しばらくして、砂鉄の嗚咽が落ち着くと、藤澤が温かいマグカップを二つ持ってきた。一つを砂鉄に、もう一つをチョモに渡す。
「はい、温かいの飲んで」
温かい湯気が、砂鉄の顔を包む。カップの中には、甘いココアのようなものが用意されていた。砂鉄は、少しずつそれを口に含む。冷えた体に、温かさがじんわりと染み渡るようだった。
チョモも、藤澤に促されるまま、ゆっくりと口を開き、マグカップの中身を少しずつ飲んでいく。その横顔は、まだ苦しそうだが、先ほどよりは落ち着いているように見えた。
「…あのさ、今日は、ここに泊まっていったらどう?」
落ち着いた空気感の中、大森が口を開いた。その表情は、真剣だった。
砂鉄の心には波紋が広がる。初対面の人間に介抱した上に泊まらせるなんて。そこまでする人間が本当にいるのか。再び疑念の念を抱く。
しかし、ネカフェに戻るより、ここで休ませてもらえる方が、チョモにとってどれほど良いことか。清潔な環境、温かい寝床、そして何より、自分一人では得られない安心感がある。
砂鉄は、ほんの少し考えて、頷こうとした。彼らの好意に、これ以上甘えるのは心苦しい。その上、まだ彼らを信じきってはいない。だが、チョモの体調を思えば、それが最善の選択だと感じた。
その時、視界の端で、チョモが身じろいだ。チラッと見ると、彼の視線は、砂鉄と大森の間を何度か往復している。そして、その瞳の奥に、躊躇いの色が浮かんだ。チョモは、何も言わない。だが、その表情と仕草だけで、砂鉄には、彼がここに泊まることをためらっているのが伝わってきた。
(……なんでだよ、チョモ)
砂鉄の心に、小さな焦りが生まれた。せっかく彼らがこんなにも親切にしてくれているのに。せっかく、この温かい場所で休めるかもしれないのに。チョモの躊躇いは、砂鉄の理解を超えていた。
砂鉄は、チョモの行動にモヤモヤとしたものを感じながらも、大森の言葉に甘えようと考えていた。怪しいことには怪しいが、ここまでしてもらったことを踏まえると、単に凄く優しい人なのかもしれない。それに、自分のために、チョモのために、これだけの善意を向けてくれる人間に出会えることなど、今後あるかどうかも分からない。このチャンスを逃すわけにはいかない。
砂鉄は、大森の方を向き直り、深く頭を下げた。
「……お願いします」
砂鉄の声は、かすかに震えていたが、その決意は固かった。もしこの人たちに何かされたら、チョモだけでも先に逃がそう。とにかく今の段階では大丈夫なはず。
砂鉄の言葉に、大森は小さく頷き、藤澤は安心したように微笑んだ。若井も、彼らを見守るように静かに立っている。
しかし、その瞬間だった。
チョモが、蚊の鳴くような、しかし必死な声で、こう言ったのだ。
「……まって……」
チョモの瞳は、熱で潤んでいるが、その奥には、怯えの色が浮かんでいる。
砂鉄の心臓が、ドクンと大きく鳴った。安堵しかけていた砂鉄の胸に、再び戸惑いと不安が押し寄せる。藤澤と大森、若井も、突然の言葉に、動きを止めた。
四人の視線がチョモに集まり、重い沈黙が降り注ぐ。
沈黙の中、チョモは震える口元を無理に引き上げた。
「俺、もう動けるし、大丈夫」
その笑顔は、ひどく不自然で、すぐにでも崩れてしまいそうだった。体調が悪そうなのは一目瞭然だ。額に貼られた冷えピタは、もうほとんど溶けているだろう。荒い息遣いは、まだ全く落ち着いていない。
砂鉄は、チョモのそんな顔を見て、呆れと苛立ちを覚えた。こんな状況で、何を言っているんだ。
「…そんな顔して、動けるわけないでしょ」
砂鉄は、チョモと目を合わせないまま、吐き捨てるように言った。その声には、隠しきれない疲労と、心配が混じった怒りが滲んでいた。
すると、チョモは、砂鉄の言葉に反発するように、もう一度言った。
「大丈夫だって!ほら、動ける!」
チョモは、そう言いながら、自分にかけられていた毛布を、まるで鬱陶しいかのようにバサリと払い退けた。そして、ソファの端に手を付き、ふらつきながらも、ゆっくりと立ち上がろうとする。
砂鉄は、その光景を見た途端、我慢の限界が来た。路地裏で病院に行きたくないと泣かれた怒りよりも、今、目の前で無理をするチョモに対する怒りの方が、はるかに勝っていた。心配と怒りが、砂鉄の頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「だから無理だって!泊めてもらった方がいい!」
砂鉄は、声を荒げた。
しかし、チョモは、頑として首を縦に振らない。
「ほんとに大丈夫だから!帰れるって!」
チョモは、熱で掠れた声で、そう言い張る。
ついに砂鉄の怒りが、頂点に達した。
「何が大丈夫だよ!!今もふらついてるくせに!!」
一度我慢していた言葉を吐いてしまってからは、そこからは簡単だった。
「なんでお前はさ! すぐそうやって大丈夫大丈夫って言うんだよ!!全然大丈夫じゃないだろ!」
抑えきれなかった感情を、全てチョモにぶつける。
チョモは、砂鉄の言葉に、ハッと顔を上げる。その目には、深く傷ついた色が浮かび上がった。自分の責任も感じていたのだろう。何も言い返すことができず、ただ口を真一文字に結んで、黙り込んでしまった。
リビングに、再び重い沈黙が降り注いだ。
チョモは、黙り込んだままだった。その瞳は、見るみるうちに潤み、今にも決壊しそうなほどに涙を溜めている。
だが、砂鉄は、そんなチョモの様子に気づかない。チョモと目を合わせないまま、怒鳴り続けていたからだ。
「そもそもさぁ!僕が仕事から帰る前に言ってくれれば、薬だって早く買えたのに!もっと前に言ってれば、あんな道に倒れるなんてこともなかったのに!!」
砂鉄の声は、荒れ狂う嵐のようだった。目の前のチョモはもう視界にない。彼自身の心の中に溜め込んだ、どうしようもない苛立ちや後悔を、全て吐き出しているかのようだった。しかし彼の言葉は、チョモの心を抉るように響く。
チョモの目から、とうとう涙が溢れ落ちた。拭うことはせず、ポロポロと、大粒の雫が頬を伝い、スウェットに染みができていく。
その様子を見ていた大森が、たまらず二人の間に入ろうと、一歩足を踏み出した。
「ちょっと、落ち着いて」
大森の声は、静かだが、その中には二人の言い争いを止めたいという強い意思が込められていた。しかし、砂鉄の怒りは、一度火がつくと止まらない。
「 こいつが早く言わなかったせいで!!今だって大丈夫とかすぐそうやって!!」
砂鉄は、大森の言葉を遮るように、さらに声を荒げた。大森は、砂鉄の怒りの矛先が自分に向いたことに、少しだけ戸惑いの色を見せた。その合間をつくように砂鉄は続ける。
「お前が、全部隠すからこうなるんだ!俺に言えばいいだろ!何でもっと頼らねぇんだよ!!」
その言葉は、もう暴言に近かった。彼自身の心も、限界だったのだろう。
「……そんなこと……言われたって……! 俺だって……!」
その時、ずっと黙っていたチョモが、かすれる声で、ついに言い返した。声が震えていて言葉を続けられない。だが、その瞳は、確かに砂鉄を睨みつけていた。
「お前の言うことなんて聞かなければ良かった!!なんであんなネカフェにいたいんだよ!!あの時に病院にすぐ行ってれば…!!」
砂鉄は、言い返すチョモに、さらに言葉を浴びせた。彼の感情は、もう制御不能な状態だった。まるでチョモの弱さを責めるかのように、言い募る。
「あん時も泣いたし、何回泣くんだよ!」
怒鳴り声が、リビングに響き渡る。
言ってしまってから、初めてチョモの顔を見た。砂鉄の決定的な発言に目を見開き、呆然と涙を流しているチョモに気づく。
「ぁ…ご」
「泣いてないし! う”るさ”い!!」
言いかけた言葉に被せるように、チョモが言い返す。呆然とした表情は消えていた。そこには、砂鉄への怒りや自分の不甲斐なさ、そして何よりも、この状況への絶望が混じり合っていた。
「うぇっ……ごほっ! ごほっ! げほっ……!」
泣きながら必死に叫んだせいで、チョモの喉から、激しい咳が噴き出す。その咳は、熱で弱り切った体をさらに揺らし、見るからに苦しそうだ。一度咳き込むと止まらず、チョモの呼吸は、ますます荒くなっていく。立っていられなくなったのか、しゃがみこんで胸あたりの服を掴んで苦しさに耐えている。
その様子を見ていた藤澤は、黙っていられなかった。チョモの傍にかけより、背中をさすって、少しでも楽にしてやろうと試みる。
「大丈夫だよ、ゆっくり……」
藤澤が、優しい声でチョモに語りかけた。泣かせてしまった後悔、そして場の気まずさに耐えきれず、
「…ほら見ろ、だから無理だって言ってんだろ」
完全に八つ当たりだった。
気まずくて砂鉄は下を向いていると、大森が後ろから砂鉄の肩を掴む。
「ちょっと、一回外に出よう」
砂鉄は焦って大森の顔を見上げる。しかし、怒鳴りつけられるようなものではなく、あくまで落ち着いていた。
大森は、そう言って砂鉄の腕を掴み、玄関の方へ引っ張る。
砂鉄は、大森の表情に関する違和感があったが、怒られる、追い出される、という気持ちでいっぱいだった。
「ごめんなさ、だってこいつが、」
砂鉄は、後ろ髪を引かれる思いで、チョモの方を振り返りながら抵抗する。だが、大森の腕は力強く、砂鉄の体は、抵抗むなしく玄関へと引きずられていった。
二人の言い争いは、扉が閉まることで、ようやく遮断された。
リビングに残されたチョモは、もう完全にしゃくりあげながら泣いていた。ヒューヒューと喉が鳴り、呼吸が荒い。
藤澤がチョモをソファーに座らせ、隣に座り、背中を撫でる手を早める。若井も、心配そうにチョモに駆け寄り、顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ、大丈夫」
藤澤が背中をさすっても、チョモはさらに激しく泣き続ける。
「ちょっと一回落ち着こっか」
若井も、チョモの前に座り、声をかけた。チョモは、泣きながらも、砂鉄が出ていったドアの方を、恨めしそうに見つめていた。
「……うっ……ゲホッ……!あいつだって…!」
チョモは、嗚咽の合間に、震える声で砂鉄への怒りをぶちまけた。砂鉄に言われた暴言が、まだ耳にこびりついているのだろう。その顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだが、目には怒りが宿っていた。
藤澤は、チョモの背中をトントンと叩いた。チョモの言うことを否定せず、彼の感情をそのまま受け止める。
「君は悪くないよ。頑張ってる。大丈夫大丈夫。」
「…げほっ…俺だって、本当は嫌だった……!あんな場所……っ!ごほっ、ごほっ!」
チョモは、泣きながら叫んでいるうちに、再び激しく咳き込み始めた。熱にうなされている体には、怒鳴り続けるのは酷だ。
「もういいから、もう、お話しなくていいからね。大丈夫、大丈夫だよ」
藤澤は、チョモの耳元で、何度も繰り返すように語りかけた。その優しい声が、チョモの荒い呼吸を少しずつ落ち着かせていく。若井は、テーブルにあったグラスの水を差し出し、口元に運んでやった。チョモは、ゆっくりと水を飲み込んだ。
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