コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
立ち並ぶパームトゥリーのうちの一本を、ヘッドライトが照らした。浮かび上がった根元に車を止める。エンジンを切ると、犬が啼いているのが聴こえた。部屋の灯りが、犬小屋の屋根に反射している。まだみんな起きているようだ。ハンドブレーキを上げながら、着いたぞと助手席を見る。そこには、がらんとした闇夜の空間しかなかった。頭の中がそのことをまだ理解しない。冬の終わりの気温に、身体の震えで気付いた。警官と話したときから、窓がそのまま開いていたらしい。開閉コックが廻らない。手が痛い。伸びたままになったシートベルト。使えない地図。空になった冷却液ボトル。車内には、なくして困るものはもう一つもないらしい。健太は開いたままの窓枠を手でなぞると、車を降りた。
芝の張られた庭の上に、C字カーブを描く石畳が玄関戸まで続いているのを、改めて眺める。初めてここへ来た頃は、この敷石の上を歩いたものだ。踏み出すごとに立ち止まってみる。平屋の三角屋根。木戸の向こうに頭だけ見える犬小屋。ポーチを支えるイオニア式の円柱。応接間の大きな窓。この風景を見るのは、あと何回だろうか。
玄関戸をそっと開けた。右手の応接間のソファを、青白い外光が照らしている。電気のついた正面奥は食堂で、曇りガラス戸の向こうから笑い声が洩れてきた。その様子から、奈々が食堂にいないことを知った。胸をなでおろしつつ、ドアの取っ手を握った。
「ウェルカム・ホーム!」ガラス戸を開けると同時に、一斉に声が飛び込んできた。六人がけの食卓に、それ以上の人が囲んでいる。向かい側真ん中にいるのはこの家のオーナーのマイク夫妻で、その他は健太のような同居人だ。働いている彼らは皆年上で、一応学生身分の健太らは、このなかで最年少だ。マイクはこっちに向かって手のひらを下に降ろす動作を繰り返す。仲間に入って座れという意味だ。健太のすぐ隣には、彼が「じいさん」と呼んでいる同居人がいる。思えばこの無口な老人とは、ついにあまりしゃべることがなかった。健太は立ったまま改めて背を伸ばし、息を一度吸って吐いて、また吸ってから留めて、短い間だったけど大変お世話になりました、と言った。「住む所、見つかったのか」とマイクが聞いた。健太は首を振った。「ならば好きなだけいたらいいわ」とスージーが言った。健太は無言で立ち尽くしている。
そのときだった。玄関が閉まる音がしたかと思うと、曇りガラスに赤い色がちらと混じった。 ガラス戸が開く。心臓が急に鳴りを高めた。人々は一斉に食事の手を止め、顔が慌て出した。マイクは「やあ」と声を挙げたが、背中まで伸びた奈々の長い髪がなびくだけだった。彼女の部屋は食堂の隣の廊下を歩いてすぐだ。そこはつい一ヶ月前まで、健太の部屋でもあった。奈々の後姿を目だけで追う。ドアの閉まる音が廊下を伝わってきた。それを合図に、食卓の視線が再びこちらに向いた。いいんだ、と健太は言った。