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――瓶の蓋を開けた瞬間、
あの、甘ったるい匂いが鼻をつく。
一度手を伸ばしてしまえば、もう止まらない。
頭の奥が、指先が、「早く」とせき立てる。
テーブルの上に粉を広げ、無意識に手が動く。
吸い込んだ瞬間、喉の奥に刺すような刺激が走る。
すぐに、耳鳴りと、ゆっくりとした鼓動。
世界が少しだけ遠くなる感覚。
だが、その直後――
ツーッと、生ぬるい感覚が鼻から落ちる。
手で触ると、赤い。
垂れた血はカップの縁に落ち、黒いコーヒーの中でゆらめいた。
鼻血は止まらない。
それでも俺は拭わず、もう一度吸い込んだ。
視界が揺れて、体がふわっと浮くような感覚になる。
目の前の壁が少し歪み、色が変わる。
血の味が喉に広がっても、もうどうでもいい。
痛みも、不安も、全てが遠くなっていく。
思考は溶けて、ただ、次を求める。
冷めたコーヒーの中で赤が広がっていく様子が、妙に美しく見えた。
――若井の顔が、ふっと頭をよぎった。
けれど、その感情すら、すぐに霞んで消えた。
ここまでくると、もう後戻りなんてできない。
そして、それでいい――と、心のどこかで本気で思っていた。
――数分もしないうちに、体の奥から嫌な震えが始まった。
手は勝手に小刻みに揺れ、額からは冷たい汗が滲み出る。
心臓の鼓動は速いのに、呼吸は浅くて、胸の奥に石を押し込まれたみたいに苦しい。
鼻からまたツーッと温かい感覚。
拭こうとしたティッシュがすぐに真っ赤になって、何枚使っても止まらない。
視界の端が暗くなっていく。
膝が勝手に折れて、床に崩れた。
指先が痺れて、頭の中で何かが爆ぜるみたいな音がした。
――このまま眠ったら、もう目は覚めないかもしれない。
そんな予感がよぎったけど、不思議と怖くはなかった。
ただ、もう少しだけこの感覚に浸っていたかった。
どれくらい時間が経ったのか、わからない。
耳の奥でドアのノック音が響く。
重たいまぶたをなんとか持ち上げると、そこに――若井が立っていた。
「……おい、元貴、何してんだよ」
声が震えていた。
床に座り込む俺を見て、若井は一瞬で顔色を変えた。
その視線が、散らばった薬と、血のついたティッシュに向かう。
「……また、やったのか」
責めるでもなく、怒るでもなく、ただ、呆れと悲しみが入り混じった声。
その表情だけは、まともに見られなかった。
俺は笑ってごまかそうとしたけど、喉から出たのはひどく濁った咳だけだった。