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目を覚ますと、覚えのない色彩豊かな天井がミアの顔を覗いていた。
何よりもまず薄暗くカビ臭い土の匂いがせず、鼻孔をくすぐる甘ったるい香りがした。
やはり自分は死んだのだと確信し、ミアは薄らぼんやり開けた眩しすぎる視界を細めながら、辺りの様子を窺った。
優雅で色彩豊か、かつふわふわと温かな布に包まれ横になっていた自分の姿に驚いたミアは、死というものがこんなにも幸福感に溢れたものだったかと、早く命を絶たなかった自分を恥じた。
しかしミアを否定するように、パタリと袖の扉が開いた。
何処かで見覚えのある透明感のある美しい女性が近付き、ミアは図らずも目を奪われた。
同時に、そんなはずはないと右の頬をつねった。
「お気づきになられましたか。良かった」
優しい言葉をかけたのはメルローズだった。
横になったまま申し訳なさそうに顔を隠したミアは、「これはどのような?!」と慌てた。
「農具小屋で貴女が倒れているのを見つけましたので、上皇様に許可をいただき、わたくしの部屋へと運ばせていただきました。随分と衰弱しておられましたので、わたくしの権限で治療をさせていただきました」
「治療」と呟いたミアは、自分の身体を改めて見回した。
あれだけ衰弱していた身体は何もなかったように回復し、土壁を削りすぎて汚れた指の傷も、幻かのように消えていた。
「それじゃあ、私はまだ生きて……」
「フフ、ご冗談を。まだそうして息をしていらっしゃるではありませんか」
微笑んだメルローズは、温かいものでも飲みなさいと、高貴なカップにハスマックの葉を煎じた茶を入れ、ミアに手渡した。
「温まりますよ。口の中で回しながら、ゆっくり飲み込んでください」
顔を赤くし断る勇気なくカップを受け取ったミアは、言われるまま水分を口に含んだ。
得も言われぬ甘渋い旨味が身体全体を包み、思わず「ふわぁ」と声を出したミアは、あまりの多幸感から涙を流した。
「辛かったのですね。それもそのはず、もう少し遅れていれば、死んでいたかもしれないのですから」
死んでいたという言葉に反応し、ミアは涙を拭い、首を大きく振った。
メルローズがいるということは、どうやらまだ自分は生きている。
それどころか、荒屋を勝手に抜け出した上、メルローズの手を煩わせたことに変わりはない。
そうなれば、また豪族の怒りを買うのは必然だった。死んで結構という仕打ちを受けているミアに待つ未来が、さらに悲惨なものになることは間違いなかった。
両肩を抱きかかえブルブルと震えたミアは、寝具の上で突っ伏し、顔を伏せた。
まだ痛むのですかと背中に触れたメルローズの腕にすがりついたミアは、もはや涙すら流れない充血した目で訴えながら懇願した。
「メルローズ様、どうか、どうか、私めを殺してください。私はまた間違いを犯しました。きっと、私は拷問を受けて殺されます。でも……、恐い、恐いんです。痛いのは……、恐い……」
「殺される? どうしてそのようなご冗談を」
「お願いです。メルローズ様の手で私を焼き払ってください。殴られて殺されるのはイヤ、恐い、嫌だ、イヤだよぅ……」
非日常すぎるミアの反応に言葉がないメルローズは、理解できず困惑した。
旅の最中も俗世との関わりがないわけではなかった。しかしメルローズ自身、上皇の侍女という立場があり、直接的に外界と触れ合う機会は少なかった。
自分たち上級貴族は、下々の憧れであり、奉られるのはごく自然なこと。かつ尊敬を得ている理由は、上の立場のたる者が上級貴族たる振る舞いをしているからだと考えていた。
だからこそ、自分たちに関わる下々の者たちも、簡単に人を殺めるなどといった愚行をするはずはないと確信していた。
しかし目の前には、想像もできない世界に絶望し、死に怯える者がいる。
身体を震わせ、酷い目にあうくらいなら殺してほしいと懇願する者のいる現実は、メルローズの中にある淡い常識を、根底から覆してしまいそうだった。
「だ、大丈夫ですよ。貴女を貶める者はどこにもおりません」
そう口にしたものの、メルローズ自身、少なからず動転していた。
悪行を行った者が結果的に極刑となるケースはあれど、自分たちの世話をする下々の者たちが、容易く殺されていたなどという現実は、知らずにのうのうと過ごしてきたメルローズにとって、あまりにも大きな出来事だった。
「でしたら、わたくしから貴女の主人にお話をして差し上げます。今回のことも、これからのことも、併せて不問とするようにと。それで大丈夫ではありませんか?」
しかしミアは何度も首を横に振った。
「お願いです。もう苦しいのはイヤです。メルローズ様なら、苦しまず私を殺すことができるんでしょ。私、知ってるよ。貴族の人たちは、みんな”魔法”を使うことができるって。お願いします、私の首を、魔法で跳ね飛ばしてください」
「なんという愚かなことを。命を粗末にするなど、わたくしは絶対に許しません!」
メルローズはパンパンと手を叩き、部屋の外に待機していたメイドを呼びつけ、何か耳打ちした。
頷くメイドが出ていくのを呼吸荒く見ていたミアは、ただ怯えるばかりで、今にも発作を起こし死んでしまいそうなほど青白い顔をしていた。
「大丈夫です。わたくしめが話をつけて差し上げます。ちゃんとお話をすれば、必ず人と人は通じ合えるものなのですから」
耳打ちが豪族を呼ぶものだと知ったミアは、恐怖のあまり胸を掻き毟り寝具の上で暴れた。
大丈夫ですからとなだめても、ミアの恐怖が拭われることはなかった。
男がやってくるまでの間も、怯えてのたうち回ったミアは、寝具に顔を埋め震えるばかりだった。
数分が過ぎ、再び部屋の扉が開いた。
室内に似つかわしくない生臭い匂いが漂った。酷く慌てて部屋に入るなり額を地面に擦り付けた男は、何度も頭を上下しながら謝罪を繰り返した。
「またその女が御迷惑を。こうなれば私が腹を裂いて責任を」
「そ、そうではありません。今回貴男をお呼び立てしたのは他でもありません。この者に対する咎を、全て免除していただけないかというお願いなのです」
「は、え? そのものとは、こ、この女のことでございますか」
「そうです。どうやら今回のことで、その者も大いに反省しているご様子。よって、わたくしどもも、もうこれ以上の咎を求めておりません。ですからこれまでどおり、貴方様のところでこの者を従事させていただけないかと」
「は、はぁ……、それはもう構わないのですが」
「喜ばしいことです。これは心ばかりのお礼でございます。どうかお受け取りを」
メルローズは跪く男の手のひらに小さな包を握らせた。
そして怯えるミアを呼び寄せ、男の元へと歩ませた。
「それでは今後も上皇様のために尽くしなさい。ほら皆様も、お二人を外までお見送りなさい」
待機していたメイドに二人を託したメルローズは、ほら大丈夫でしょうと笑みを浮かべミアに頷いた。しかしミアは恐怖と不安で押し潰されそうなビー玉のような瞳を向けたまま、出ていくその瞬間まで、ずっとメルローズを見つめていた。
「大丈夫です。きっとわかっていただけたはずです。何も問題はありません」
しかしメルローズの希望はさらなる不幸に姿を変え、再び彼女の元へと舞い戻るのだった。
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