ダウンタウンの高層ビル群が、遠くでロウソクのように揺らめいている。何度も道を右左屈折するうち、あの光がどの方角を指しているのか、健太はすでに分からなくなっていた。夜の街を走る。上まで数センチ残したまま閉まらない運転席側の窓の、風切り音が激しい。彼は冷たいハンドルから片手を離し、革ジャンのファスナーを首元まで上げると、肩まで伸びた髪が揺れた。
外は街灯の間隔が広がり、同時に闇の間隔も広まった。歩道に大の字になった浮浪者のシルエットが流れる。ショーウィンドーの割れたガラス面に、パトカーの放つ赤いビームが脈打ちながら反射している。生ゴミが散乱する歩道に沿って、錆色のシャッター街が並んでいる。中央分離帯から千鳥足の人がいきなり飛び出してきて、健太はとっさのハンドルさばきでかわした。辺りと不釣り合いなほど大きな看板が目に映り、「自由」「平等」「夢」などの文字に煌々とした照明があたっている。 しかしながら、看板から伸びる長い影側の街には、自由も平等も夢も見当たりそうになかった。代わりに、階級ごとに分離した層が横たわっていた。富豪の層では豊かな生活や取り巻きが、貧民の層では貧しい生活や環境が、また中間層は、自ら自身の重みと富豪層の足場たる用途などによって、浮かぶことはなくとも沈みつつあった。各層はそれぞれ平行に伸びるだけで、交わることがない。だが、そのことを口に出すものは誰一人としていない。たぶんそのためだろう、大看板の表に書かれた文字については、政治家を初めとした数多くの人が、あちらこちらで口にする。そしてそういうときは、決まって言葉数までが多い。こうした現実は、ひとところに腰を据えていれば、誰の目にも明らかになる。逆に言えば、瞳が慣れてくる程じっとしていなければ、浮かび上がってこないような闇の中にあった。だから、移動し続ける旅行者の目には映らない。
健太も今、移動中であった。いや、迷走中であった。つまり、彼も旅人と同じく、自らの外側を覆う社会というものについては、よく見えていない。但し、その理由ならば異なっていた。旅人は目がなじむ時間的余裕のないためであるが、健太の場合は心に余白のないためであった。運転席のメーターに目を移すと、サーモメーターの針がレッドゾーン近くをさまよっていた。修理工の店が沿道に見えると、冷却液を購入しておきたい衝動にかられてフェスティバは速度を落とした。が、健太はすぐにアクセルペダルに足を載せかえた。空回り音を含んだカムシャフトが周り、追い立てられるように車体が続く。修理屋がバックミラーに小さくなった。やはりバイト代が入らないと冷却液までは購入できない。加えて、ここで止まれば彼自身までも車窓の一部に組み込まれていくような気がした。
いくつかの路地に迷い込むうち、「前方行き止まり」の表示板が行く手を塞いだ。他には選択肢がない。健太はついに車を停めた。席下にある道路地図を鷲づかみに引き出す。ずっしりと重い。車内灯を点けた。ぼろぼろの縁が顕わになる。背表紙のリングからはずれているページが地図中のどこに収まるのか、どの道路がどこへつながるのか、そしてそもそも、今現在の自分はどこにいるのか見当をつけるのに妙に時間を要する。そうこうしているうちに、一台のパトカーがルームミラーに映った。構わず地図と格闘を続けていると、警服の人影がこちらへ向かって歩いてくるのがサイドミラーに見えた。健太はだぶだぶのシートベルトを形ながらに装着し、ドア内側の固いコックを力づくで回す。鈍い摩擦音と共に半分程窓が開いた。
警官は大柄な身体を折り曲げ、こちらと目を合わせてきた。
「どちらへ」
それが解らなくて困ってる。だが、苦悩は喉を通って現実の声となることには慣れていなかった。結局健太は、地図を右手から左手、そして右手に戻しながら、口をもぐもぐさせているだけだった。警官は民家の隙間に光る遠くの高層ビル群を指した。
「ダウンタウンには道路が集まってます。とりあえずあそこまで出れば、どこへでも出れますよ」
どこへでも? と健太は反射的に返した。「どこって、そりゃ行先へですよ」警官は古びた警帽のつばを手で整えた。
行先どころか出口すらも分からない。健太は地図を助手席の上に落とし、両手で頭を抱えた。警官は小さくあくびをしたあと、一番近いフリーウェィ入口までの道を語りはじめた。道路脇に立つ支え棒の傾いた一方通行の交通標識を、壊れかけた街灯がちかちかさせながら照らしている。警官の話しているのは、今の健太の出口ではなさそうだ。そうなると、家に早く着いてしまう。警官は健太を最近入国したばかりの不法難民とでも思ったのか、英語をゆっくりに切り替えてだらだらと話し続ける。「あとは、たぶん大丈夫です」警官に礼を言い、健太はギアをバックに入れ、来た路地を戻っていった。
そして戻れば戻るほど、思い出ばかりが頭の中を駆け巡る…… こちらに来たばかりの頃。母国を離れて世界に来たはずが、通学路だけが健太の知る全ての世界だったこと。路線バスに乗り、学校前の停留所で下りる。そんな肩幅の線上を歩むことすら、犯罪に巻き込まれないよう注意しろとあちこちから忠告を受けたものだから、期待していた広い見聞どころか、視野はかえって狭くなる一方だった。ダウンタウンにある語学の教室には、南米のラテン人や旧ソ連圏の人達が集まっていた。彼らだってビザの関係で、やむなくここに座っているのだ。休憩時間は故郷を一にするグループに塊まり、英語は一切聴こえない。代わりに、それまで健太が一度も聴いたことのない各々の故郷言葉が聴こえてきた。クラスには日本人が他に一人だけいるにはいたが、学期中ついぞ一度も言葉を交わすことはなかった。彼女は他の教室に友達がいて、授業開始のベルが鳴るまで姿をくらましていることが多かった。健太の場合は他教室にも友達がいなかったから、そういうことができなかったまでだ。学期末のパーティで、その女性と初めて話す機会がくると、思っていたより打ち解けやすかったこと。あちらも話したいとは思っていたが、機会がなかったのだという。同じですねと目が合ったこと。
初めてのクラスメートができた喜びも束の間、来期から彼女は、この学校を出て大学に進学すると知ったこと。彼女が通い出した大学が、たまたま健太のアパートのすぐ向かいにあったこと。彼女は健太のアパートに立ち寄るようになったこと。そのうち二人は一緒に食事に行って出かけたり、やがて共に住むようになったこと。中古車を買うとき、ダットサンZにダダっこのようにこだわる健太に、彼女が反対したこと。二人乗りのスポーツカーを見ず知らずの人から継ぐよりも、知り合いから入手した方がいいと言う。買った翌日から動かないでは、修理代が馬鹿にならないというのだ。彼女は健太よりも長くこの国にいた。留学を終え母国に帰るという彼女の友人の車はフェスティバという四人乗りで、後部席を倒せば荷台が広がり、その小ぶりな見た目からして燃費もよさそうだった。少年時代の夢だけではひっくり返せない現実がある。健太は母国で貯めてきた貯金だけでやりくりしていた。フェスティバの方に決めたとき、夢と現実の交換熱で心が少しだけひりひりしたこと。車を手に入れてからは、仕事探しができるようになった。彼女が切り抜いた新聞広告から、週末の空港バイトが決まったこと。アパートの駐車場で、車のドアを何物かに壊されて、カーラジオが盗まれたこと。それ以来、フェスティバの窓はぴたりとは閉まらず、そこから隙間風が入り込むようになったこと。あとになって、その犯人が大家だったと知ったこと。それから、引っ越しをやたらと繰り返したこと。引っ越すたびに、やはりフェスティバを選んでよかったと思ったこと。スポーツカーの荷台では、荷物を運ぶのに一層苦労していたはずだ。ショッピング・モールの掲示板から、今のホームスティ先を彼女が見つけてきたこと。そうして、今いるマイクとスージー夫婦の家に辿り着いたこと……
結局、ダウンタウンには向かわなかった。車は無意識に走り、曲がりを繰り返した。直線のゆるい坂に入ると、エンジン音が大きくなる。再び「前方行き止まり」の標識が見えてきた。また同じところに戻ってしまったのか? ギアをバックに入れて後退する。街灯はちかちかしていない。辺りは見たところ、静かな住宅街だ。何か様子が違う。どこかで見た風景だと思っていると、そこはすでにマイク夫婦の家の前の道だった。
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