テラーノベル
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またもや8,000字を超え、9,000字近いです。
読み疲れますよね、すみません。
大学病院からまっすぐ家に帰って、お風呂を溜めてバスソルトをたっぷりと入れたお風呂にゆっくり浸かって、好きなものを食べてぐっすりと寝た。
いろんなことを一旦考えることを全部やめて、何も考えずにただ寝まくった。慢性不眠の俺だけど、連日の疲労には勝てなかったらしい。涼ちゃんの歳のことをいじれなくなるな、と思うほどには寝た。
そしてその翌日からもちゃんと食べて、できる限りちゃんと寝るように心がけた。夜に涼ちゃんを探しに行くのをやめて、無理に仕事を詰め込むのもやめて、ちゃんと人間らしい生活を送るようにした。
無性に泣きたくなったときは無理に我慢せずに泣いて、申し訳ないけど若井を呼び出して俺が眠るまで一緒にいてもらった。先に若井が寝てしまっても良かった。ただ、独りじゃないって思えればそれだけで救われた。
若井がいつも右手の薬指に指輪をつけているように、俺も右手の薬指に指輪をつけるようになった。フェーズ2が始まったときに涼ちゃんとお揃いで作ったペアリングだ。お守りのようにそれをずっとつけて、朝起きたときと夜寝るときに、涼ちゃんを思い浮かべてキスをした。祈るように、どうか生きていて欲しいと希うように。
社長もチーフも相変わらず涼ちゃんの居場所は教えてくれなかったけれど、無事だということをそれとなく仄めかしてくれるようになった。今日はマイタケを買うんです、とか、英語がだいぶ上達してね、と自分たちのことのように話をして、俺と若井にしか分からないように何気ない会話の中で教えてくれた。
ただ、新曲はどうしても作れなかった。涼ちゃんの代わりにサポートとして入ってくれているキーボディストが悪いわけでは決してないけれど、どうしても涼ちゃんの音を欲してしまった。音がなくたって、涼ちゃんという存在を求めてしまった。涼ちゃんがいないという満たされない気持ちで書くことができるかと思いきや、全く生み出すことができなかった。
新曲のリリースがなくても、今までが忙しすぎたのだと誰も文句を言わなかったが、このままではアーティストとしてやっていけなくなる。Mrs.を護れなくなる。どうにかしなければならないが、急がなくてもいいという社長の言葉に甘えさせてもらっている。
そんな日々を送っていると、社長が一夜限りのドームライブを行いたいと言い出した。それじゃなくても忙しいのに? と思ったけれど、なんとなくそれはやらなければならないような気がして、チーム総出でセトリから演出までを急ピッチで詰めていった。2ヶ月後なんて本当に無茶を言う。よくドームを押さえられたなとも思うし、何か意図があるのだろうという気もしたが、単なる話題作りのような気もした。ありがたいことにチケットは完売し、SNSや雑誌でも大きく取り上げてくれた。
もしかしたら涼ちゃんが観にきてくれるかもしれないという淡い期待を抱きながら、でもそんなことを社長が許すわけがないかと自分自身の期待に予防線を張りながら、当日を迎えた。
「……元貴」
今から出るという少し前のタイミングで、若井が俺に向かって両腕を広げた。俺は薄く笑って迷うことなくその腕に飛び込み、強く抱き締めた。
本当ならここにもう1人いるはずなのに、とお互い思っていても口にはしない。言っても仕方がないことを言うのはやめた。今はただ、俺たちにできることを、なすべきことを、したいことをやろうと約束をした。
前奏が鳴り、扉が開く。大歓声とスティックライトの光に包まれた、幻想的な世界にゆっくりと足を踏み出した。
涼ちゃんが護りたかった世界は、こんなにもうつくしい。
数曲の披露とあと、トークの時間になった。なに食べたのー? という観客の声に「麦茶」と応じ、リハーサルで起きたトラブルの話をしたり、映像化されたライブの話をしたりする。
急遽決めたライブなのにたくさんの人が来てくれてありがたいよね、とぐるっとドーム全体に視線を送った。
家族だと思われる集団、恋人と一緒に感動している人、1人で参戦してくれたのだろう男性……
『……え?』
思わず、声が漏れた。高性能のマイクはそんな俺の声をちゃんと拾い上げた。
1階席最後列、点のようにしか見えないその人物に、俺の目は釘付けになった。なぜか分からない、分からないけれど俺の本能が叫んでいた。
りょうちゃん。
暗くてよく見えないのに、その人物は涼ちゃんだと何かが俺に告げていた。キャップをかぶって佇むその人が、涼ちゃんであると確信していた。だって、彼だけが光って見えた。闇の中に一筋の光が差し込むかのように、そこにだけスポットライトが当たったかのように。
『元貴?』
心配そうに俺を呼ぶ若井の声にハッとなり、かくれんぼってしたことある? と話しかけた。ドクドクとうるさい心臓に気づかれないように、努めて平静を装った。
若井がぷっと吹き出す。
『急ハンドルすぎでしょ。したことあるよ、子どもの頃だけど』
『隠れる方苦手でさぁ』
『元貴じっとできないもんね』
『そう、そうなのよ』
隠れているうちに寂しくなるから、自分から見つかりにいってしまうのだ。じっとできないというか、じっとしていたら見つけてもらえないような気がして。置いて行かれて、取り残されるような気がしてしまうのだ。
『でも、鬼は得意だったんだよね』
『そうなの? なんで?』
実際は得意でもなんでもない。正直に言えば、そんなにかくれんぼだってしたことがない。友達がいないからね……って言わせんなよ。
だけど今、人生を懸けたかくれんぼを涼ちゃんとしている。だから、敢えて口にする。
『諦めが悪いから。見つけるまで絶対にやめない』
会場が笑いに包まれる。
『うわ、いちばんこわいやつじゃん。それで言うと涼ちゃん弱そうだよね』
若井が笑いながらパネルの涼ちゃんを見て言う。俺もパネルに目を向けながら小さく笑った。当たり前のように涼ちゃんの名前を出してくれる若井に感謝をしながら。
確かに弱そうだと思う。隠れているうちに寝てしまいそうだなって思う。1人でしゃべってそうだし。
だけど、この2ヶ月、もうすぐ3ヶ月か、涼ちゃんは身を隠し通した。今のところ涼ちゃんの圧勝じゃん?
『いやっ、どうかな、意外と強かったりするんじゃない?』
自然な動作で先ほどの人物の方に視線を送る。相変わらず点にしか見えないけれど、その人に伝わるように。
『今度企画でやってみる?』
『鬼やるわ』
『こっわ』
『逃がさなくってよ』
トークにキリをつけて次の曲に移る。気がそぞろにならないように気をつけながら、演出を壊すことのないように自制して最後まで歌い切った。音楽にはいつだって真摯でありたいから。
アンコールも終えて、サポメンも含めて全員で一列に並んで最後の挨拶をする。
『次は涼ちゃんと3人で皆さんの前に立ちたいと思います。本日はありがとうございました! また会いましょう!』
全員で手を繋いで頭を下げる。大歓声の中幕は閉じられ、照明が落とされた。
舞台袖に引っ込んですぐ、会場の中に視線を送る。多くの人がざわめきながら退場してゆく。流石にこの中から先ほどの人物を見つけるのは無理だと悟り、どうするべきかを考える。
見間違いかもしれない、いや、そもそもはっきりと見えてすらいないかもしれない。
でも、ほんの1%でも可能性があるなら、縋り付いてしがみつくしかない。俺の本能を信じるしかない。
涼ちゃんがここに1人で来たとは思えない。涼ちゃんが1人でここに来るにはリスクが高すぎる。
涼ちゃんの病気についてあの後ひたすら調べた。ゆるやかに視力が低下するが、医師のいう通り特に夜目が効かなくなり、暗いところでの視界はほぼゼロに近いらしい。そうなれば車の運転なんてできるはずがないし、人目が多い電車でくるとも思えない。誰かが付き添っているはずで、その付き添いに最適なのはチーフしかいない。ここ最近チーフは別行動が多かった。涼ちゃんの傍にいてくれていることは想像に難くなかった。今日は社長の可能性もあるけど、社長よりもチーフの方が動きやすいだろう。
「どした元貴?」
会場を食い入るように見る俺に若井が何をしているのだと声をかける。説明しようと若井を振り返って、俺たちを映すカメラが目に入った。
「……カメラ」
「は?」
「カメラ!」
足をもつれさせながら走り出す。スタッフの合間を縫いながら、控え室の横の警備室に入った。俺の後を追ってきた若井に視線を送る。言葉にすることはできない。名前を口にすることは許されない。俺がついた嘘はまだ有効だから、彼がここにいたとしたらその言い訳を考えるには時間がなさすぎる。
鬼気迫る俺の目に、若井がまさか、と目を見開いた。伝わって良かった。その察しの良さに、何度助けられたか分からない。
「キャップ、マスク、たぶんチーフ」
「分かった」
いきなり乗り込んできた俺たちに警備室は困惑を隠しきれていないが、そんなことを気にしてはいられなかった。各所に設置された防犯カメラの映像を、山のようにあるモニターを必死で見つめる。どれを見ていればいいのか分からないほど多くの人の姿。数万人を収容できる大規模なライブだったのだから当たり前だ。
主催者である俺たちがここから動かないのにチームのスタッフは誰1人として咎めなかった。何かを感じ取ってくれたのか、状況を察した社長が口添えをしたのか、いずれにせよ好都合だった。
涼ちゃん以上に優先すべきことなんて、なにひとつとしてないのだから。
「……いた」
「どれ?」
「これっ、どこですか!?」
俺の質問に警備員が地下駐車場です、上擦った声で言った。
警備室を若井と一緒に飛び出して、一目散に地下駐車場へと向かう。ステージを終えたそのままの格好で疾走する俺たちに、すれ違うスタッフたちに不思議そうな目を向ける。エレベーターは機材の搬出で使用されているため、階段を使って駆け降りた。
靴音が響く。息が上がる。20曲以上歌って、踊って、騒いだのだ。体力はとうに限界を迎えていた。
地下駐車場の入り口に着くと他のスタッフはおらず、俺が会場で見かけたキャップを被った人物とチーフマネージャーの背中が見えた。バタバタとうるさい俺たちの足音にその人物が振り返り、チーフを突き飛ばして走り出した。
「涼ちゃん!!」
慟哭するように名前を叫んだ。駆け出した背中を追いかける。返事はないけれど、その反応が答えだった。
薄暗いから視界は良くないはずなのになんでそんなに速く走れんの!? そんな元気があるならライブステージ立てるだろ! なに諦めてんだよ! 柄にもなく諦めてんじゃねぇよ!
「待って! 涼ちゃん!」
追いつきそうなのに、追いつかない。こぶしひとつ分届かない。くそ、走りにくいな!
「涼ちゃん! ねぇ、待ってってば!」
すぐ近くで車のエンジン音が聞こえる。ヘッドライトが光り、タイヤが床をこする音が響く。それに気づいていないのか見えていないのか、涼ちゃんはそのまま走り続けた。
「涼ちゃん!!」
歯を食いしばって思いっきり一歩を踏み出して、涼ちゃんの腕を掴んで引き寄せ、その反動で2人して地面に転がった。その拍子に涼ちゃんが被っていたキャップが落ち、黒くて長い髪が垂れた。濡れた目が俺を見てすぐに逸らされ、その態度に見つけた喜びよりも怒りが湧き起こり、涼ちゃんの胸ぐらを掴んで衝動のまま声を上げた。
「なに考えてんの!? 死ぬ気かよ!」
「……ッ」
「元貴!」
俺の叫びが聞こえたのか、若井が俺たちに追いついて俺の肩を掴んで引き剥がした。肩で息をしながらうなだれる涼ちゃんの姿を見て、若井が小さく、りょうちゃん、と呟いた。信じられないものを見るような、安心したような、泣きそうな声だった。
涼ちゃんを轢きそうだったワゴン車は思った以上に手前で止まっていて、むりやり引っ張り込まなくてもぶつからない程度の距離を保っていた。まるで最初から涼ちゃんを轢くつもりなどなかったかのように。
その予測を裏付けるように、運転席からは見知った人物が降りてきた。
「しゃ、ちょぅ……」
「乗りなさい。騒ぎになる前に」
涼ちゃんが泣きそうな声を上げた。難しい顔をしていた社長は少しだけゆるやかに微笑み、俺を見て表情を固くした。それでもなにも言わずに後部座席のスライドドアを開け、涼ちゃんの腕を引っ張った。
「はやく。搬出チームが来る前にここを出る」
その言葉は俺たちにも向けられていて、俺は小さく頷いて、涼ちゃんを押し込むように後部座席に乗り込んだ。若井も乗り込んで、ドアを閉める。
社長が運転席に座り、少々手荒く車を発進させた。
車内は重苦しい沈黙に包まれていた。俺は涼ちゃんの左手を右手で握り締め、左手は若井と繋いだ。
感動の再会なんて望んでいなかったけれど、こんなに心臓に悪い再開も望んでいなかった。目の前で涼ちゃんを失うかもしれなかったのだ。運転していたのが社長だったから、そうはならなかっただけの話だ。
「……これも、社長のシナリオですか」
非難するような俺の声に社長は小さく笑った。
呆れているけれど、それでもどこか嬉しそうな笑い方だった。
「まさか。数万人の中から見つけるなんて予想だにしていなかったさ。むしろ見つけさせないためにドームにしたのに」
2ヶ月前にドームライブをやりたいと言ったのは、涼ちゃんを連れてくるためだったのだろう。けれど決して、俺に見つけさせるためではないだろう。どちらかといえば、涼ちゃんに見せるためにライブをやったと言うべきだ。
小さなライブハウスでは俺が見つけてしまう可能性が高く、涼ちゃんの体調を考慮したのと、ドームよりも収容人数が少ないから屋外ステージを除外し、人が密集するが室内で、駐車場も直結だなドームが一番利便性が高かった、というだけだ。木を隠すなら森の理屈で、むしろ涼ちゃんを秘匿しようとした。
納得はいかないが、それでも感謝はするべきだ。社長にとっては誤算だったかもしれないが、おかげで涼ちゃんを見つけることができたのだから。
息苦しさからマスクを外した涼ちゃんをじっと見る。演技でもなんでもなく辛そうな涼ちゃんは、俺の視線に気づいて目をこちらに向けた。
だけど、視線が合わない。虚ろな目をしているからではなく、きっと涼ちゃんは俺の顔が見えていない。焦点の合わない笑顔にずきりと胸が痛んだ。
「……なんで」
涼ちゃんが顔を歪めて言った。口元だけが不自然な弧を描いている。
「なんで……、見つけちゃう、かなぁ……ッ」
ぼろっとこぼれた涙が、俺の手の甲に落ちた。あったかくて、切なくて、苦しくなって俺の頬にも涙が伝った。
「言ったじゃん」
ぎゅぅ、と痛いくらいに手に力を込める。見えていないなら、せめて俺の存在をその手で感じて欲しくて。会えたことが夢ではないと知って欲しくて、俺自身にも言い聞かせたくて。
「待ってて、って」
絶対に見つけてみせるから、見つけるまで諦めないから、3人でステージに立つって。
静かな車内に涼ちゃんの嗚咽だけが響いていた。誰もなにも言わなかった。ただ、隣にいる存在を確かめるように、逃がさないように、きつく指を握り締めていた。
数十分後、車は閑静で自然が豊かな場所で停車し、エンジンを止めた社長は俺たちを振り返ることなく車を降りた。
どうするべきなのかが分からずに若井と顔を見合わせると、
「……降りて」
涼ちゃんが小さな声で言った。え? と訊き返す俺に困ったような顔で続けた。
「俺の、今の家。……もう逃げないから、手、痛い」
「あ……ごめん」
握り込んでいた指の力を少しだけ緩めるが、指は絡めたままに離す気はないと意思表示をすると、逃げないのに、と拗ねたように言った。俺が離したくないだけだよと言うと、涼ちゃんは苦しそうに俯いた。
手は決して離さないまま家の中に入ると、涼ちゃんのにおいに包まれた。あたたかな家だった。家具も何もかもに見覚えがあり、全部涼ちゃんの家にあったものだと気づくのに時間は掛からなかった。3ヶ月ぶりに見るそれが懐かしさを呼び起こす。涼ちゃんが1人で住んでいたマンションを再現したかのようだった。
本当に、ここに住んでいたんだ……。
2人で並んで座って映画を観たソファ。涼ちゃんのお気に入りだったカーテン。人をダメにするクッション。いつかの誕生日に贈った電子レンジ。ひとり暮らしにしてはサイズが大きかった冷蔵庫。全部、涼ちゃんの家にあったものだ。
社長が涼ちゃんにベッタリとくっついて離れようとしない俺を見て溜息を吐き、一回離れなさい、と諫めた。睨みつけるように社長を見ると、言うことを聞かない子どもを叱るみたいにもう一度深い溜息を吐きやがった。
「そのままでは風邪を引く。大森たちの荷物はチーフに持ってくるよう頼んだから、ひとまずお風呂に……藤澤、座れるか?」
「涼ちゃん!?」
異変に気づいた社長が涼ちゃんを支えるよりはやく、涼ちゃんから力が抜けて倒れ込むように崩れ落ちた。俺が腕を掴んでいたから強打することはなかっただろうけれど、慌てて俺も膝をついた。
若井が駆け寄って、俺と2人で涼ちゃんの身体を支えてソファに座らせた。
「横になる方が楽?」
こく、と頷いた涼ちゃんの頭をゆっくりと俺の膝に乗せると、涼ちゃんは蒼白を通り越して真っ白な顔を両腕で隠した。なにもできない俺は、涼ちゃんの頭をゆっくりと撫でる。若井は涼ちゃんの胸元に手を添えて、とんとんと緩やかなリズムを刻んだ。安心してほしくて、委ねてほしくて、頼ってほしくて、俺たちがここにいることを知ってほしくて。
暫くそうしていると調子が僅かなり回復したのか、涼ちゃんが隠していた腕を外して俺を見た。
泣きそうに揺れている目にぎゅっと心臓が掴まれたような気持ちになる。光があるおかげなのか、今はちゃんと目が合っている。
「……もとき」
消えてしまいそうな小さな声だった。何かを必死に堪えて、苦痛を訴えるような声だった。
「うん?」
やさしく、おだやかに聞こえるように意識しながら応じる。
涼ちゃんの目が、若井の方に移動する。
「……わかい」
泣きそうに、声を震わせる。若井も俺と同じように、やさしく、やわらかく微笑んだ。
「なに?」
ぎゅっと唇を噛み締めた涼ちゃんは、それっきりなにも言わなかった。
涼ちゃんが言葉にするのを時間をかけて待っていると、俺たちの荷物を抱えたチーフが入ってきた。俺たちの様子を見て一瞬だけ顔を歪めたが、なにも言わずに傍で同じようにただ俺たちを見守っていた社長の元に駆け寄った。
「首尾は?」
「オールクリアです」
端的なやりとりに、極秘任務か何かかよとおかしくなる。
「さて、これからの話をしようか」
社長が向かい合うソファに腰掛けた。そのままでいいと言われたが、首を振った涼ちゃんは身体を起こした。さっきよりは顔色がマシになっていて、ほっと息を吐いた。
「改めて訊こう、どうしたい?」
涼ちゃんの身体が強張ったのが隣に座っていても分かった。社長は俺たちに訊いているのではない、涼ちゃんに訊いているのだ。俺と若井の答えなんて分かりきっているから訊くまでもないのだろう。口を挟みたくなる衝動を必死でに押さえつけ、我慢するために涼ちゃんの手に俺の手を重ねた。その俺の手に、若井の手が重なった。
「……俺は」
吐き出された声は震えていた。
聞くことのできなかった本音が、求めてやまなかった答えが、やっと聞ける。
「いつか見えなくなるのに、Mrs.にいるべきじゃないと、思ってる」
俯いたまま呟いた涼ちゃんの言葉に奥歯を噛み締める。若井が何か言おうとするのを社長が手で制した。程度の差はあれど見えなくなるのは確かだ。下手な慰めなんてするべきじゃない。
「キーボードが弾けないのに、Mrs.にいちゃいけないって、思ってる」
確かにそうなのかもしれない。奏者としてバンドグループに属しているのに楽器が演奏できないなら、存在意義を問われても仕方がない。
俺の音楽を想い、足枷になりたくないと、俺の楽曲制作の制限をしたくないと、俺には俺のやりたいことをやって欲しいという涼ちゃんの悲痛の願いを知っているから、なにも言うことができない。どうすればいいのか、俺自身が分からない。
アーティストとして生きたいと切望する涼ちゃんに、俺の音楽を演奏することが生きる意味なのだと言った涼ちゃんに、俺はかけるべき言葉が思い浮かばない。
だけどどうか、願ってほしい。
音楽が涼ちゃんにとって命よりも大切だと分かっていて、酷なことだと分かっているけれど、どうか望んでほしい。
俺の胸中を埋め尽くす自分勝手な欲望を表出させないように唇を噛んだ。
涼ちゃんがふと顔を上げて、穏やかに笑った。何もかもを受け入れて、何もかもを諦めた。そんな笑顔だった。
「……今日、ライブで、2人が楽しそうで、安心した。俺がいなくてもMrs.は続くんだって、誇らしくて、嬉しかった」
感情の読めない表情で話を聞いていた社長の目が揺れた。きっとそんなつもりじゃなかったのだろう。いくつも先を読んで行動を先回りする社長が、誤算を悟った瞬間だった。俺が涼ちゃんを見つけたことといい、今日は社長にとって誤算だらけだ。
「うれしかったんだよ、俺。元貴たちを傷つけて、それでもどうしても護りたかった景色が見れて、ほんとうに、うれしかった……ッ」
綺麗な笑顔のまま、涼ちゃんの目から涙があふれて頬を伝った。
「うれし、かった、のに……ッ、あんしん、したのに……ッ、これで、あきらめられる、って、おもった、のに!」
ぼろぼろととめどなく涙はあふれ、俺と若井の手を濡らした。俺たちの目からも涙がこぼれ、誰のものか分からない嗚咽が響いた。
「ふたりに、あ、あったら、ひけ、なくても、いたい、って、いっしょに、いたいって、ねがっちゃったじゃないか……ッ!」
「いてよ」
「っ」
「いてよ、傍に! 俺の、俺たちの傍にいてよ!」
願ってよ、望んでよ、求めてよ、欲してよ。
俺は、願ってるし望んでるし求めてるし欲してる。
アーティストの藤澤涼架じゃなくて、ただの藤澤涼架をただひたすらに。
「……ひけ、ないんだよ、おれ。みえない、の……ッ」
「うん」
「みせす、でいられ、ない……ッ」
「Mrs.だよ。Mrs.のキーボードは涼ちゃんしかいない。涼ちゃんしか要らない」
涼ちゃんを抱き締める。若井も、俺と涼ちゃんを抱き締める。
酷なことを言っている。無理なことを言っている。だけど、どこまでも本音で、嘘偽りのない真実だ。
「……大森」
「なん、ですか」
「新曲は書けそうかな?」
「ッ」
こんなときに何を、と社長を睨みつけると、社長は穏やかに、安堵の表情を浮かべていた。
「藤澤の身体への負担を考えると、演出も演奏もさまざまな制約が課せられる」
「制約じゃありません」
社長の言葉をキッパリと否定する。
「確かに変えなければならないことはたくさんあると思います。考えなければならないことも。でも、それは制約じゃない」
これは、涼ちゃんにも伝えたいことだ。
「俺は、若井のギターと涼ちゃんのキーボードを想って曲を書くんです。2人がいるから楽曲になるんです。それなら、涼ちゃんが弾くことのできる楽曲がMrs.の音楽になるだけのことです」
社長は少しだけ考えたあと、そうか、と頷き、胸ポケットからひとつの鍵を取り出して涼ちゃんに差し出した。
なんの鍵だろうと見つめる俺たちに、涼ちゃんが、あのお部屋、と呟いた。
「言っただろう? 必要な時がくると」
俺たち3人で顔を見合わせる。立ち上がろうとする涼ちゃんを支えて、鍵の掛かった部屋のドアの前に立った。
震える手で涼ちゃんが鍵を差し込み、ゆっくりと回した。がちゃ、と鍵が外され、引き抜いてドアノブを捻った。
「……!」
広くはない空間だった。だけど、なんの部屋かなんてすぐに分かった。
「体調を第一に考えながら、好きに使いなさい」
キーボードが静かに、奏者を待ち侘びるようにそこには置いてあった。
続。
こんな予定じゃなかったんだけどなぁ。
あと2話くらいだと思います。たぶん。
コメント
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一気読みしてしましまいた😭 天国聞きながら読んだのですが小説で初めて泣きました。
長くなるし待ってないと思うんですけど語ってもいいですか?いいですよ笑 前回は💛ちゃんに諦めないで、逃げないでと思ったり、魔王とチーフマネにもうそっとしておいてあげては…と思ったり。盛大な後出しなんですけど、終わり方はえっ?てなったんですけど、Keiさんの💛ちゃんへの愛を見ていたので、なんの救いもない終わり方はしないだろうと思って、じゃあ未遂?軽傷?てわからなくて、なんも言えねぇになりました😅
余韻で心臓バクバクだしなんかもう感動・感謝・驚きそのほか色々な感情混ざりまくってうわぁぁぁぁぁ!!って感じでした(´;ω;`) (訳:今回もやっぱり最高でした本当にありがとうございます)