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雨の音が、わずかに半音ずれて聞こえた。
鳴宮士樹は、誰もいないコンサートホールの中央で、静かに目を閉じていた。
客席は闇に沈み、ステージだけが淡く照らされている。
今夜は世界的オーケストラとの本番を翌日に控えた、最後のリハーサルだった。
だが、士樹は演奏を止めていた。
「……第三ヴァイオリン。今、Gの響き、二ヘルツ低い」
突然の指摘に、演奏者たちが顔を見合わせる。
「えっ……?」
「いや、そんな微妙なズレ……」
困惑する団員たち。
しかしチューナーを確認した瞬間、空気が変わった。
「……ほんとだ」
「ぴったり二ヘルツ下がってる……」
ざわめきが広がる。
指揮台の上に立つ士樹は、静かに目を開けた。
長身。黒髪。鋭い目つき。
だがその瞳には、どこか人間離れした静けさがあった。
彼には、世界が“音”で見えていた。
人の感情は音色。
体調はリズム。
嘘は不協和音。
怒りは低音。
愛情は、柔らかな和音。
幼い頃から、そうだった。
普通の人間には見えない世界。
それが鳴宮士樹の日常だった。
「五分休憩にしましょう」
低く落ち着いた声でそう告げると、団員たちは一斉に息を吐いた。
「あの人、やっぱ化け物だよな……」
「耳どうなってんだよ……」
小声が聞こえる。
士樹は気にしない。
もう慣れていた。
昔から、“普通”にはなれなかったのだから。
そのとき。
ステージ袖から、小さな笑い声が聞こえた。
「相変わらず怖がられてるね、士樹」
振り返る。
そこには、一人の女性が立っていた。
柔らかな栗色の髪。
透き通るような瞳。
黒いロングコートに身を包み、優しく微笑んでいる。
音姫詩色。
士樹の妻だった。
「詩色」
その瞬間だけ、士樹の表情が柔らかくなる。
団員たちも「あ、奥さんだ」と空気を緩めた。
詩色はゆっくり歩み寄り、指揮台の下から士樹を見上げた。
「ご飯ちゃんと食べた?」
「……忘れてた」
「また?」
呆れたように笑う。
「世界一の指揮者が倒れたら困るんですけど」
「世界一かは知らない」
「私の中では世界一」
さらっと言う。
士樹は少しだけ視線を逸らした。
「……そういうの、急に言うな」
「照れた?」
「照れてない」
団員たちがニヤニヤしている。
「夫婦仲良すぎだろ……」
「結婚して五年だっけ?」
「理想すぎる……」
詩色はくすっと笑った。
「みんな、士樹が怖そうに見えるだけで、ほんとはすごく優しいんだよ?」
「余計なこと言わなくていい」
だが、その声はどこか優しかった。
――音姫詩色。
彼女もまた、“絶対音感”の持ち主だった。
士樹が人生で初めて、“同じ世界を見ている人間”だった。
二人の出会いは、中学時代に遡る。
◇
「……うるさい」
中学一年の春。
吹奏楽部の音合わせ。
士樹は当時から孤立していた。
周囲には聞こえない音が聞こえすぎる。
少しのズレも耐えられない。
「トランペット、三音目高い」
「クラリネット走ってる」
「フルート息が揺れてる」
指摘ばかりする士樹は、当然嫌われた。
「また鳴宮がなんか言ってる」
「感じ悪……」
陰口にも慣れていた。
その日も、一人で音楽室を出ようとした時だった。
後ろから声がした。
「今の、B♭が14セント高かったよね?」
士樹は足を止めた。
振り返る。
そこには、小柄な少女が立っていた。
長い黒髪を揺らしながら、ニコニコしている。
「……聞こえたのか?」
「うん」
少女は当然のように頷いた。
「あとフルートの子、ちょっと緊張してた。呼吸が震えてたもん」
「…………」
士樹は初めて、言葉を失った。
この世界に、自分以外にもいた。
同じ音を聞く人間が。
「私、音姫詩色!」
「……鳴宮士樹」
「よろしくね、士樹くん!」
その瞬間。
士樹の世界は、少しだけ色を持った。
◇
「懐かしい顔してる」
現在。
詩色が士樹の顔を覗き込む。
「また中学のこと思い出してた?」
「……お前と初めて会った日」
「えへへ。運命だったねぇ」
「軽いな」
「でもほんとじゃない?」
詩色は笑う。
「だって世界中探しても、“音が色で見える人”なんて士樹しかいなかったもん」
「……お前も大概だろ」
「私は音が温度で見えるタイプだから」
さらっと言う。
普通なら意味不明な会話。
だが二人にとっては自然だった。
詩色は士樹の隣へ上がり、客席を見渡した。
「明日、ついに世界公演だね」
「ああ」
「緊張してる?」
「少しだけ」
「うそ。士樹の音、今すごい静かだもん。本当に緊張してる時はもっとテンポ速い」
見抜かれる。
唯一、この女だけは。
士樹は小さく笑った。
「敵わないな」
「妻ですので」
詩色は胸を張った。
その時だった。
――キィィィィィィィン。
突然。
士樹の耳に、異様な音が響いた。
ノイズ。
違う。
これは音じゃない。
もっと巨大な、何か。
空間そのものが軋むような音。
士樹の顔色が変わる。
「……士樹?」
詩色も気づいた。
二人とも、同時に天井を見上げる。
ホールの空間に、“亀裂”のようなものが走っていた。
ありえない。
空中に、黒い線が浮かんでいる。
しかもそれは――脈打っていた。
ドクン。
ドクン。
まるで心臓みたいに。
「なに……これ……」
詩色の声が震える。
士樹は直感していた。
これは危険だ。
本能が警鐘を鳴らしている。
だが同時に。
どこか懐かしい“音”だった。
聞いたこともないのに。
知っている気がする音。
「下がれ、詩色」
士樹が庇うように前へ出た瞬間――
黒い亀裂が、大きく開いた。
轟音。
暴風。
空間が砕け散る。
団員たちが悲鳴を上げる。
「きゃああああ!?」
「な、なんだこれ!?」
そして。
亀裂の奥から、“声”が響いた。
『――音を統べる者よ』
低く。
重く。
世界そのものが喋っているような声。
士樹の身体が硬直する。
『汝に問う』
空間が震える。
『この世界は、不協和音に満ちている』
詩色が士樹の腕を掴んだ。
「士樹……嫌な音がする……!」
だが声は止まらない。
『調律せよ』
その瞬間。
士樹の視界が白く染まった。
世界中の音が、一斉に流れ込む。
悲鳴。怒号。鐘。咆哮。
剣戟。爆発。魔力。歌声。
知らない世界の音。
知らないはずなのに。
なぜか、士樹には理解できた。
これは――“異世界”の音だ。
そして最後に。
誰かの声が聞こえた。
『――指揮者よ。世界を救え』
光が爆発する。
詩色が叫ぶ。
「士樹!!!!!」
手を伸ばす。
だが届かない。
世界が、割れた。
そして――。
鳴宮士樹は、“音魔法”の存在する異世界へと転移する。
だがその時、彼はまだ知らなかった。
自らのタクトが、“世界の法則”すら指揮できる神器であることを。
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