため息をつき、首を振った。
この悩みはドロシーに言ったところで理解すらされないだろう。
俺はドロシーの肩を抱き、背中に顔をうずめると、
「何でもない、ちょっと疲れちゃった……」
そう言って、ドロシーの体温を感じた。その温もりが、俺の不安を少しずつ和らげていく。
ドロシーは肩に置いた俺の手に手を重ねる。
「ユータばかりゴメンね、少し休んだ方がいいわ……」
その声には、申し訳なさが滲んでいた。
「ちょっとだけ……肩を貸して……」
俺はそう言って、身体をドロシーに預ける。
ドロシーは優しく俺の腕をなでた。
伝わってくる温もり――――。
なぜかこの温もりがある限り、どんな謎も解き明かせる気がしていた。
よく考えたら地球で生きていた俺の魂が、この世界でも普通に身体を得て暮らせているということは、地球もこの世界も同質だという証拠なのだ。では、魂とは何なのだろう……?
分からないことだらけだ。頭の中で疑問が渦を巻く――――。
「この世界って……何なんだ?」
疑問の渦の中、俺は独り言のようにつぶやいた。
「あら、そんなことで悩んでるの? ここはコンピューターによって作られた仮想現実空間よ」
ドロシーがうれしそうに答えた。
そのあまりにも唐突な言葉に頭が真っ白になる。
「え!? な、なんでそんなこと知ってるの?」
思わず声が裏返る。ドロシーの表情には、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「なんだっていいじゃない。私が真実を知ってたら都合でも悪いの? ふふっ……」
いたずらっ子のように笑うドロシー。その笑顔に、俺は戸惑いを覚えた。なぜ異世界に生まれた孤児がコンピューターなんて知っているのか?
「いや、そんなことないけど……、でも、コンピューターではこんなに広大な世界はシミュレーションしきれないよ」
俺は必死に自分の知識を総動員して反論する。
「それは厳密に全てをシミュレーションしようとなんてするからよ」
「え……? どういうこと?」
俺の頭の中で、疑問符が踊る。
「ユータが超高精細なMMORPGを作るとして、分子のシミュレーションなんてするかしら?」
「え? そんなのする訳ないじゃん。見てくれが整っていればいいだけなんだから、見える範囲の物だけを適当に合成して……、て、ま、まさかここもそうなの!?」
俺の中で、何かが崩れ落ちる音がした。シミュレーションなど厳密でなくていい、見えてるものだけ、むしろ、プロンプトベースの概念世界だけでも回ってしまうのではないだろうか? そんなひどく簡略化された電脳世界が俺の頭をかすめたのだった。
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