夕方そろそろ退社しようかと思っていると、目の前にいる五十嵐さんが溜息をつきながら何か携帯でメッセージを送っているのが見えた。
「五十嵐さん、今日息子さんのお誕生日じゃなかったですか?」
子煩悩な彼はよく2人のお子さんの事について話してくれるので、上の男の子が今日5歳の誕生日だということを覚えていた。
「そうなんだけど、明日の会議で使う資料に追加するところがあって、ミスで入ってないんだ。今からやり直さないと……」
五十嵐さんは溜息を再び付くと、印刷し終わった資料を悲しそうに見つめた。
「どこですか?もしよければ私がやりますよ?」
「えっ?お願いできる?」
「もちろんですよ。そんなのもっと早く仰ってください。折角のお誕生日なのにお父さんがいなかったらがっかりしますよ」
五十嵐さんは目をうるうるさせながら私を見た。
「七瀬さん、この借りは絶対に返すよ。本当にありがとう!」
「そんな、本当に気にしないでください。それよりも早く優くんの為に家に帰ってあげてください」
何度もお礼を言いながら帰っていく五十嵐さんを見送った後、私は書類に追加する資料を打ち込み始めた。
五十嵐さんは本当に家族思いで、その温かい人柄はいつも職場でも滲み出ている。いつも彼には親切にしてもらってるので、自分もつい彼にその恩返しをしたくなる。
この会社に勤め始めてもうすぐ半年になるが、私はこの会社が大好きだ。確かに慣れない仕事で大変な時もあるけど、前の会社と比べると職場の雰囲気が全然違う。
桐生クリエーションは面接した時にも感じたが、あまり学歴や職歴などは問わない。その代わり実力とその本人の人柄が重視される。なのでいくら高学歴で職歴が立派でも、チームとして仲良く仕事ができない人は基本的雇われない。
その代わり実力があり人柄もよければ、どんなに若くてもその部署やプロジェクトをまとめるリーダーになる事ができる。そのせいか職場はいつも和やかで、かつ団結力があり仕事も早い。
それと比べると、前の高嶺コーポレーションはある意味最悪だった。あの会社を辞めてみて始めてどれだけ劣悪な環境だったかが分かる。上にあがれるのは基本的に年功序列かコネで実力も人柄もあまり関係ない。
それなのに上司がダラダラと会社に居残っている時は退社する事が出来ず、いつまでも会社に残って残業しなくてはならない。それで居残っていれば必ず雑用を言い渡され、ほぼ毎日終電で帰り家に着くのは日付が変わった後だった。あの頃は精神的にも体力的にもかなり限界だったと思う。
今の会社でも残業することはあるが、疲れ方が全く違う。職場の雰囲気が自分の精神状態に与える影響は大きい。つくづく働く環境というのは大事なんだと思う。
「あれ、七瀬さん、まだ残って仕事してるの?」
突然会社に戻ってきた桐生さんが社長が驚いたようにわたしを見た。壁にかけてある時計をちらりとみると、かなり遅い時間になっていた。
「明日の資料に少し手直しがあったので直していたんです。でもちょうど終わったところです」
「よかった。だったら今送っていくよ。俺も忘れた資料を取りに帰ってきただけだから」
「えっ……?そんな、とんでもないです。社長もお疲れなのに。終電まで時間があるので大丈夫です」
「そんなに疲れてないから大丈夫。それにこんな時間に七瀬さんが、あの人気のない住宅街をアパートまで1人で歩いて帰るのかと思うとぞっとするんだ」
社長は私を何度かアパートまで送ってくれた事があり、いつもセキュリティーなど全くないアパートに住んでる事を心配している。
「もう、本当に心配しすぎですよ」
そんな心配性の社長を思わず笑った。しかし彼は真剣な顔をした。
「わかってる。でも俺が嫌なんだ」