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柔らかな春の陽光が、小さな茅葺き屋根の縁側に降り注いでいた。
庭先に植えられた色とりどりの野花が風に揺れ、どこか遠くで鳥の囀りが聞こえる。
かつて鬼を狩るために研ぎ澄ませていた私の耳は
今では「お湯が沸いた音」や「愛しい人の足音」を聞き分けるためにある。
「あざみちゃん、ただいま。今日の街は、少し活気があったよ」
薪を背負い、山から戻ってきた暁さんが、穏やかな笑みを浮かべてこちらを向いた。
漆黒だったあの着物は、今では村に馴染む藍染めの作務衣に変わっている。
けれど、その涼やかな目元と
私を見つめる時の底知れない優しさは、出会ったあの日から何一つ変わっていない。
「おかえりなさい、暁さん。…また、そんなにたくさん薪を?無理しなくていいって言ったのに」
「はは、これくらいどうってことないよ。夜は冷え込むからね。……おや、それは?」
暁さんが、私の手元を覗き込んだ。
私は少し照れ臭くなって、膝の上に広げていた小さな布を隠そうとしたけれど、彼の長い指が優しくそれを解いた。
「……刺繍? 以前の鴉の紋章とは、随分違うね」
「……は、はい、これは『あざみの花』です。暁さんと私を繋ぐ、新しい印にと思って…っ」
私が一針一針心を込めて縫っていたのは、二人の着物に入れるお揃いの刺繍だった。
かつて私の名は、戦場に咲く棘のある花を意味していた。
けれど今、暁さんの隣で笑う私は
ただ太陽の光を浴びて、誰かに愛でられるのを待つ、一輪の花でいられる。
「……綺麗だね。僕の分も、作ってくれるかな?」
「もちろんそのつもりですよ!その代わり、今日は暁さんの特製のお粥が食べたいな」
「ふふ、お安い御用だ。じゃあ、少し贅沢に街で買ってきた干し柿も添えようか」
暁さんは私の隣に腰を下ろし、自然な動作で私の手を握った。
彼の肌は、今では私の体温と混ざり合い
心地よい「人の温もり」を持っている。
ふと、庭の隅に目を向けると、そこにはあの日投げ捨てたはずの『薊丸』が
錆びついたまま物置の奥で眠っているのが見えた。
もう、あの刃を抜く日は二度と来ないだろう。
来るとしたら、きっと暁さんを守るために戦うとき。
私の手は今、刀を握るためではなく
暁さんのために料理を作り、彼の服を繕い
そして──繊細な彼を抱きしめるためにあるのだから。
「あざみちゃん。……君と出会えて、本当によかった」
「……私の方こそ。暁さんが、私を見つけてくれたから…生きてることに、価値を見い出せたんです」
二人の影が、縁側に長く、寄り添うように伸びていく。
かつて夜の底で彷徨っていた孤独な魂たちは
今、春の陽だまりの中で、静かに、けれど力強く根を張っていた。
江戸の空に朝焼けが昇ったあの日から
私たちの本当の物語は、ずっとこの穏やかな光の中に続いている。