美玲の異動の話は周囲が驚くほど早かった。それこそ優斗より先に関連会社への出向が決まったのだった。
優斗は魂が抜けたような顔で出勤していたが、頻繁に会社を休みがちだった。彼はそのうち退職するだろうと周囲は噂していたが、意外としがみついていた。
優斗の家族はあれからひと騒動あったようだ。優斗父は優斗母に離婚を突きつけていたが、父のパワハラ疑惑が彼の会社で噂となり、彼自身が職を失う危機に瀕して離婚を渋った。
どうやら優斗父にやられて退職に追い込まれた人たちが告発したようだ。
その日千秋のもとにとある男性から電話がかかってきた。
「本当にありがとうございました。あなたに勇気づけられて、訴えることができてよかったです」
「泣き寝入りするとどんどん被害者が出るからね」
「はい。僕たちは真実を訴えようと思います」
「がんばって」
千秋は静かに電話を切り、ひとり微笑を浮かべた。
優斗父は左遷か、最悪退職に追い込まれる。優斗はまだ若いが優斗父の年齢で仕事を失ったら次はないだろう。この件で優斗父は優斗母にすがりつくようになり、何も言えなくなったようだ。彼らはいずれ離婚になるだろうが、もうこちらには関係のないことだ。
とりあえず、山内家はこれから偉そうに嫁探しなどできないだろう。
「さて、残りは紗那の親か」
千秋がぼそりとそう言ったときだった。
再び電話が鳴ったのだ。
「あ、ちぃく~ん。あたしあたし!」
「誰?」
「もぉ~知ってるくせにぃ! 乃愛だよ」
「何か用事があったかな?」
「何よ、乃愛のこと用済みみたいに言って」
「用済みだよ」
「ひっどぉ~い!」
千秋は乃愛を紗那の人生から退場させることも計画していた。いずれ彼女はいなくなる。これが最後の会話になるだろうと、千秋は穏やかに彼女と話した。
「それで、何かな?」
「乃愛、完璧に仕事できたでしょ。だからぁ、ご褒美ちょうだい」
「報酬金額はかなり多めに払ったと思うんだけどなー」
「違うの。お金じゃないの。乃愛、ちぃくんとえっちしたいの」
「それは無理だよ」
「乃愛、満足させてあげるよ!」
「君じゃ満足できないよ」
「えー? そんなに石巻さんがいいの?」
不貞腐れたようにぼやく乃愛の声に、千秋は笑みを浮かべながら答えた。
「そうだよ。俺は一生彼女しか知らなくていい」
それを聞いた乃愛は驚愕の声で叫んだ。
「え!? うそ! ちぃくん童貞だったの!?」
千秋は特に動じることなく冷静に話す。
「君のような女性は経験ない男なんて嫌だろ?」
「んー、そんなことないよぉ。乃愛、初めての子に優しくしてあげるよ」
「大丈夫。間に合ってる」
「意外~ちぃくんみたいな顔のいい男って絶対経験豊富だと思ってた」
「世間一般の常識に当てはめなくていいよ」
乃愛は何度も信じられなーいと言い、千秋はそれ以上何も言わなかった。
「まあ、いっか。面倒だし。乃愛はやっぱり経験値高いおじさんが一番いいなぁ」
「ほどほどにね。でないと君、足をすくわれるよ」
「ちぃくん、やさしぃ~! そんなちぃくんにひとつ教えてあげる」
「何?」
「実はね、乃愛とちぃくんがホテルに入るとこ、石巻さん見ちゃったみたい」
思ってもいなかった発言を投下され、千秋は無言になった。
乃愛はすぐに言い訳を口にする。
「乃愛のせいじゃないよぉ。林田さんが仕組んだことだもん。あたしたちがホテルに入るところを石巻さんに見せるために」
固まったまま無言を貫く千秋に向かって乃愛は可愛らしい声で告げた。
「余計なことかもだけどぉ、早く誤解を解いたほうがいいよ!」
そのあとぷつんと通話が途切れ、千秋は真顔で固まったままだった。
これまで紗那に関するあらゆる事柄を完璧に計画してきた千秋にとって、このことは大きな誤算だった。
しかし、少し考えればわかることだ。美玲と乃愛が繋がっているなら、この機会も利用するだろうことに。
千秋は座ったままテーブルに突っ伏して額をごつんとぶつけた。
「失態だ」
よく考えてみたら、紗那がひどく落ち込んでいたのはそのことが原因ではないか。
千秋は何度も紗那に好意を示し、交際を申し込んできた。そのたびに彼女から躱されていたが、それでも誠実に思いを伝え続けてきたつもりだった。
しかし、紗那からすればどうだろうか。
何度も付き合おうと言ってきた男がよその女と体の関係になっていることを知ったら当然失望するだろう。
触れられたくもないはずだ。
千秋は紗那に振り払われてしまった手をじっと見つめて俯いた。
紗那の行動に少なからずショックを受けていたが、紗那はもっと大きなショックを受けていたに違いない。
「林田に偉そうなこと言えないな」
千秋はすぐ紗那に電話したが繋がらなかった。メッセージを送っても既読すらつかず。
紗那は今、休みを取って親戚の家に行っているという話だけ聞いていた。てっきり休暇を取っていると思っていたが、もしかしたら二度と戻るつもりがないのかもしれない。
「直接会うしかない」
千秋はスケジュール調整をして休みを取り、紗那を迎えに行くことにした。
真実を伝えるために――。
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