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沖漬けラブカ
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#鬱展開
Mist-404
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# 翼を焼かれた人類
最後の記録係は、自分がそう呼ばれていることを知らなかった。
彼女はただ、祖母から受け継いだ習慣を続けているだけだった。夜が明ける前の涼しい数時間、油の灯りの下で、羊皮のような紙に文字を刻む。それが「記録」と呼ばれる行為であり、自分がその最後の担い手であることに、彼女は気づいていなかった。
かつて――彼女の曾祖母の世代が語り継いだところによれば――太陽が人類の翼を焼いた。
強欲によって空高くまで昇ろうとした人類は、蝋で固めた翼を溶かされ、灼熱の海へと落ちた。それは寓話ではなく、この土地では歴史そのものだった。学校という言葉すら失われた社会で、子どもたちが最初に習うのはこの一節だった。
*「我らは翼を焼かれた。ゆえに、二度と空を求めてはならない」*
旧文明が滅びる前、地球には八十億の人間がいたという。今、この土地――かつて「シベリア」と呼ばれた凍土の縁――には、数百人が暮らしているだけだった。
温帯と呼ばれた土地は、日中に七十度を超える灼熱地獄と化し、誰も足を踏み入れられなくなって久しい。人類が生きられる場所は地球の陸地のわずか二パーセント。旧・寒帯だったこの土地と、氷が溶けて草原に変わった南の大陸、その二つだけが、人類最後の居場所だった。
記録係の名はイレナといった。彼女の祖母は、かつて「ヨーロッパ」と呼ばれた土地から逃げてきた者の子孫だと言われていた。生き残ったのは、太陽フレアと大災害が世界を覆う前に、財産と伝手を使って北へと逃れた者たちの末裔だった。
このことを、村の長老たちは決して誇らなかった。むしろ、それは罪として語り継がれていた。
*「我らの先祖は、金によって命を買った。それゆえ我らは、慎ましく生きねばならない」*
技術を求めることは禁忌だった。electricity(電気)という言葉は、もはや誰も正しく発音できない古語になっていた。永久凍土から掘り出された旧文明の機械は、「翼の残骸」と呼ばれ、触れることさえ許されなかった。
村から三日歩いた場所に、「緑の谷」と呼ばれる土地があった。
凍土が融けて数十年、そこには奇妙な植生が広がっていた。見たこともないほど巨大な羊歯、天を突くような針葉樹、そして息をするだけで頭がくらくらするほど濃い空気。長老たちはそこを聖地と呼び、同時に禁足地とも呼んだ。
「あそこは、太陽が翼を焼く前の世界の名残だ」と、長老の一人がイレナに語ったことがある。「あまりに豊かで、あまりに危険だ。豊かさは、いつも罰と共にある」
三年前、隣村の若者が数人、その谷に足を踏み入れた。彼らは戻ってこなかった。噂では、凍土の奥深くに数万年閉じ込められていた何かが、彼らの体を通して村に運ばれたのだという。
それから半年のうちに、隣村は消えた。
イレナが記録を書き始めてから七年目の冬、彼女の村にも咳が広がり始めた。
村人たちは、それを罰だと受け止めた。誰も驚かず、誰も抵抗しようとしなかった。それが、この世界に生きる者たちの作法だった――苦難は罰であり、罰は受け入れるべきものだった。
「私たちは、ずっと罰を受け続けてきた」と、死の床で長老は言った。「祖先が翼を求めたから。私たちが、また何かを求めてしまったから」
イレナは、その言葉に頷きながらも、心のどこかで違和感を覚えていた。生き延びるために移住した先祖たちの選択は、本当に「強欲」だったのだろうか。それとも、ただ生きたいと願っただけだったのだろうか。
だが、その問いに答える暇はなかった。
咳は止まらず、村の人口は日ごとに減っていった。八百人いた村は、半年で二百人になり、次の冬には五十人になった。
イレナが最後の記録を書いたのは、彼女が最後の一人になった夜だった。
油はもうほとんど残っていなかった。彼女は震える手で、祖母から受け継いだ言葉を、もう一度紙に刻んだ。
*「我らは、太陽に翼を焼かれた者である。強欲ゆえに天へ昇ろうとし、地に堕とされた」*
*「されど、これを記す者はもう一人しかいない。この一人が消えれば、罪を語る声も、赦しを乞う声も、すべて途絶える」*
*「もし、いつか誰かがこの文字を読むならば――」*
そこで、油が尽きた。
イレナは暗闇の中で目を閉じた。窓の外では、涼しい夜風が、誰も聞くことのない音を立てて草原を渡っていった。
人類が消えてから、地球はゆっくりと呼吸を取り戻した。
かつて「緑の谷」と呼ばれた場所の植生は、誰にも禁じられることなく、大陸全体へと広がっていった。凍土から目覚めた古代の種子は根を張り、見たこともない巨大な蕨の森が、旧・寒帯だった土地を覆い尽くしていった。
太陽は変わらず昇り、変わらず沈んだ。
それが誰かを罰しているのか、それとも、ただそこにあるだけなのか――その問いに答える者は、もうどこにもいなかった。
草原の奥深く、朽ちかけた小屋の中に、一枚の羊皮紙だけが、誰にも読まれることなく、静かに朽ちていった。
コメント
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読了したよ。この「強欲」、世界観がめちゃくちゃ好みだった。 「太陽に翼を焼かれた人類」っていう設定がまず頭にガツンと来た。寓話の重みが、歴史そのものとして社会に根付いてるのがすごく生々しくて。技術を求めるのが禁忌で、苦難は罰として受け入れる――その文化の理屈が通ってるから、イレナの最後の記録が途絶えるシーンがもう胸に刺さった。 「油が尽きた」って一文だけで、世界の終わりと一つの命の終わりが重なって見えた。ああいう乾いた諦念と、それでも書き残そうとした意志の対比が美しかったな。 続きあるなら絶対読みたい。この世界、もっと深く潜りたい。