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「⋯⋯アライン?」
その声は
深海の底から浮かび上がる泡のように
静かに──
けれど確かに、精神世界の闇を打った。
波紋が揺らめく、温度の無い水面。
その中心に佇むアラインは
巨大な鏡の前でわずかに肩を抱き震わせ
頬に朱を差した陶酔の表情を浮かべて
焦点も定まらず笑っていた。
耳元に届いたライエルの声に引かれるように
その表情がわずかに揺らぎ
硬直したような沈黙が走る。
アラインの肩が、小さく上下した。
「⋯⋯ちょっとだけ、疲れただけさ。
心配はいらないよ」
答えた声は、いつもよりわずかに低く
柔らかい響きを含んでいた。
微笑を形づくる唇の端はかすかに震えており
それがまだ熱を引き切っていない
証左だった。
鏡面の水に反射する自身の瞳には
濃い蒼が宿り
その奥に残る陶酔の名残が揺れている。
鏡の奥──
まるで水面の向こう側から
こちらを見上げるように
ライエルの姿が現れていた。
彼の顔は穏やかで
静かな慈愛が宿っていた。
その瞳は透き通った水晶のように澄み
揺らぎの一つすら
優しさの中に包まれている。
「⋯⋯ふふ。
記憶の流れを、私はここで感じていたよ。
悪意の記憶が消えていく、その清らかさを。
ありがとう、アライン。
やっとこの異能を
良い事に使ってくれる気になったんだね!」
その声は
波風ひとつ立てぬ湖面のように穏やかで
誰の命も奪わない〝水〟そのものだった。
アラインは、その言葉に鼻を鳴らした。
肩の力が抜けるように
かすかに首を垂れ、吐息を落とす。
「⋯⋯そのことで、キミに任せたいんだ」
ライエルの瞳が、真っ直ぐに向けられる。
「ボクにはね
〝善〟なんてもの
これっぽっちも理解できないから。
だからこそ
キミにしかできないことがあるんだよ」
言葉を終えると同時に
アラインは手を伸ばした。
指先が鏡面に触れた瞬間
水はそっと波を打ち
その表面に淡い光の輪が広がっていく。
「さぁ⋯⋯おいで」
その声は、まるで子守唄のように甘く
そしてどこか残酷な優しさを含んでいた。
ライエルはほんの一瞬、わずかに躊躇した。
けれど、目を伏せることなく
その信念を灯したまなざしで手を差し出す。
水の膜が
彼の白い指先を包み込むように吸い寄せ
やがてアラインとライエルの指が──
鏡越しに触れ合った。
静かに、確かに、二人の手が絡まる。
アラインはその手をしっかりと握り返し
指と指を丁寧に絡める。
引き寄せるようにして、鏡面の内側から──
もう一人の〝自分〟を
この世界へと導き出した。
ライエルの身体は
まるで水中から浮上するように
胸元からゆっくりと現れていく。
反して、アラインの身体は
その分だけ鏡に沈んでいく。
背中が、胸が、後頭部が
まるで吸い込まれるように
水面の向こうへと沈降していった。
互いの身体は同時に
同じ世界には存在できない。
一人が出れば、一人が沈む。
その法則を受け入れるように
アラインはすべてを委ねていた。
ライエルの腰を包み、肩を抱きしめながら
アラインは耳元に囁く。
「⋯⋯大丈夫。
キミなら、きっと上手くやれるさ。
名前もね、キミが好きなように付ければいい。
キミの手で、新しく始めるんだ」
ライエルのまなざしが、微かに揺れる。
けれど、それを拒むことはしなかった。
アラインは
最後にその唇の端に
僅かな笑みを浮かべながら
静かに沈んでいく。
鏡面の水が再び平らに戻り、静寂が包む。
その場に立っていたのは
もうアラインではない。
鏡の中から出てきたもう一人──
澄んだ目を持ち、穏やかな微笑を湛える
ライエルだった。
深い闇の精神世界に、ひとつだけ──
静かで確かな光が灯った。
(くく⋯⋯
さぁ、お手並み拝見だよ、ライエル⋯⋯
異能も無しに、キミがどこまでやれるか。
キミの綺麗事が罷り通らなくて
ボクに泣いて縋るのが楽しみだよ)
鏡の奥から
囁くように嗤い声が響いて
水に揺らめき消えていく。
⸻
艶やかな黒い睫毛が、かすかに揺れた。
その下から覗いたのは
まるで雪解けの山肌に湧いた湧水のような
澄んだアースブルーの瞳。
静かでありながら
ほんのりと震えが混じるその視線には
ただならぬ緊張が浮かんでいる。
(⋯⋯今世こそ、アリア様の為に
少しでもお役に立たなければ)
そう静かに自分を鼓舞しながら
ライエルは背筋を正すようにして
立ち上がった。
足取りは軽やかとは言えず
むしろ床に響く靴音が
不安の色を物語っている。
部屋のドアを開けると
すぐ脇に控えていた護衛の男たちの姿が
目に飛び込んできた。
どちらもごつごつとした輪郭に、無精髭
鋭い目付き──
完全に〝戦闘員〟のそれだった。
その外見に
ライエルの肩がピクリと跳ねる。
「お待ちしておりました、アライン様。
全員、ミーティングルームにて
待機しております」
二人は声を揃えて挨拶し
音を立てて踵を揃えた。
軍隊式の礼儀が、空気をより引き締める。
(⋯⋯混乱させないように
私も〝アライン〟と名乗っていた方が
良いかも、ですね)
無意識に表情を引き締めながら頷くと
ライエルは案内に従って歩き出す。
廊下の壁には並ぶように制服が掛けられ
床は打ち付けられた鉄材が
丁寧に磨かれていた。
ここがかつて
殺しと命令の場だったことが
その冷たい光沢から伝わってくる。
そして──
ミーティングルームの扉が開かれると
空気が変わった。
部屋は長方形。
壁一面には戦略図やデータパネル。
奥には長い楕円形のテーブル
そしてその前方に
黒一色の服を纏った男たちが
整然と立ち並んでいる。
その密度に、ライエルは思わず息を呑んだ。
戦闘経験の深さが滲み出る、武骨な空気。
殺気こそ抑えられているものの
それでもその鋭さは刃のようだった。
(⋯⋯こ、こわい⋯⋯)
(ライエル⋯⋯
そんな弱腰では
指導者としての信頼は得られないよ?
ほら、堂々としなよ)
鏡の奥からアラインの声が
まるで意地悪な教師のように響く。
(テーブルの上に、マイクがあるだろう?
それに向かって話せば良いんだよ)
(⋯⋯まいく?)
言葉の意味が分からず
ライエルはテーブル上の物品を見回す。
いくつかの金属製の箱
長方形の光る板状のもの
立て掛けられた黒い棒状のもの──
どれが「マイク」なのか判断がつかない。
ライエルは顔を引き攣らせ
こそこそと両隣の護衛に身を寄せ
小声で尋ねる。
「あ、あの⋯⋯この中で
〝まいく〟って⋯⋯どれ、ですか?」
その問いに、護衛たちは一瞬目を丸くし
次いで噛み殺したような顔で
慌ててマイクを指差した。
「⋯⋯こちらです、アライン様」
「あっ、そ、そう。
⋯⋯ありがとうございます」
小さく礼を述べ
ライエルはそのマイクの前に立つ。
周囲の視線が一斉に彼に集まり
沈黙が場を包む。
普段のアラインならば
第一声で空気を支配し
誰も口を挟めぬ圧を放っていた。
しかし、今
マイクの前に立つその姿はどこか危うく
慎重で、柔らかかった。
ハンター派の者たちの間に
戸惑いのざわめきが走る。
「あれ⋯⋯様子が違う」
「なにかあったのか?」
「敵に何かされたんじゃ⋯⋯」
囁き声が断続的に漏れる。
一方、記憶を改竄された
〝慈善活動派〟の男たちは違った。
彼らはライエルの姿を見て
すぐに胸を張り直し
彼が口を開くのを待っていた。
ライエルは小さく息を吸い込み、口を開く。
「⋯⋯みなさん。
今日は、お集まりいただき
ありがとうございます」
ライエルの柔らかな声に
会場内が一層、不安にざわめく。
「まず──改めて、皆さん一人ひとりの力に
心より感謝しています。
これまでの活動も、そしてこれからも⋯⋯
人々のために尽くす皆さんを
私は誇りに思います」
慈善活動派が、即座に雄叫びを上げた。
「アライン様、万歳!」
「お言葉、しかと!」
空気が熱を帯び、拳を掲げる者さえ現れる。
だが──
それを横目に
ハンター派の面々は表情を曇らせた。
いつものような、冷ややかな命令ではない。
どこか演説のようで
誰に向けているのかも曖昧な調子。
「人々のために尽くすって⋯⋯なんだ?」
「⋯⋯っち、なんか様子が違くねえか」
「おい、あれは⋯⋯本当にアライン様か?」
不穏なざわめきが再び広がる。
ライエルはそれを察しながらも
動揺を必死に飲み込んで、言葉を継いだ。
「これから、新たな方針のもと──
組織は〝再定義〟されます。
私は⋯⋯その名を、皆さんに委ねる前に
まず〝理念〟を提示したい。
力ではなく、信頼によって繋がる組織を──」
その瞬間
またしても慈善活動派から
賛同の拍手が起きた。
だが、ハンター派のざわめきは止まない。
拍手を送っているのは
組織内でも幹部クラスの精鋭部隊
だからこそ、さらに困惑していた。
(さぁ、ライエル?
そのまま突っ切ってごらん。
キミが綺麗事を通せるなら⋯⋯
その空間を掌握できるなら──
ボクは、見直してあげる)
鏡の奥で
アラインが冷笑を浮かべて揺蕩う。
ライエルは唇を引き結び、前を向いた。
震えを内に隠し、ただ一歩
静かに〝自分の言葉〟で
目前の世界を塗り替えようとしていた。