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「誰だ? 子供?」
聞こえてきた声は夜の闇に低く響く、大人の男性のもの。
暗闇にぼんやりと、姿が浮かび上がる。
さくり、さくりと近付いてくる足音。
現れた姿は、長身の見知らぬ男性だった。
びくりと身体を震わせれば、彼は少し焦ったように首を振る。
「あ、ごめん、怖がらせるつもりは無くって……えーと、迷子……なのかな?」
最初に誰何された時は怖いと感じた声だが、今はとても優しく声をかけてくれているのが分かる。
私を怯えさせてしまったから、気を使ってくれているのだろう。
栗色の髪は短く刈り込まれ、長身で逞しい体格と相まってかなり男性らしい印象を受ける。
でありながらエメラルドを思わせる深い翠色の瞳は優しげな光を湛え、わざわざ膝を折って目線を下げて話しかけてくれている。
「あ……いえ、迷子ではありません」
「そうか。じゃ……」
何故……と聞こうとしたのだろう。
彼はそこで逡巡し、ポケットに手を入れた。
ハンカチを取り出して、私の目元を優しく押さえる。
大きくて逞しい彼が精一杯身体を小さくして、私を怖がらせないように、そして傷つけないように、そーっとそーっとハンカチで涙を拭っている。
逞しい外見と行動とのギャップ。
彼はまるで優しい熊さんだ。
そう気付いた時、自然と笑みが零れていた。
「良かった。泣き止んだ?」
「あ……はい」
こくりと頷き、次いで今の状況に思い至り、慌てて頭を下げた。
「すみません、有難うございます」
「いや、別に御礼を言われるようなことは何もしていない」
顔を上げて、じっと彼を見つめる。
年はおそらく二十代半ば。ラフな格好で出歩いていることから、この村の人だろう。
ハンカチを押し当てられた時の大きな手が印象的だった。
「迷子じゃないってことは、帰る家は分かるのかな。この辺の子にしては、見覚え無いけど……」
「はい。この村の宿屋に逗留しています」
「ああ」
なるほどと頷く彼は、今日宿が貸し切りになっていることを知っているのだろう。
「確かなんちゃら伯爵家の人が来てるって……え、まさか使用人の家族ってことは無いよね。じゃ、そこのご令嬢?」
「ご令嬢……とも言えない立場です」
彼の言葉に、苦笑いで返してしまう。
身分だけならば、確かに令嬢なのだろう。しかし、私への扱いはとてもそうとは言えないもの。
「私は、養子なので」
「あー……」
事情があることを察したのか、彼はそれ以上は踏み込んで来なかった。
かわりに、大きな掌がぽんと頭を撫でた。
驚いて見上げれば、優しい瞳がこちらを見つめている。
「大丈夫? 帰れる?」
「はい、一人で帰れます。ただ……」
これまで言いたくても誰にも言えなかった言葉が、自然と喉元まで浮かび上がってくる。
「帰りたくなかった、だけなんです……」
こんなことを言われても、困らせてしまうだけなのに。
言葉が止まらなくて、自然と涙まで零れそうになる。
ぎゅっと目を閉じて溢れそうな涙を堪えていれば、彼は無言のまま俯く私の髪を優しく撫でてくれた。
「こんな子供にこんな顔をさせるなんて……」
ぼそりと呟く声は、最初にかけられた声よりももっと低く、凄味のある声。
思わずびくりと身体を震わせたなら、慌てたような声が返ってきた。
「ああ、ごめん。そんなつもりは無かったんだけど、えーと」
私に話しかけてくる声は、どこまでも優しい。
「俺はグレン。家具職人をしているんだ。君は?」
「ヴァージニア・デインズと申します」
「デインズ……」
ぽつりと呟く声に首を傾げれば、再び優しい笑顔が返ってきた。
こんなに優しく接してもらったのは、一体いつぶりだろう。
幼い頃、一緒に居てくれた乳母がいつも笑いかけてくれていたのはぼんやりと覚えている。
だが、そんな彼女はいつの間にか伯爵邸から姿を消してしまった。
私に優しくしてくれる人は、叔父一家――特にジェイニーに知られれば、酷い目に遭うかもしれない。
相手が平民であれば、遠慮なんてする必要が無い。彼等はそう考えるはず。
「ごめんなさい、ちゃんと……帰ります」
笑顔を向けてくれるグレンさんに、こちらも笑いかける。
……私はちゃんと笑えていただろうか。
「帰って……いいのかい? 君は……」
グレンさんはとても心配そうだ。
優しい人に心配をかけてしまった。これ以上、彼に迷惑をかける訳にはいかない。
「はい。有難うございます」
ぺこりと頭を下げたなら、どこか寂しげな視線が返ってきた。
「そうか……送って行こうか?」
「いえ、大丈夫です。道は覚えてますから」
そう断りを入れて、宿までの道を歩き出す。
優しい人と話せたおかげで、少しだけ心が軽くなった気がした。
これから待ち受ける恐怖を、今この一瞬だけは忘れられるくらいに……。
宿に戻れば、既に食堂で皆が食事を取っていた。
叔父一家が中央のテーブルにつき、護衛の騎士達がその周囲を取り囲んでいる。
本来ならば大勢で賑やかに食事をする場所なのだろう。
だが、今は食事をしているのは叔父一家だけだ。
彼等にとって、騎士や使用人達と共に食事をとることなど考えられないのだ。
絶対的な身分差、そこに異様なほどのこだわりを見せている。
自分達だって、正当な後継者では無いくせに……いや、だからこそよりその身分に縋り付いているのかもしれない。
「ああ、お帰りなさいませ」
宿の主人が食堂に戻ってきた私を見つけて、声をかけてくれた。
叔父一家の視線も一瞬こちらに向けられたが、彼等はそのまま手元へと視線を戻した。
「すみません、今は伯爵様方が食事されておりまして……この後も、護衛騎士と使用人の皆さんが食事予定で……」
「はい。待っています」
ここで寝るようにと言われている私には、休む部屋も無い。
全員が食事を終えるまで、ここで待っているしか無いのだ。
せめて、食堂の隅で目立たないようにしていよう。
こうして大人しくして居れば、鉄板を投げられて火傷するようなことも無いかもしれない。
僅かな期待を込めて、食堂の隅で店主が用意してくれた椅子に座る。
食事中のテーブルから怒号が上がったのは、その直後のことだった。
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千椛