私は休暇ではなく休職をして父方の祖父の家に身を寄せることにした。
不眠症の診断を受けて休職を願い出たらそれほどかからず許可が下りた。というよりは、厄介払いをされたといったほうが正しい。
上司も問題を起こす社員など部署にいてほしくないだろう。実際に言われたわけではないが、そんな空気をひしひしと感じた。
父方の祖父は私の実家からかなり離れた場所にあり、人口の少ない自然豊かな町だけど私はほとんど祖父の家に行ったことがなかった。
というのも母が義実家に行くのを嫌がったからだ。
中学生の頃はひとりで行ったりしたけど、高校になったら次第に疎遠になって、今回は実に3年ぶりだった。
それなのに祖父はすんなり私を受け入れてくれた。
祖父は物静かな人だ。朝4時に起床して畑仕事へ行き、そのあと町内の会合へ行き、昼からボランティアへ行き、夜は友人知人たちと知り合いの店で酒を嗜みながら過ごし、21時には就寝する。
私は置いてもらっているから最低限の家事はしていた。祖父はほとんど私に干渉しないからいい意味で居心地がよかった。
家の後ろは森。そして畑と山々が連なり、自然が豊かな場所だけど、虫が多い。これが都会と違うところだ。
それなのに、とても居心地がよかった。
近所の人たちはみんな明るく笑顔で接してくれ、ここにはギスギスした空気はなくて、それほど時間が経たないうちに私の心は落ち着いてきた。
スマホは見ないようにして、余計な情報をシャットアウトした。すると不思議なほど心が穏やかになれた。
仕事を辞めてこっちに移り住んでもいいかもしれない。ここには私の事情を知る人はいないから。
その日も夕飯の買い出しのために出かけようと家を出たところで近所の人たちに声をかけられた。3人くらいの中年の主婦さんで、彼女たちはスマホを手にしてざわついていた。
私に気づいたひとりが声をかけてきた。
「ねえ、紗那ちゃん。これ知ってる?」
「今話題になってるらしいわよ」
「都会は怖いわねえ」
一体何の話をしているのかと思い、彼女たちの話題のネタとなっているニュース画面を見ると、そこに載っている情報に思わず「えっ」と声を上げてしまった。
乃愛、逮捕されたんだ――!
私が声を上げたことで、彼女たちも驚いたみたいだった。
「ひょっとして知り合い?」
「ええっと、同じ会社の人です。けど、接点はなくて……」
わざわざ本当のことを言う必要はないし、無難な回答をしておいた。
「そうなの? 結婚詐欺ですって。相当騙していたらしいわよ」
記事の内容だと乃愛は40代~50代の男性を中心に相当金をふんだくっていたらしい。
ちょっとびっくりしたけど、あの子ならやりそうだなあって妙に納得してしまった。
「そういえば紗那ちゃん、今度会合があるんだけどあなたもご一緒しない? まあ、集まって飲み食いするだけなんだけどね」
「私も参加していいんですか?」
「もちろんよ。昭三さん(おじいちゃん)と一緒にぜひ来てね」
彼女たちはもう乃愛に興味を失ったようで、好きな有名人について話し始めた。私は挨拶をしてその場をあとにした。
そっか、乃愛捕まったんだ。ちょっとすっきりした。そして二度と彼女とは会わないだろうと思うと心底ほっとした。
会合という飲み会は祖父の知人や近所の人たちが集まり、盛大に開かれた。大きなお屋敷のおうちに30人くらいが集まって食べて飲んで騒ぐ。
ただ驚いたのは、料理やお酒を出すために動いているのは女性ではなかった。
おじさんたちがビール瓶やグラスを運び、若い男性たちが料理を運ぶ。もちろん女性も給仕しているけど、ここには田舎独特の男女間の差がなかった。
私が手伝おうとしても、おばさんに止められてしまう。
「紗那ちゃんはお客さまだから座ってて」
「そうだ、紗那ちゃん。刺身は好きか? おじさんが捌いてやろう」
「あらやだ。若い子にデレデレしちゃって」
私が驚いて正座していると、若い男性がやって来て私のグラスにビールを注いでくれた。
すぐにとなりにおばさんが座り「たくさん食べてね」と言ってくれた。
私はひとつの疑問をぼそりと口にした。
「男の人がよく動くんですね」
そう言うとおばさんは声を上げて笑った。
「当たり前よお。男は体力があるんだからね。どんどん動いてもらわないと」
彼女がそう言うと男性たちは腕を見せつけて自慢の筋肉を披露していた。
山内家とずいぶん違う。
ここには男が女に命令し、女が従う構図は存在していなかった。
「うちの孫。今年24になるんだ。仲良くしてやってくれ」
そう言われて私のとなりに座ったのは若い男性だった。すらりとして筋肉質で、グラスを持つ手を見たらがっちりしていて大きな手だなあって思った。
私はその手を見て千秋さんを思い浮かべた。
そういえば彼も大きな手をしていたなあって。
「紗那さんですよね。話は聞いてます。都会でお仕事されてるってカッコイイですね」
「あ、ありがとう、ございます」
笑顔がさわやかな青年だ。髪を少し染めていて肩はがっちりしている。聞けば彼は工務店に勤めているそうで、自分で家の内装を変えたり庭を作ったりするのが好きらしい。
「こいつ出会いがないから困っているんだ。紗那ちゃんくらいの子がちょうどいいんだけどなあ」
「あんた、余計なこと言うんじゃないよ!」
「あら、でも、もしお相手がいないなら考えてみてもいいんじゃない?」
おじさんとおばさんたちが勝手に盛り上がっていた。
私は彼とたわいない話をしていたけど、心の中ではずっと千秋さんの面影を重ねてしまって、少し苦しかった。
ここ数日ずっとスマホを見ていなかったけど、久しぶりに電源を入れてみたら千秋さんからのメッセージが数件あった。
そういえばメッセージに返事はしますと言ったのに、完全に放置してしまっている。慌てて確認すると最後のメッセージに少し驚いてしまった。
【君に会いたい】
どきりとして、同時に胸が苦しくなって、わずかに目頭が熱くなった。
電話をしてみたけど通じなくて、私は無難なメッセージを送っておいた。
【帰ったら会いましょう】
一度離れてみたら冷静になり、心も落ち着いてちゃんと思考が回るようになった。少し前の私はいろんなことがあって混乱していたから物事をすべて悪いほうにしか考えられなかった。
けれど、今なら彼の話を冷静に聞いて、きちんと受け入れることができると思う。
そのときに、ちゃんと自分の気持ちを伝えられるように、心の整理をしておこうと思った。
それなのに、予想外のことが起こってしまった。
それは祖父と夕食を食べていたときのこと。突然家に近所のおばさんが息を切らせた状態で駆けこんできたのだ。彼女は慌てた様子だけど、なぜか口もとに笑みを浮かべていた。
「昭三さん、大変よ。都会からとんでもないイケメンが来たわよ」
その言葉におじいちゃんが眉をひそめた。
「わしの知り合いにそんな奴はいない」
玄関でおじいちゃんが冷たく返すと、おばさんはにこにこしながら声を上げた。
「やだわ。昭三さんじゃないのよ。紗那ちゃんのお知り合いなの!」
「私ですか?」
「そーよお! もうー、紗那ちゃんも隠すことないじゃない。こんな素敵な彼氏がいたなんて」
「えっ……」
おばさんの背後からひょっこり顔を覗かせて玄関に現れたのは、すらりと背の高い男性だ。Tシャツにジーンズというラフな格好で、髪型も少しぼさぼさで、いつもとずいぶん違う格好だけど、その体格と顔を間違えるわけがない。
「千秋さん……えっ、どうして」
「会いたいから来た」
「えっ、だって……場所、知らないはず」
「緊急連絡先がここになっていたから」
そう言えば、とマンションを借りたときの書類に私は緊急連絡先を実家ではなくここにしていたことを思い出し、とっさに半眼で彼を見つめて抗議をこめて告げた。
「緊急連絡先をこういうことに使うなんて」
「俺にとって緊急だった」
「個人情報とは……」
「詫びはいくらでもする」
ちょっとびっくりしたけど、意外にも冷静に彼と話せている自分に安堵した。
おじいちゃんは怪訝な顔をしていたけど、とりあえず私は千秋さんとふたりで話せる場所へ出かけた。
家の裏から森に続く坂道があり、そこを登っていくと小高い丘に出る。そこは展望台のような作りになっており、町の風景が見えた。
そして晴れた夜の空には星がいくつも瞬いている。
千秋さんは顔を上げて空を仰ぎながら微笑んだ。
「ここはよく星が見えるね」
「夜中はもっと見えますよ」
「夜景と星空のセットはいいね。ロスみたいだ」
「比較にならないと思います」
「見たことある?」
「ロスの? ないです」
「じゃあ今度一緒に見ようか」
「そんな、近所に見に行くみたいな言い方」
以前のようなやりとりができて嬉しいのと、おかしいので、私は思わず笑ってしまった。
すると千秋さんはにっこり笑って言った。
「よかった。思ったより元気そうだ」
ああ、心配かけてしまったんだと思って、急に申し訳ない気持ちになってきた。
「ごめんなさい。なかなか、返事ができなくて……」
「君が元気でいるならそれでいい」
彼のその言葉に私は胸がぎゅっと苦しくなって、ずっと疑問に思っていることを口にした。
「どうして、そこまで私のことを……」
「好きだからだよ」
千秋さんはまっすぐ私を見て言った。
やけに真剣な彼の目に私は釘付けになり、目頭が熱くなって視界が揺れた。