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「貴様、こんなことをしてただで済むと思うのか!」
突然の怒号は、叔父の声だ。
見れば、給仕していた少年が必死に頭を下げている。
「あーあ、見てよこれ。お気に入りの服だったのに」
どうやら給仕が持ってきたグラスからジュースが零れ、ジェイニーにかかってしまったらしい。
激高した叔父が少年の胸ぐらを掴んで、その身体を持ち上げる。
貴族の嗜みとして剣を習った叔父は体格に恵まれ、膂力にも秀でている。
少年の身体が床から浮き上がり、足が宙を掻く。
苦しそうに藻掻き自分を掴んだ手を振り解こうとするが、子供の力で敵うはずも無い。
「イアン!!」
店主が声を上げ、駆け寄ってくる。
イアンというのは、少年の名前だろう。
ひょっとしたら、店主の息子なのかもしれない。
「申し訳ございません、とんだ粗相を……」
「謝って済むと思っているのか! この子供はジェイニーに飲み物を浴びせかけたのだぞ!」
「は、わざとでは有りませんので……どうか……」
「わざとでは無いから、情けをかけろなどと言うつもりは無いだろうなぁ!?」
「ひっっ」
叔父の勢いに、店主の顔が蒼白となる。
その光景を目の当たりにした私は、自然と動こうとする身体を必死に押さえ込んでいた。
ヴァージニアは不遇な環境に有りながらも、生まれ持った強い正義感を失わない子供だった。
小説ではヴァージニアがイアンを庇い、叔父の不興を買って熱々の鉄板皿を叩き付けられるのだ。
カチャリと、皿が鳴る音がする。
こんな騒動の中にあっても、デインズ家の使用人達は顔色一つ変えずに職務に従事している。
使用人にとって、こんなのは日常茶飯事。慣れたことだ。
あれは叔父の前にメイン料理が置かれた音。
この村で育てた牛を使った豪勢なステーキが、高温に熱せられた鉄板皿に乗せられている。
私にとっては、恐怖の象徴となる存在。
彼を助けなければと思うヴァージニアの心と、この後の展開を知る私の恐怖心とがせめぎ合う。
足は一歩を踏み出そうとするのに、腰から上は凍り付いたように動けない。
ただ目を見開いて目の前の光景を凝視するのみ。
「……何を見ている?」
「ヒッッ」
低く凄味のある声。
私の様子に気付いてか、叔父がこちらを睨み据えていた。
叔父のテーブルには、ワイングラスが置かれている。
そう、今の叔父は酒が入っているのだ。
酒が入った時の叔父のたちの悪さを、私はこの八年間で嫌というほど思い知って来た。
「酷い、私がこんな目に遭っているのに笑ってたんです!!」
ジェイニーの声が響く。
嘘だ。
私は笑ってなど居ない。
今の私に、笑える訳が無い。
こんなにも、恐怖で凍り付いているというのに。
「なにぃ!?」
ジェイニーの言葉に、叔父が声を荒らげる。
違う。
笑っているのは、ジェイニーだ。
叔父が悪鬼の如き形相で私を睨む様を見て、声を殺して口の端を上げている。
小説とは違う。
私は少年を庇わず、叔父の前に立ち塞がらなかった。
この距離であれば、叔父に鉄板皿を叩き付けられることも無い。
こんな時だと言うのに、自らの保身ばかり考えている自分が嫌になった。
だって私は聖女であって、聖女では無い。
自己犠牲の精神も、正義感も、何も持ち合わせてはいない。
中身は二十一世紀を生きていたただの日本人――下条可憐なのだ。
聖女の心を持ち合わせているのは私では無くヴァージニアだ。
「いつもいつも、俺達を馬鹿にしやがって……」
酔った叔父がいつも言う言葉。
ヴァージニアは母親似だ。
この言葉を口にする時、叔父はいつも私を見ているようで、私を通して母の面影を見ている。
伯爵家の長子である良く出来た姉と、継承権の無いごく潰しの弟。
それが叔父に向けられていた親族からの評価だ。
母に抱いていた劣等感、それがそのままヴァージニアに向けられているのであろう。
「お前なんて――ッ」
「――…!!」
叔父が手にしていたものを投げつけてきた。
瞬間的に、目を瞑る。
ガラスの割れる甲高い音。
次いで、店主と少年の悲鳴が響く。
熱い。
投げつけられた物が当たる衝撃はあったが、痛みよりも先に熱さがこみ上げてきた。
ぶつかった場所が酷く熱を持っている。
「あ――ああ、なんてことを!!」
店主の狼狽した声が聞こえてきた。
こんな風に心配して貰えるのは、なんだか新鮮だ。
デインズ家では、私を心配してくれる人なんて居なかったから。
「すぐに手当を――」
「構わん、放っておけ!!」
店主の言葉を、叔父が制する。
「しかし、あのままでは……」
「別にいいのよ、あの子は」
なおも食い下がる店主に、ジェイニーが笑いながら声をかける。
「少しは見れる顔になったわよ、お・ね・え・さ・ま」
わざとらしい口調の後に、ジェイニーの哄笑が響いた。
見れる顔とは何だろう。
今もなお熱さは続いていて……いや、熱さが広がっている気がする。
投げつけられた場所――左眉尻の少し上あたりから頬を伝って顎にまで、熱いものが伝っている気がする。
頬に触れたら、ぬるりと感触がした。
恐る恐る目を開ければ、眼下にある私の手が真っ赤に染まっていた。
手だけでは無い。
私が立つ食堂の床も、赤く染まっている。
ぼたり、ぼたり。
赤い染みは今も広がり続けている。
床に散らばる透明なガラス片を彩りながら、じわりじわりと血だまりが広がっていく。
そう。これは、血だ。
ワイングラスを投げつけられて、私の額がばっくりと割れてしまったのだ。
その瞬間、全てを理解した。
熱い鉄板皿で火傷を負って、屋敷に軟禁されるはずだったヴァージニア。
しかし、私は動かなかった。
少年を庇うことも無く、叔父の手の届くところに向かいもしなかった。
だからだろう。
新たに書き換えられた筋書きとして、私は顔に傷を負ったのだ。
きっとこれから外に出られることは無く、ヴァージニアは伯爵邸に軟禁される。
ただ、火傷痕が傷痕に変わっただけ。
運命は、変わらない。
そう思い知った瞬間、私の意識はまるで糸が切れてしまったかのようにぷつりと途絶えた。
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