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降り出した雨の音を掻き消す程の靴音ががらんどうな廊下に響く。
「兄上!」
探していた背中をやっと見つけて、思わず駆け寄った。
「どうした、フラン」
「それは兄上が一番ご存知の筈でしょう…どうして私に何も言わずにアメシスの森へ、アンブローズ様の元へ向かったのですか」
ゆっくりと振り向いたお兄様はあぁ、それかと呟き、さも何てことないかのように答えた。
「フランが見せようとしないからだろう」
「それは…」
当然だろう。お兄様には私の好きな物を試して、見定めようとする悪癖がある。ぬいぐるみに始まり、本や人、挙げ句の果てには魔法まで。これまで散々迷惑をかけたのだ、アンブローズ様にそのような心労までかける訳にはいかない。
「…アンブローズ様に何か、ご迷惑になる様なことはなさっていませんか?」
「ははぁ成る程、つまりはこのお兄ちゃんを疑っている訳だな」
「まぁ…包み隠さずに言えばそうなります」
「もう少し隠し通す姿勢を見せなさい」
はぁとため息をついてお兄様は姿勢を崩す。腰に手を当て、先程までよりもいくらか緩い雰囲気で窓の外、遠くの街並みを眺めている。
「紫水晶の呪術師殿は悪い人間ではない、そんなことは俺とて重々分かっている。オルタンシア殿があれ程可愛がっていた一番弟子なのだ、尚のことだろう」
「では何故…」
「レオンス・オブシウス。あいつの禁呪については、オルタンシア殿から直々に頼まれているからな。様子見と言った所だ」
その名前を聞いて、 唇にぴりっとした痛みが走った。知らず知らずの内に噛んでいたらしい。跡になってはいけないと、慌てて力を緩める。
彼の身に何が起こっているのかは知っている。けれど、その秘密故の行動を振りかざすことだけはしたくない。例えそれが善意に基づいた行動だとしても、彼からしたら押し売り以外の何物でもないのだから…。
「そうだ、フランシス」
釈然としない私の目の前に、凛とした声と共にぴっと指が置かれる。お兄様がわざわざ私をフランシスと呼ぶ時は、基本的に何か説教じみたことをされるということを私は知っている。が、しかしお兄様に怒りこそすれ、私が怒られる心当たりはない。
きょとんとしていると再びため息をつかれた。
「記憶は戻してあげなさい。彼は強い人なのだから、その程度のことで早々折れたりはしないだろう」
「…まさか、お兄様」
「素が出ているぞフランシス?」
「……っ、いえ、兄上。まさかアンブローズ様の記憶を勝手に戻していたりしませんよね?」
私がいくら縋るように見つめようと、事実というものは変わらない。
「困惑していたから戻してきたぞ。彼自身もフランと絡む中で、そろそろ自分の記憶の不自然さに気付いていた頃だろう」
ひゅっと喉が鳴った。
「それじゃあ、私は、もう…」
不安な心の赴くままに強く強く自分の腕を握り締めていると、お兄様にそっとその手を外された。昔からお兄様の表情はあまり変わらないけれど、その手はいつも温かかったな、とふと思った。
「嫌われてでも護ると、そう言ったのはフランではなかったのか」
咄嗟に言葉が出てこない。だって、本当のことだったから。
彼が利便性のために私の手を取るならば、全力で力になるつもりだった。彼が私を嫌がるのならば、全てを見届けた後に消えるつもりだった。
「…ですが、私は」
私は今 、何を考えている?
「………」
何も言えないまま俯く私の頭をお兄様は優しく撫でて、その体をひらりと翻した。どうやらもう休憩時間は終わりらしい。そのまま歩き出すと思いきやぴたりと動きを止め、上半身だけを振り向かせた。
「…意地悪を言った。俺が思うに…フラン、お前には他者を気遣いすぎる機雷がある。それは無二の美点だが、しかし自分の心を見失っては意味がない。よく考えて、心残りだけは残さないように」
そう言い残してお兄様は廊下を進んでいった。
雨音と靴音だけが響く中、残された私は心臓に手を当てて考えてみる。シャツの下に隠した指輪の硬い感触が布越しに伝わって息を吐く。
アンブローズ様が幸せになれるのならば、私はなんだってしたい。私が嫌われようと、離れることになろうと、彼が幸せならばそれでいい。…いい、筈なのに。どうしてだろう。
「私、我儘だ」
貴方は私の大切な友達であり、師匠であり、初恋の君であり、恩人であり…。
見ないふりをしていた何かが、まだ他にあるのかもしれない。