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家に戻ると、夕食時で。
「斗希、どこ行ってたの?
食べるでしょ?」
階段を上ろうとした時、リビングの扉を開いた母親に笑顔でそう声を掛けられた。
その扉の向こうには、ダイニングテーブルに座り、夕食を食べる父親の姿が見えた。
父親もこちらを見て、笑顔でおかえり、とか言っていて。
その、扉の向こうに広がる絵に描いたような両親の幸せそうな姿に、
眩暈がした。
今の俺との、その温度差。
俺は階段を駆け上がり自分の部屋へと行くと、
先程父親の部屋で見付けたDNA鑑定書を掴み、
リビングへと行く。
父親は俺の手に持たれたその茶色の大きな封筒にすぐに思い当たったからか、
顔が蒼白としていて。
母親は、意味も分からずキョトンとしている。
「何?それ?
ご飯よそうから、斗希早く座りなさい」
俺はその母親の言葉に答えず、手に持ったその4枚の封筒を、
ダイニングテーブルの上に投げ付けた。
それは、テーブルに並べられた料理の上に乗り。
「斗希、何してるの!」
珍しく、母親が怒っているなと、その言葉を何処か遠く聞いていた。
うちの母親は、ずっと専業主婦で、掃除や裁縫もそうだけど、料理が特に上手で、おやつなんかも手作りで。
いつもニコニコとしていて、俺にとても優しくて。
篤の母親程ではないが、それなりに美人で。
何も知らなかったら、自慢の母親だったかもしれない。
中学一年の時、街中でこいつが知らない男と親しそうに歩いているのを見掛けた。
それを見る前からも、なんとなく雰囲気で、こいつが浮気している事を分かっていた。
今までは、母親にもそうやって秘密がある事を、この人も一人の人間なのだと尊重して、
それを見て見ぬ振りをして来たけど。
「―――斗希、これがなんなんだ?
お前もこれを見たなら、分かるだろ?
特に何も問題なんてない。
ここに書いてあるように、俺とお前は紛れもない親子だ」
父親は冷静さを取り戻し、そう言うけど。
母親は、その言葉でその封筒が何かに気付き、
それを手に取り、必死に中の鑑定書を取り出して確認している。
やはり、母親も俺が父親の子供だと思っていなかったのか?
手に取ったその紙を見る目が、驚いている。
俺の父親は、資産家の家に次男として生まれ、有名な大学を出て大企業に就職し、出世して。
こうやって、俺達家族がいい暮らしを出来るのは、この男のおかげで。
けど、こいつだって、母親以上に浮気や不倫をしていて。
その数多居るこいつの浮気相手の中には、篤の母親も居る。
「斗希君、お父さんによろしくね」
いつか篤の母親に言われた、その言葉。
顔に張り付いた、意味深な笑み。
「―――お前ら、好きじゃないなら、離婚しろよ」
俺の言葉が、リビングに響く。
今まで、俺は両親にそんな汚い言葉を使った事なんてない。
もう、俺だけが”いい子”で居る事を、辞めた。
「何言ってるの?
お母さんはお父さんが大好きよ」
母親のその白々しい台詞に、もはや呆れて言葉が出ない。
「ああ。俺だって、母さんの事が好きだ。
斗希、お前の事だってそうだ。
斗希、学校で何かあったのか?
だから、環境の整っている私立に行けって言ってるんだ。
それなのに、中学も公立に行きたいなんて」
父親は、そうやって問題が家庭にあるのではなくて、外にあるのだとする。
この人は、昔からそうで。
俺を私立に行かせたいのも、環境がどうとかより、ちょっと有名な学校へ俺を通わせ、周りに自慢したいだけの癖に。
「なら、お前ら、本当にお互い愛し合っているんだって、俺にそれを証明してみろよ?」
「斗希、お前さっきからいい加減にしろ。
その口の聞き方。
お前だって外で色々あって大変なのかもしれないけどな!」
父親は持っていた箸を置き、俺を叱り付けるような目を向けている。
もしかしたら、父親にこうやって叱られるのは初めてかもしれない。
こいつは、基本子育ては母親任せなのもそうだけど、
怒る必要がないくらいに、俺がとてもとてもいい子だったから。
俺はテーブルの上に有った大きな長いグラスを手に取ると、それテーブルの角に叩き付け、割る。
中に入っていた、ビールが床に零れ落ちた。
半分に割れたグラスは、凶器となり俺の手の中にある。
「お前達が愛し合ってる所を見せろよ!
ハッキリ言ってやろうか?
今、俺の目の前でセックスして、それを見せろって言ってんだよ!
出来たら、お前らの言ってる事信じてやる」
そのグラスの割れた先を、両親の方へと向けた。
「斗希、いい加減にしろ!」
父親は立ち上がり、俺からグラスを取り上げようと近付いて来た。
俺は、それを阻止するようにグラスを持つ手で振り払うと、
父親の手が切れて、赤い血がポタリポタリと床に落ち始めた。
「早くしろよ!
しないなら、お前ら殺してやる!
お前ら殺して、俺も死ぬ!」
俺のその言葉に母親は泣き出し、
父親は切れた手の痛みで、俺を怖がり始めていた。
その後、俺はどんな言葉を口にしたのかはあまり覚えてないけど。
気付くと、割れたグラスを持ったままリビングの床で座り込んでいて。
父親と母親は裸で。
リビングの床で、セックスをしていた。
両親のそのおぞましい光景を、俺は両目を開けてしっかりと見ていた。
それは、写真のフィルムのように、
しっかりと俺の双眸に焼きついた。
気持ち悪いな、と、そうやって出来て生まれて来た自分の存在を、思う。
今の両親を見ていて、改めて俺が生まれて来たのは間違いなのだと、
思ってしまった。
間違えだから、消さないと。
消えて、なくなりたい。
◇
ちょうど0時になったら、俺はこの世から居なくなろう。
自分の部屋のクローゼットの中、
何枚ものフェイスタオルを繋ぎ合わせたそれを、
ステンレスの棒にくくりつける。
後、10分程で、日付が変わる。
0時になれば、これに首を通して…。
そう考えていた時、勉強机に置いていた俺の携帯電話が、鳴り出した。
その相手が誰か、折り畳み式の携帯電話を開き確認するが、そこに出ているのは公衆電話の文字。
俺の携帯に公衆電話から掛けて来る人物は、一人しか居なくて。
「はい。篤どうしたの?」
電話に出て、名乗る前にそう訊いた俺に、驚いたように息を飲んでいるのが分かった。
『なんで俺だって、分かんだよ?』
「え?なんとなく。
それより、なに?」
『あんな、今からちょっと出て来れねぇか?
すぐそこに居んだけど』
すぐそこの公園の横にある、公衆電話からかけているのだろうな?
「分かった。すぐ行く」
そう言って、電話を切った。
円さんからあの事を聞いたのだろうか…。
でなきゃあ、女の家に泊まりに行った篤から、こうやって呼び出しなんてないだろう。
俺は今から、篤に殺されるのかも、な。
なら、これはもういらないか。
そう思い、クローゼットにくくりつけているそれに目を向けた。
それが人を殺すものだと思うと、
背にゾクリと戦慄が走った。
◇
俺の姿を見付けた篤は、よぉ、とか言って機嫌良さそうにこちらに歩いて来て。
え、と戸惑ってしまう。
その姿は、どう見ても怒っている様子はなくて。
「篤、俺に何の用なの?」
全くの見当も付かなくて、焦ったように訊いてしまう。
「用はねぇんだけど」
なら、なんだ?とさらに焦燥感が募る。
「ほら?今日の夕方、お前なんか落ち込んでたから。
なんか気になってよ」
そう言われ、え、と篤の顔を見てしまうけど。
篤はそうやって見られて、何処か照れ臭そうで。
「気にしてくれてたんだ」
「ああ…」
なるほどね。
彼女である上杉のお姉さんともうヤる事やったから、
俺の事思い出してこっちに来てくれたんだ。
「何が有ったか知らねぇけど、とりあえず、海でも見に行かねぇか?」
「え?海?」
その篤の唐突の提案に、一体何から突っ込めばと、思う。
この辺りに、海なんかないし、それに、今何時だと思っているのかと。
「とりあえず、俺自転車取って来るわ。
お前も、取って来い」
そう言って、俺の意見なんか聞かずに篤は自宅のあるアパートの方へと歩いて行く。
マジか、と思いながらも、俺も従うように自転車を取りに自宅の方へと歩き出した。
篤のボロボロのママチャリの後ろを、俺は自分のマウンテンバイクで追い掛けた。
目的の海へと辿り着いた頃には、
足が筋肉痛で痛くて、明け方近かった。
海沿いの道を走るけど、浜辺がなかなか見えず、もう此処でいいか、と、
篤が先に自転車を止めた。
俺もそれに続き、俺達は歩道に自転車を放り投げるようにして、それから降り、
地面に座り込んだ。
疲れた、とお互い口に出すと、篤と目が合い笑う。
俺も篤も汗だくで、体が熱くて仕方ない。
「あっち登ってみようぜ」
篤の指差す方には、俺達の背の高さより遥かに高い堤防があり、一瞬、その高さに面倒だと思ったけど。
篤はそれに近付き、断面の凹凸部分に足を掛けて、ひょいひょいと登って行く。
そういえば、篤は昔から木登りとか得意だったな、と思い出す。
ボルダリングみたいだな、と、俺も篤を真似して登り始めた。
登り終えると、篤が下を見ていて、
そこには大量のテトラポッドがある。
「降りるか」
そう言って、篤はそれに飛び降りる。
俺は戻る時の事を考えて、下を見た。
壁沿いの手前にあるテトラポッドから、壁に飛び移り、先程みたいに登ればいいか。
それを確認して、俺も篤の居るテトラポッドに飛び降りた。
中学に入って、陸上部に入っているから、足腰は鍛えている方なのだけど。
筋肉痛と今の飛び降りた衝撃で、けっこうヤバい。
波の音が聞こえるし、潮臭い。
海に来たのだと、並んだテトラポッドの向こうを見て思う。
「なんでまた海なんだ?」
そう訊く俺に、
「ほら、こういう時って海だろ?」
そう、よく分からない答えが返って来る。
そして、
「斗希、何かあったのか?」
真剣な目を俺に向けて来る。
何かか…。
父親に自分の子供だと思われていない事や、
篤の姉の円さんを犯した事。
両親に生まれて初めて反抗して、その行為を目の当たりにした事。
自殺しようとした事。
何かあったのかと言われれば、何かあった。
「言いたくねぇなら言わなくてもいいけど。
俺にとってお前はすげぇ大切な奴だから、
お前が苦しいなら、俺も苦しい」
そう言われて、俺にはもう篤にそう言って貰える資格なんかないのに、と思った。
円さんを犯している時、好きな女性だから、というより、
篤の姉だから、という気持ちの方が強かった。
篤の大切なものを、めちゃくちゃにしてやりたい、と。
篤が目の前の俺よりも、女を選んだ事に、あの時腹を立てていたのだと思う。
今、こうやって俺の所に来てくれたけど。
でも、あの時、そのまま俺の側に居てくれたなら、
円さんの事も両親の事も、あんな風になっていない。
やはり、こいつのせいだ。
篤は俺から視線を逸らすと、海面を見るようにテトラポッドの下を覗き込んでいる。
昔、テトラポッドから落ちるととても危険だと聞いた。
その海流が複雑で、上がって来れないと。
それは、本当なのだろうか?
篤の背に伸ばそうとした手を、寸前で止めた。
俺は一体、何をしようとしてるのだろうか?
自分のしようとした事が恐ろしくて、
気付くと、後退るように足を動かしていた。
篤から、離れるように。
すると、篤は再び、俺に目を向けた。
その目が、俺の罪を見透かされたみたいに怖くて、さらに足を後ろに下げた。
「あぶねぇっ」
そう、篤に腕を掴まれていた。
片足がもう宙を踏んでいて、
篤が腕を掴まなければ、俺は落ちていたかもしれない。
「お前はほんと、危なっかしい弟みたいな奴だからな」
篤に腕を引かれ、俺は体勢を整えた。
「弟って、俺が?
逆じゃない?」
「だって、俺は5月生まれだけど、
斗希は12月生まれだから、お前が弟だろ?」
そういう理屈では、そうかもしれないけど。
「斗希の方が俺よりしっかりしてんだけど。
しっかりしてるだけだからな」
そう笑う篤に、意味分からない、と俺も笑っていた。
その夜を境に、俺は変わった。
毎日のように通っていた塾を辞め、
部活も辞めて、放課後は毎日のように篤と過ごすようになった。
そうすると、自然と俺も篤の居る不良グループの一員みたいになった。
タバコはしないけど、
酒を飲んだり、多少、喧嘩をするような事もあった。
篤やその仲間には、先に相手に手を出すな、物を盗むな、
とにかく、警察に捕まるような事はするなと言い、目を光らせた。
塾は辞めたけど勉強は変わらず続けていたから、
不良グループに居ても、俺は秀才のまま。
あの夜の翌日、両親には何もなかったかのように俺が話し掛けると、
母親も父親も今までと同じような態度を返して来た。
ある意味、両親に対して、流石だな、と舌を巻いてしまう。
けど、上辺はそうでも、両親が俺に対してあの夜を境に畏怖の気持ちを抱いている事には気付いている。
あの夜みたいに、また俺が豹変する事に、常に怯えていて。
いつも俺の顔色を伺っているのを、ひしひしと感じた。
そういえば、こんな出来事があった。
あの夜から、1ヶ月も経たないくらいの時。
昼休み、教室の自分の席で、本を読んでいる俺に、隣のクラスの松村が近付いて来た。
その気配を感じ、何か用かと松村に目を向けた。
「こないださ、お前の母親が男と歩いてるのを、S駅近くで見たんだけど。
俺もチラッとしか見てないんだけど、絶対にお前の母親だったし、一緒に居た男、お前の父親じゃなかった」
近所に住んでいる松村も、俺の両親の顔を知っている。
俺がこいつの両親の顔を知っているように。
「なんかさ、滝沢お前って、あんまり父親に似てないだろ?
その母親と一緒に居た男の方が、お前に―――」
松村のその言葉を最後迄聞く前に、
俺は立ち上がり松村の学ランの胸元辺りを掴み、
殴っていた。
幼い頃、数種類の武術を習っていた俺は、そうやって体が動いてしまった。
いつの間にか、松村に馬乗りになって、殴っていて、
同じクラスの男子数名が、俺を松村から引き離すようにして取り押さえていた。
松村は、それで鼻の骨や頬骨を骨折したらしく、全治2ヶ月だと病院で診断された。
その事は、それなりに問題となり、松村の親が騒いでいたが、
それは、俺の父親が金で解決してくれた。
学校の方も、クラスの何人かが、松村から俺に絡んでいたと、話してくれて、
叱られるくらいで済んだ。
俺は表向きは優等生だけど、篤と仲良くて不良グループに居たからか、
個別に担任の加賀(かが)という若い女教師に呼び出される事があった。
その話し合いは、生徒指導室で2人っきりで行われていて。
「滝沢君、このままだったらいつか取り返しのつかない事が起こるかもしれないわよ?
北浦君も悪い子ではないのかもしれないけど、
彼とは、適度な距離を保って接するべきよ。
現に、こないだも滝沢君、松村君に暴力振るった事があったばかりだし」
その言葉は、ある意味俺の事を心配してくれているのかもしれないけど。
ただ、この人は素行の悪い篤の事が嫌いなのだろう。
少し前に、数学の時間、加賀先生と喧嘩になったと前に篤が言っていた。
加賀先生は俺のクラスの担任だけど、
数学は二年の全クラスを担当していて、
だから、篤のクラスの数学も加賀先生が受け持っている。
俺は、着ていた学ランの上から順に三つ程ボタンを外すと、
逃げるように生徒指導室から出た。
そして、ちょうどそこを歩いていた男性教師に、助けて下さい、と駆け寄った。
「えっと、滝沢?
一体、どうした?」
「―――加賀先生が、急に俺の制服を脱がそうと…」
そう言って、床にしゃがみこみ、
顔を両手で覆った。
その手の中で、笑いを噛み殺していた。
俺を追い掛けるように、加賀先生が生活指導室から出て来たのが、足音で分かった。
「加賀先生、あなた一体何してるんですか?!」
男性教師のその非難の声で、少し笑い声が漏れてしまったけど、気付かれなかった。
その一件で、加賀先生は自分から学校を辞職した。
「なぁ、斗希、本当にお前加賀に襲われたのか?」
そう訊く篤に。
「そうだよ。20代半ばで、仕事ばかりで彼氏も居なさそうだったし、色々たまってたんじゃない?」
その俺の言葉に、篤は信じてないのか、眉間を寄せていたけど。
それ以上は、何も訊いて来なかった。
他にも、俺達のグループを目の敵にしてる中年男性の教師が居たのだけど。
ムカつくから、学校の駐車場に停めていたそいつの車を、バッドでめちゃくちゃにしてやった。
そうしたら、凄く大問題になったのだけど、
それもいつかの松村への暴行の時と同じように、父親がお金で解決してくれた。
世間体を気にする父親がなんとかしてくれるだろう、と見越しての行動だったから。
そうやって、父親を困らせる事も、楽しんでいた。
そんな風に、俺が関わって表沙汰になった出来事はその三つだけで、
公にならなかった事も沢山あった。
後、変わったのは、女性と付き合うようになった。
あの夜迄は、好きでもない女と付き合うなんて考えられなかったけど。
寄って来た女の中で、ある程度顔が良ければいいか、と、とりあえずで付き合うようになった。
そして、初めて出来たその彼女は、処女で。
円さんは、処女ではなかったな、とその子と比べて思った。
処女、ってこんな感じなんだ、と、
その彼女の部屋のベッドで、俺の下で痛がるその子の顔を見ていて思う。
そして、その痛がる様に、なんとも言えない快楽を覚えた。
それをきっかけに、一種の遊びなのか。
処女だと思うような女と付き合っては、それを奪ってすぐに別れて、みたいな事を繰り返してた時期があった。
三年になると、その不良グループは、篤が中心になっていた。
そんな篤の横にいつも居た俺は、
その不良グループの二番手みたいになっていて。
その傍ら、成績は常に学年トップをキープし、なんとなく生徒会に入り、生徒会長なんかやりながら、
その自分の悪と善のような二面性を楽しんでいた。
生徒会長をやっている時、同級生の副会長の女と仲良くなった。
その子とは小学校も違い、中学の三年間同じクラスになった事がなかったから、それ迄は名前くらいしか知らなかった。
誰かが前にその子の事を可愛いと言っていたからか、ぼんやりと名前は知っていたのだと思う。
その子は、眼鏡を掛けていて、髪型も後ろで一つに束ねているだけで、
どちらかというと、一見地味なのだけど。
よく見ると、けっこう綺麗な顔をしていて。
ほんの少し、円さんに似ていると気付いた。
円さんに似ていたからなのか分からないけど、その子にすぐに惹かれていた。
初めて、自分から付き合って欲しい、と言っていた。
その子の返事は、数日考えた後、オッケーだった。
そうして、俺はその子と付き合い出すと、
何度か、篤達とよくたまっていた後輩の家へと、その子を連れて行く事があった。
知らなかったわけじゃないけど、
その子は、篤と三年になってから同じクラスだった。
二人は同じクラスでも今まで特に話した事がないみたいだけど、
何度かそうやっているうちに、篤がその子に惚れている事に、気付いてしまった。
だから、俺はすぐにその子と別れた。
篤の好きな女とは、付き合えないと。
1ヶ月にも満たない、その交際。
初めて、好きかな?と思った彼女だったし、
全く手も出さず、キスさえもしないで手離したのも初めてだった。
そうやって、篤の為に、と思って尽くしてしまうのは、
円さんの事への罪悪感なのか、
テトラポッドの上から突き飛ばそうとした罪悪感なのか、
それとも、逆にテトラポッドから落ちそうな俺を助けてくれた感謝なのか、何から来る気持ちなのか分からないけど。
ただ、俺は、気付いていた。
その子も篤の事が好きだった事を。
その子が俺と付き合い出したのは、
きっと、篤に近付きたかったから。
俺と同じ優等生の彼女が、不良の篤と接点なんてなくて。
俺が、その接点なのだと。
篤がその子を好きだから、俺は身を引いたと思いながらも、
心の底では違った。
俺が接点になって、この二人が仲良くなったら嫌だと思っていた。
「あの子、あんな感じだから、不良みたいなの毛嫌いしてて。
だから、俺が篤と仲良くしてるのもよく思ってなさそうだから。
それで、別れた」
篤には、その子と別れた理由を、そう話した。
その子には、
「篤に言われて。
なんであいつみたいな地味な女と付き合ってるんだって。
ほら?篤、派手な女が好きだから。
実際篤が付き合ってる女そんなんばっかだし。
だから、篤に言われたからってわけじゃないけど、そうやって仲間の所に連れてったりするなら、もっと派手な女の方がいいのかな?って」
そう言って、その子とは別れた。
俺のその言葉のせいなのかは分からないけど、
その後も篤とその子が付き合う事はなかった。
俺はとても篤が好きだし、その幸せを誰よりも願っているのだけど。
その真逆の気持ちが、時々心の中で大きくなる時がある。
それは、時々……。
◇
斗希の昔の話は、けっこう衝撃的で。
ほんの少し、この人に畏怖の感情を抱いてしまった。
「だから、円さんとは結衣が思っているような関係じゃないから。
それなのに、俺との不貞行為で結衣に訴えられたりしたら、流石に円さんが可哀想過ぎて目も当てられない」
斗希の言うように、円さんが脅されて今も斗希と関係を持っているのならば、
私がもし、円さんに慰謝料の請求等して、それがきっかけで、円さんの家庭が壊れたりしたら…。
そこまでするつもりはなかったけど、
想像してみて、円さんに対して、申し訳ないような気持ちを抱いた。
「円さんとの関係は18年間だけど、会ってない時期とかも年単位であった。
流石に、妊娠している時の円さんを抱こうと思わなかったし、俺自身も忙しくてそれどころじゃない時期もあって。
けど、ここ数年は、けっこう頻繁に円さんと会ってた。
頻繁って言っても、月一回くらいだけど」
「円さんのパート先が定休日とは別に休みになる、第三木曜日だよね?」
そう言う私に、よく知ってるね、と言うように、斗希は小さく笑みを溢した。
「ここ数年、そうやって円さんとよく会うようになったのは…。
きっと、篤が幸せそうで、モヤモヤとしてたのかも。
その感情をぶつけるように、円さんを」
斗希の昔の話を聞いた後だから、
その言葉に違和感を持たなかった。
斗希の川邊専務への友情は、まさに表裏一体。
愛と憎。
「篤の事は、昔からいつも心配だった。
ぐれてたのもそうだけど、高校も行かず、中学卒業後就職した工場もすぐ辞めてふらふらとしてて。
その後、AV関係のモデル事務所とか怪しげな会社で働きだして。
その仕事をやっと辞めたと思ったら、
パチンコ屋でアルバイトとかで。
こいつの将来大丈夫なのか?って」
川邊専務にそんな時代があったのは、
社内の噂話で聞いた事があったけども。
川邊専務の身近にいる斗希が語ると、
同じ話でも妙にリアリティがある。
「なのに、急に篤の実の父親が現れて、それが大会社の会長で。
篤の事を引き取りたいとか言ってて。
それに、篤にとって疫病神みたいな母親も、癌とかであいつが22歳の時に死んで。
ほんと、何かの物語の主人公のように篤の人生が急に輝かしい物になって。
大学だって、大検とってけっこういい所に合格して。
なんでこいつこんなツイてんだろって。
篤が今の会社入って、暫くしたら、昔から篤の事が好きだったとかいう、美人迄現れて。
その美人とデキ婚して、子供も三人…もうすぐ四人目って。
それを見てて、最初は本当に良かったって思ってたんだけど。
いや、今も思ってんだけど…けど、心の何処かで…」
斗希は、その先は口に出さなかったけど、
その感情は伝わって来た。
「だから、結衣が現れて、篤をああやって罠にハメて。
篤の困った顔見てて、心の何処かで楽しいと思っている自分も居て。
俺と結衣が急に結婚する事になって、その事で混乱している篤を見ていて、それも楽しくて」
“ーー斗希の奴、スゲェ楽しそうだったぞ。
お前と結婚するのーー”
その言葉の本当の意味が、やっと分かったような気がした。
その言葉を言った川邊専務本人は、斗希のその気持ちに迄は気付いてないのかもしれないけど。
「後、ついでだから話すけど。
過去のトラウマで、俺、いわゆるAVとか…。
他人がヤッてるの見るのが苦手になって。
それもあって、自分でするのも段々としなくなって。
だから、俺、結衣がさせてくれそうにないから浮気してた」
その、斗希のトラウマは…。
先程聞いた、両親がこの人の目の前で…って事だろうか?
“ーーだって、結衣がさせてくれそうにないから、他でしてるだけだしーー”
前に言われたその言葉も、本当だったのか、と思った。
「なんで、昔の事を話してくれたの?
きっと、斗希にとって話したくない事だってあったでしょ?」
「それは、結衣もじゃない?
俺から結衣にお母さんとの事を訊いたからだろうけど。
でも、話さなくてもいい事も全部話してくれたから」
私も斗希も、それを誰かに喜んで話したくなるような過去の話じゃない。
なのに、私も斗希も何故話したのだろうか?
私は、何故か斗希に知ってもらいたい、という気持ちがあったから。
「斗希はあれだよね。
ずっといい子でいたから、その反動なんだろうね?
その反動で色々としてしまったんだろうね」
「いや。反動ってより、衝動かもしれない。
自分の中でずっとあったその衝動が、あの日…。
父親の部屋でDNAの鑑定書を見付けて、自分の中の何かが壊れて、自制が効かなくなった感じ。
円さんの事も、両親の事も。
それからも、色々。
我慢する事を辞めって感じだった」
衝動かぁ。
それ迄、斗希はずっと自分を押さえ込んで色々我慢していたんだ。
「結衣は、反動って感じだよね?
ずっと母親に押さえ込まれていて。
自分に価値がないのだと色々諦めていたけど。
その友達や眞山社長と深く関わって、愛される事を覚えて自分の価値に気付いて。
だから、そんな価値のある自分が裏切られたのが許せないと、過去の反動もあってよけいに眞山社長に深い憎しみを抱いてしまって…。
なんでか、その憎しみが俺に向いてるけど。
あの代理の話し合いの時の、俺の感じが、結衣の気に触ったんだっけ?」
何処か楽しそうに尋ねて来る斗希の顔を見ていると、
今は私の中にその憎しみがない事に気付いた。
「―――斗希が、私の大嫌いな兄に重なって見えてたのだと思う。
子供の時から、兄によく言われたの。
お母さんはお前の事なんか好きじゃないって。
何度も何度も…。
そう言って私を見下す時の顔。
あの時の斗希も、同じ顔で私を見ていた」
眞山社長に遊ばれていたのだと告げた、あの時の斗希の顔。
兄と同じだった。
「そう…」
斗希は私の答えに納得いったからか、私から視線を外して海に向けている。
「結衣、俺が全部話したのは、結衣に選ばせてあげようと思って。
結衣はまだまだ若いし、俺と離婚して、本当に好きな男と付き合って結婚する人生も選べる。
それとも、これからも俺とこの無意味な結婚生活を続けて行くのか。
それも、俺がどんな人間か分かった上で。
どうする?」
それは、私の為に離婚をする事を勧めているのだろうか?
先程の斗希の話を聞いて、この結婚が、斗希に対して何の復讐にもならない事を知った。
斗希の育った家庭の事を聞くと、
その家族は、表面上家族を装っているだけのもので、
その一員の斗希にしたら、私との愛のない結婚も、その延長で慣れたようにこなすだろうし。
川邊専務を心の何処かで憎んでいる斗希は、
川邊専務の弱味である私を手元に置き、川邊専務の困る反応をずっと見続けたいだろう。
それに、私との結婚を条件にあの事の口止めで、川邊専務に負い目を感じさせる事が出来ていて。
復讐どころか、斗希にとってはメリットのある私との結婚。
それでも、今、私の事を考えて、離婚してもいいと言ってくれている。
私は、斗希の居るテトラポッドの方へと、飛んだ。
それが急だったからか、斗希は少し驚いていた。
「落ちても知らないよ?」
そう言うけど、着地の時に私のバランスが少し崩れた時、私の腕を掴んでくれた。
それは、今も掴まれていて。
私は、ゆっくりと斗希に抱き付くように、
空いていた左手を斗希の背に回し、肩辺りに自分の額をつける。
「なに、一体?」
戸惑いながらも、私の背に両手を回して抱き締めてくれた。
「もし、ここから落ちる時は、斗希の事を道連れにするから。
だから、あなたが落ちる時も、一緒に落ちてあげる」
「分かった。
じゃあ、落ちないように気を付けないと」
その声に、私は小さく頷いた。
ほんの少しだけど、この人と本当の夫婦になれたような気がした。
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