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『月面図書館と紙の恋』
月面第7区、旧地球遺産管理区。
ここには、たった一つだけ、人の手で触れる「紙の本」が残されている。
今日も、図書管理官である僕は、静かな一日を始める。
利用者はほとんどいない。電子書籍が99.9%を占めるこの時代に、わざわざ酸素区画を通って月面図書館に来る人なんて――。
「こんにちは」
その声がしたのは、ちょうど開館して三分後だった。
彼女は、毎週月曜日の朝、必ず一冊だけ本を借りていく。
19歳、地球帰還プログラムの候補生。
名前は……まだ知らない。尋ねたことがないから。
「今日は……これにします」
彼女が差し出したのは、古びた恋愛小説だった。表紙の角は少し擦れていて、触れた指先に紙の質感が伝わってくる。
「貸出期間は7日間です。返却は次の月曜日まで」
僕はそう言って本を渡す。
彼女は小さく笑って、「来週、また」と言い残し、出口へと向かった。
彼女が去ったあと、机にそっと残された“しおり”に気づく。
そこには、小さな字でこう書かれていた。
「物語の中で、恋をすることはできますか?」
それが最初だった。
翌週も、その次の週も。
彼女は一冊の本を借り、しおりを残していった。
「恋って、知らない人をこんなにも愛せるものなんですか?」
「物語の登場人物に嫉妬したのは、初めてでした」
「あなたは、誰かに“会いたい”って思ったこと、ありますか?」
言葉はいつも、しおりに挟まれていた。
返却時に、何気なく本を開いた僕だけが見る、小さな手紙。
僕は返事を書かなかった。書いてはいけないと決まっていたから。
けれど、ある週だけ――どうしても気持ちが抑えきれなくなって、
しおりの裏に、たった一言だけ書いた。
「あなたに会える月曜日が、好きです」
それを読んだのかどうか、彼女は何も言わなかった。
けれど、その日から“しおり”は挟まれなくなった。
そして数週間後、館内放送が告げた。
「地球帰還プログラム、第14次選抜通過者の出発は、明朝6時」
彼女の名前を、初めて知った。モニターに表示された文字列を見て、胸が痛くなる。
僕はその晩、こっそりと“ある一冊”を棚から選んだ。
彼女が最後に借りた、小説。
最終ページの手前に、しおりを一枚だけ挟む。
「いつか地球で、本物の春を見られますように。
そしてもし、それが叶ったなら――
その空の下で、もう一度だけ会えたら」
朝、彼女が現れた。
本を返しに来るのではなく、ふらりと館内に入ってきた。
「今日は……借りに来たんじゃないんです。お礼を言いに来ました」
その声は少し震えていたけれど、目は真っ直ぐだった。
「あなたが、ここにいてくれてよかった」
彼女は、何も借りずに帰っていった。
けれど僕の胸には、確かに“物語”が刻まれていた。
物語の中で恋をしていたのは、きっと僕だけじゃなかった。