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煤煙に塗れた帝都の騒乱から、数時間が経過していた。
界人さんの特務官舎へと戻った私を待っていたのは
しんと静まり返った屋敷の沈黙と、その静寂を刃物のように鋭く研ぎ澄ます「孤独」だった。
目を閉じれば、今も鮮明に蘇る。
自分の手から、意思に反して放たれたあの悍ましくも眩い緋色の炎。
そして、命を救ったはずの人々の口から投げつけられた「化け物」という呪詛のような罵声。
その言葉の一つ一つが、耳の奥で
心臓の裏側で、何度も、何度も、毒のようにリフレインし続けていた。
「……動くな。傷に触れるぞ」
薄暗い寝室。
ガス灯を絞り、影が色濃く落ちた部屋の中で、界人さんの低く掠れた声が響いた。
彼はいつの間にか軍服の袖を捲り
白磁のように透き通った腕を剥き出しにして、私の傍らに腰を下ろしていた。
その傍らには、どこから持ち出したのか
消毒薬の鼻を突く匂いが染みた脱脂綿と、真新しい清潔な包帯。
爆発の瓦礫で切った頬の小さな傷と、無理な霊力の行使に耐えきれず
どす黒く内出血して腫れ上がった私の細い手首。
彼はそれらを、まるでこの世で最も壊れやすい硝子細工でも扱うかのような
驚くほど慎重で丁寧な手つきで拭っていく。
「痛っ……」
「我慢しろ。…自業自得だ」
突き放すような冷たい言葉。
けれど、私の頬に触れる彼の指先は
吐き出された言葉とは裏腹に、隠しようもなく微かに震えていた。
ふと見上げれば、影に半ば溶けかかった彼の横顔があった。
紫苑の瞳は固く伏せられ、長い睫毛が悲しげな陰影を頬に落としている。
冷徹な陰陽警察の顔の下に、名状しがたい苦悶が滲んでいた。
「……ごめんなさい、界人さん。でも、あのままじゃ…あの子が、焼かれて死んじゃうと思ったの」
「分かっている。……分かっているから、厄介なんだ」
界人さんは吐き捨てるように、自らを叱咤するように呟いた。
手際よく私の手首に包帯を巻き終えた彼は
最後に一度だけ、その上から自らの大きな掌で、祈るように私の手を包み込んだ。
あやかしの力を封じる呪符に囲まれた、この氷のように冷たい部屋。
けれど、重なり合った彼の体温だけが
焼けるように火照る私の内側の熱を、不思議なほど静かに鎮めてくれる。
───まただ。
この温もりを、私は知っている。
百年前の、もっとずっと暗くて深い闇の底で
私はこの手に、この力強い指先に、魂ごと縋っていたような気がする。
喉まで出かかった問いかけを唇に乗せようとして
彼を見つめ返した。
その瞬間
界人さんは何かに怯えるように弾かれたように手を離し、背を向けた。
「……今日はもう休め。明日からは、外での『監視』を強化する」
闇に消えていく彼の背中。
それが、不器用で、かつ義務に忠実であろうとする彼なりの
精一杯の愛憎混じりの優しさだったのかもしれない。
◆◇◆◇
────それから数日が経過した。
帝都を騒がせた爆発事件の余韻もようやく落ち着きを見せ始め
街に活気が戻りつつある頃、界人さんは唐突に、私に「外出」を命じた。
「監視の一環だ。お前の不気味な霊力が、公衆の面前で再び暴走しないか、実地で確認する必要がある」
そう言って連れてこられたのは、モダンな文化の最先端を行く街・銀座。
その一等地に建つ、一際洒落た外観の喫茶店だった。
扉を開ければ、蓄音機から流れる小気味よいジャズの旋律が耳を擽り
炒りたての珈琲の芳醇な香りが鼻を抜ける。
店内は、華やかな矢絣の着物に袴を合わせた女学生や
仕立てのいい背広を粋に着こなした紳士たちで賑わっていた。
向かい合わせの席に座る界人さんは、今日ばかりは軍服を脱いでいたが
代わりに選んだ三つ揃いのスーツを完璧に着こなし
やはり周囲を威圧するような静かな美貌を放っていた。
「……お待たせいたしました。こちら、当店の特製苺菓子でございます」
白い手袋をした給仕が、恭しく目の前に置いた一皿。
それは、純白の生クリームが波のように飾られた
雪のように美しい三角形の菓子だった。
その頂点には、真っ赤なルビーを思わせる宝石のような苺が、艶やかに鎮座している。
「これ……本物? 絵の中のものじゃなくて?」
「当たり前だろ、食べたことがないのか?」
「は、はい、ずっと本の中だけで見てたので」
私は目を輝かせ、震える手でそっと銀のフォークを差し込んだ。
一口、慎重に口に運んだ瞬間。
舌の上で淡雪のようにふわりと溶けるクリームの甘み、弾ける苺の爽やかな酸味
そして卵の濃厚な風味が香るスポンジの層。
それらすべてが完璧な調和を奏で、私の味覚をかつてない幸福感で埋め尽くした。
「……っ! 美味しい……! すごい、界人さん、これ、すっごく甘くて、幸せな味がします……!」
気づけば、先ほどまでの緊張も
自分が「化け物」だと言われた惨めさも忘れ、私は花が咲くような声を弾ませていた。
この一瞬だけは、背負わされた重い宿命も
血の繋がらない赤髪も、すべてが甘い香りと共に霧散していく。
夢中でケーキを頬張り、小さな子供のように頬に生クリームを一筋つけたまま笑う私を
界人さんは、手に持ったスプーンを止めたまま、無言で、食い入るように見つめていた。
「……界人さん? 食べないんですか?」
不思議に思って問いかけると、彼はハッとしたように視線を泳がせ
手にしていた珈琲カップを陶器の音を立てて置いた。
いつも氷のように固く閉ざされ、命令以外の言葉を拒んできた彼の薄い唇が
わずかに、本当にわずかに、柔らかく綻んでいる。
「……そんなに目を輝かせるほど、珍しいものか。ただの砂糖と卵の塊だろう」
呆れたような、けれどそこには確かに、雪解けのような温かい響きが含まれていた。
彼が不意に手を伸ばし、私の頬に触れた。
熱を持った長い指先が、私の頬についたクリームを、そっと掬い取る。
その瞬間
彼の紫苑の瞳に宿ったのは、警察官としての義務でも、あやかしへの監視でもない。
一人の男としての、激しい心身の「揺らぎ」だった。
「界人さん……?」
「……お前は、本当に……」
彼は何かを言いかけて、結局、残りの言葉を珈琲と共に飲み込んだ。
ただ、その瞳だけが、言葉にならない熱を帯びて私を射抜いていた。
窓の外、銀座の通りを照らす柔らかな陽光が
私たちのテーブルを祝福するように明るく包み込む。
けれど、その陽の光の下でさえ、私の赤い髪はどこか不気味なほど、鮮烈に輝いていた。