その夜更け、猫鳴町の外れにある教会に、月明かりを背に一匹の猫が姿を現した。
銀色の毛並みを持つその猫、鷹丸でござった。鷹丸は颯爽と教会の屋根に飛び乗り、
目指すは奥の小屋。その小屋こそ、形見の絵画が隠されていると聞き及んだ場所にござった。
辺りはしんと静まりかえり、虫の声すらも聞こえぬ。鷹丸は風を切るように屋根伝いを進み、
やがて目的の小屋へとたどり着いた。屋根の隙間から様子を窺い、天井裏へと忍び込む。
暗闇の中、紅のような双眸を光らせ、下を覗き込むと――そこには確かに噂の絵画が掛かっておった。
「あれが旦那の形見ってわけか」鷹丸は低く呟くと、そっと天井の板をどかし、下へ降りる準備を始めた。
だが、その時――
「ギィッ」
小屋の扉が音を立てて開いた。鷹丸は瞬時に身を潜め、息を殺す。
「こんな夜更けに見回りとはご苦労なこった」と呟きながら、じっとその様子を窺う。
入ってきたのは、ロウソクを手にした美しきシスターであった。シスターは絵画の前に立ち止まり
その場で静かに祈りを捧げ始めた。その神々しい姿に、さすがの鷹丸も一瞬見惚れる。
「仕方ねぇ、しばらく待つとするか」
鷹丸は気長に待つ覚悟を決めたその時――
「チューチュー」
耳元で聞こえる小さな音。天井裏をうろつく一匹のネズミが姿を現したのだ。鷹丸は目を細め、
静かに「おい、今はかまってられねぇんだ。どっか行け」と囁いた。だが、ネズミは動じる気配もなく、
あちらこちらと動き回る。
「チューチュー」
「むこうに行けって言ってんだろ!」
そう目で追っていた鷹丸だったが、体が自然と疼き出し、思わず尻尾を振ってしまう。
盗人の掟よりも、猫の本能が勝ってしまった。
次の瞬間――鷹丸は天井裏から飛び出し、ネズミに飛びかかってしまったのである。
ネズミに飛びかかったその刹那、鷹丸の足元が「バキッ」と音を立てた。
「おっと――!」
次の瞬間、天井板が割れ、鷹丸は捕まえたネズミもろとも床へと落下。派手な音と共に舞い散る埃の中、
鷹丸が顔を上げると、そこには驚愕に目を見開いた美しいシスターの姿があった。
シスターは声も出せぬまま、その場に尻もちをつき、ロウソクを落としそうになる
さて、そのとき鷹丸、埃を払いつつ、気まずげに頭を下げながらこう申した。
「いやいや、すまん、すまん。おどかしちまったな」
目の前には美しきシスター。手にした白きロウソクの揺れる炎が、その震える指先を照らしておった。
その娘は、困惑の色を隠せぬまま、声を絞り出した。
「あなた、いったい何者でございますか?」
鷹丸、内心で「しまった」と舌打ちしつつも、笑顔を装い、さも何気なき様子で口を開く。
「えーと、まあ、その…俺の飼ってるネズミがよ、ここに迷い込んじまってな。それで、捕まえに来たんだよ」
澄音、怪訝(けげん)そうに眉を寄せ、鷹丸をじっと見据える。
「ネズミ、でございますか?」
これに鷹丸、そばで鳴いておったネズミをひょいと掴み上げ、「ほれ、こいつさ」とばかりに見せつける。
「チューチュー」などと軽口を叩きつつも、その笑顔はどこかぎこちなく、不自然極まりない。
澄音はその様子をじっと見つめながらも、不思議と胸に湧く恐れはなかった。むしろその表情には、
どこか滑稽(こっけい)さすら感じられた。澄音、心の内でつぶやく。
(なぜでしょう。この男、明らかに怪しいのに、なぜか怖くはありません。それどころか…)
「こいつめ、手間かけさせやがって」
鷹丸、ネズミに向かい小声で悪態をつきつつも、その仕草にはどこか愛嬌があった。
澄音、思わず口元に微笑みが浮かびそうになるのを必死にこらえる。
「それにしても…」
澄音、冷静を装いながら鷹丸に問いを投げかける。
「こんな夜更けに、たまたまネズミを捕まえにいらっしゃるとは…妙な話にございますね」
これに鷹丸、ほんの一瞬言葉を詰まらせたものの、にやりと笑った。
「世の中ってのはな、妙なことばっかりさ。そんなもんだろ?」
澄音、その軽薄とも取れる返事に少し首をかしげたが、なぜだろう。
彼のその飄々(ひょうひょう)とした態度に、心の奥に温かなものが広がるのを感じた。
(このオス猫は…悪い方なのでしょうか?)
澄音の胸に芽生えた一抹の安心。それが吉と出るか凶と出るかは、まだ誰にも分からぬことであった。
だがその時じゃった。静けさに包まれていた教会の庭が、突如ざわつき始めた。
さきほどの鷹丸が天井から落ちた音を聞きつけたシスターたちが、不審な物音に気づき
薄闇の中を警戒し始めたようじゃ。
「今の音、なんでございましょう?」
「まさか、誰か忍び込んだのではありませぬか?」
ささやくような声が次第に近づき、その緊張感が小屋の中まで染み入るようじゃった。
その声を耳にした澄音の顔色はみるみる青ざめ、震える手で灯すロウソクの火が、
彼女の胸の内を映すように揺れ動いておった。
(この小屋に入ったのが見つかったら私だけでなくこの方までも
罰を受けることになってしまう)
澄音は心中でそう念じながら、息を整え、目の前の鷹丸を急かした。
「お逃げくださいまし!早く!」
鷹丸はその言葉に一瞬戸惑い、口を開く。
「え?」
澄音はその隙も与えず言葉を続けた。
「ここにいては、あなたも私も見つかります!私は、
教会の規律を破った者として罰せられてしまうでしょう。」
その真剣な表情に、鷹丸は肩をすくめて笑みを浮かべた。
「なるほどな。俺たち、共犯ってわけか。」
「共犯…ですか?」
澄音は困惑したように目を瞬かせながらも、その言葉に何か奇妙な響きを感じたようだった。
鷹丸は軽く、微笑む。
「まあ、そんなところだ。俺の名は鷹丸。あんたは?」
澄音は短く息を吸い、きちんと姿勢を正して応える。
「私は澄音(すみね)と申します。」
その時じゃ、外からの声がさらに近づき、緊迫した響きを帯びてきた。
「音がしたのはあちらの小屋の中ではありませんか?」
「よし、調べてみましょう。」
澄音は慌てて鷹丸の方を振り返り、言葉を重ねる。
「どうか、すぐにここを離れてください!早く!」
しかし、彼女が振り返った時には、すでに鷹丸の姿は消え失せておった。
驚きと安堵が入り混じった複雑な表情を浮かべる澄音。だが、
心の中には先ほどの猫への不信感だけではなく、なぜか一抹の興味が芽生えている自分に気づき、戸惑いを覚えた。
(鷹丸…あの風変わりな猫は一体何者なのか…?)
その疑念と使命感の間で揺れる彼女の視線の先には、月明かりに照らされ、
風のように消えゆく鷹丸の影がちらりと映っておった。そして、澄音は心の中で静かに祈りを捧げた。
(どうか、あの方が無事でありますように…)
そうして彼女も覚悟を決め、小屋を後にしたのでござった。外には、
教会を守るために立ち上がるシスターたちの小さな声と、緊張した足音が広がるばかりであった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!