テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
一度灰となり、小指から再構築されたスロスの肉体は完全に元通りだが、内部に残る感覚だけは消えていない。触れられた瞬間のあの感触、冷たさでも熱でもない、存在そのものを削り取られるような違和感が、まだ骨の裏側にこびりついている。
スロスはゆっくりと息を吐き、指先の感覚を確かめるように拳を握り直した。腰にはナイフが何本も仕込まれているが、今回はその一本一本に薄く神秘を通してある。チーターの能力を神秘で抑制できる事を、スロスは既に知っている。
外は重く、空気を歪ませるような圧を帯びており、それが自分の存在を現実側に強く縫い留めているのが分かる。
「さっきとは違う。」
スロスは小さく呟くが、それ以上言葉を重ねない。無駄な声は集中を削ぐだけだ。
視線を上げると、先ほどまでアッシュが立っていたはずの路地の奥には誰の姿もない。影だけが折り重なり、昼の光が建物の縁で切り刻まれて地面に落ちている。スロスは一歩踏み出し、足裏に伝わる微かな振動と空気の流れを読む。人の気配が遠ざかる方向、生活音が急に途切れる不自然な静寂、その隙間を縫うように移動する存在の痕跡を追う。
壁際には薄く積もった灰が風に寄せられ、まだ完全に散り切っていない。ほんの数分前に誰かがここで消えた証拠だ。スロスはその灰を指先でなぞり、神秘の反応を確かめる。
「……結構動いてるな。」
声は喉の奥で止め、路地を横断する細い通路へと身体を滑り込ませる。先へ進むにつれて、街の音が再び近づき、人の気配が増えていく。だがその中に一つだけ、明らかに異質な静けさが混じっている。誰かが立ち止まり、そして消えたような空白。スロスは屋根の影に身を寄せ、視線を巡らせる。
通りを横切ろうとした一般イカタコが、途中で足を止めている。その正面、昼の光の境目に、血の気を失った顔と虚ろな目をした影がゆっくりと現れる。腕が伸び、指先が触れようとした瞬間、スロスは屋根から飛び降り、地面を蹴って割り込む。金属が鳴り、神秘を帯びた刃がその腕を弾く。
虚ろな目がこちらを向く。少しの動揺が顔に浮かんだ後、ただ確認するような視線だけが向けられる。
「戻ってきたのか。何の能力なんだ?」
アッシュが言う。その声は低く、昼の雑音に溶けそうで溶けない。
「消えたはずだと思ってたんだけどね。」
「そう簡単には終わらない。」
スロスは短く返し、地面を蹴った。踏み込みは低く速い。影を裂くように距離を詰め、神秘を帯びたナイフを横から振るう。刃先がアッシュの外套に触れた瞬間、これまでとは違う抵抗が走る。灰化が起きない。代わりに、何か硬い膜を削るような感触が返ってくる。
「痛っ」
アッシュは無表情に、そして声のトーンを変えずにそう言ってみせた。一歩下がる。
「ボスの言ってた『神秘』ってやつかな?灰化できなかった。」
スロスは言葉を返さず追撃に入る。上下左右から連続で刃を送り、逃げ道を塞ぐように間合いを詰める。アッシュは最小限の動きでそれを捌き、時折こちらの肩や腕に触れようと手を伸ばすが、スロスはそれを許さない。触れられれば終わる、その単純な事実が全身の動きを研ぎ澄ませる。
金属音が路地に反響し、灰色の粉が舞うが、それは壁や地面を削っただけだ。数秒、あるいは数十秒か、時間感覚が曖昧になるほどの攻防の中で、スロスは違和感を覚える。アッシュの動きは一定で、無駄がなく、こちらの攻撃を学習するように少しずつ最適化されていく。
瞬間、アッシュの動きが変わる。わざと一拍遅れ、肩口に刃をかすらせる。スロスの視界に勝機がちらついた次の瞬間、アッシュの手がナイフの死角から伸び、手首に触れた。指先から灰色が広がり、皮膚が音もなく崩れ始める。
「っ……」
スロスは声を殺し、即座に自分の腕を切り落とす判断をする。神秘を通した刃が自分の前腕を断ち、灰化の進行を止める。地面に落ちた腕は数瞬で崩れ、跡形もなく消える。スロスの腕はすぐ再生し元に戻った。
「再生能力ね。スペアが家かどこ何あったのかな?」
アッシュは感心したように言う。
距離が一気に詰まる。次は胸元。神秘がある分、完全な即死ではないが、灰は確実に侵食してくる。スロスは後退しながら最後のナイフを投げるが、アッシュはそれを避けもせず、触れて灰に変える。
「そう簡単には終わらない。」
その一言が路地の空気を引き締める。スロスは重心を低く保ったまま半歩横へずれ、アッシュとの距離を測り直す。昼の光が二匹の間に斜めに落ち、影が歪んで重なり合う。周囲ではまだ一般イカタコの生活音が微かに続いているが、この路地だけが切り取られた異界のように静まり返っていた。アッシュは一瞬だけ通行人の方へ視線を流し、次の獲物を優先するかのように身体の向きを変えかける。
その動作を見逃さず、スロスは地面を蹴った。一直線ではない。壁を踏み、箱を蹴り、音を散らしながら角度を変えて迫る。アッシュの能力は触れた瞬間に終わる。ならば触れさせなければいい。その単純な原則を、神秘という現実の楔で強化する。刃が走る。横薙ぎ、逆手、投擲と見せかけたフェイント。アッシュは最小限の動きでそれを避けるが、今回は完全ではない。神秘を帯びた刃が外套の端を裂き、布越しに肉をかすめる。
「……!」
アッシュは言葉を失い、視線を落として自分の肩を見る。そこには確かに傷がある。深くはないが、灰にもならず、血の代わりに暗い染みが広がっている。
スロスは追撃せず、わざと距離を取る。近づきすぎれば再び触れられる危険がある。アッシュも同様に一歩下がり、周囲を見渡す。通行人が異変に気づき始め、遠くでざわめきが生まれる。
「邪魔だな。」
アッシュは低く呟き、指先を壁に当てる。触れた部分が一瞬で灰色に変わり、壁の一部が崩れ落ちる。その崩壊音に紛れて、スロスは死角へ移動する。アッシュは振り向くが、そこにはもういない。背後、上方、側面。スロスは位置を固定しない。刃が飛び、神秘が空気を震わせる。一本がアッシュの腿を掠め、動きがわずかに鈍る。
次の瞬間、アッシュは敢えて距離を詰める。触れられれば終わるという恐怖を逆手に取り、圧をかける。スロスは後退しつつ、ナイフを一本捨てるように投げる。アッシュは反射的にそれを灰に変えようと触れ、刃に通された神秘が逆流する。その一瞬の隙を逃さず、スロスの刃が腹部を浅く裂く。今度ははっきりと傷だ。灰化は起きず、身体が確かに「斬られた」反応を示す。アッシュは数歩下がり、呼吸を整えるように胸を押さえる。
それでも倒れない。動きは鈍るが、存在感は失われない。スロスも息を整え、残りのナイフの重さを腰で感じる。互いに決定打を欠いたまま、時間だけがじわじわと流れる。周囲のざわめきが大きくなり、誰かが悲鳴を上げる気配がする。
アッシュはちらりとその方向を見る。スロスは構えを崩さず、視線を逸らさない。昼の路地で、神秘と灰が交錯する駆け引きは、まだ終わりの形を見せていなかった。
陽光は等しく路面を照らし、店先の看板は風に揺れ、通りを行き交うイカタコ達は掲示板で交わされていた不安など知らない顔で歩いている。その表層をなぞるように、不正者狩りの4匹は散開しながら進んでいた。
足音は抑えられ、視線は低く、互いの距離は声を出さずとも合図が通る程度に保たれている。空気が違う。エルクスが最初にそれを感じ取る。雑踏の中に、微細だが確実な歪みが混じっている。神秘でも怪異でもない、もっと生々しい異物感だ。
「……ここだな。」
低く落とした声に、アマリリスが頷く。ミアは口を閉ざしたまま周囲を警戒し、キヨミは壁際に視線を走らせる。路地の入口に近づくにつれ、音が減る。人の声が薄れ、代わりに粉が擦れるような微かな気配が漂う。
「嫌な匂い。」
キヨミが小さく呟く。
「灰だ。」
アマリリスが即座に答える。路地の奥、光の届きにくい場所で、何かが確実に起きている。エルクスは手を上げ、進行を止める。
「慎重に行く。今回の相手はそう簡単に勝てる奴じゃない。」
四匹は足並みを揃え、曲がり角を一つ越える。視界が開けた瞬間、二つの影が激しく交錯しているのが目に入る。
一方は刃を操る個体、スロス。もう一方は灰色の気配を纏う異物、アッシュ。壁に刻まれた擦過痕、床に薄く積もる灰、空気に残る圧。刹那、刃が弾かれ、次の瞬間に灰色が走る。刃を持つ個体の前腕に触れた指先から、色が抜けるように灰化が進む。
「……っ。」
短い息音。だが叫びはない。躊躇もない。個体は即座に判断し、自らの前腕を一線で断つ。落ちた部位は音もなく崩れ、灰となって散る。驚愕が遅れて路地を満たす。
「……!」
アマリリスの顔が驚愕に染まる。
「自分で……切った……?」
キヨミが言葉を失う。
ミアは目を見開いたまま固まっている。
次の瞬間、失われた腕の断面から形が戻る。肉体が巻き戻るように再構築され、数拍のうちに完全な腕がそこにある。
「再生……?」
エルクスの喉が鳴る。目の前で起きた一連の流れが、彼の中で一つの結論へと収束する。神秘を帯びた刃の動き、触れただけで進行する灰化、それを即断で切断し、そして再生する異常な肉体。
「……チーターだ。」
今度は確信を伴った低い声だった。理解と同時に背筋を冷たいものが走る。狩る側だと思っていた存在が、狩られる側の論理を持っている。その事実が重くのしかかる。刃を持つ個体が振り返らずに言う。
「不正者狩りか。」
スロスが振り返らずに言う。声は荒れていないが、余裕もない。
「今はそいつを優先しろ。俺を狩るのは、その後でいい。」
アッシュがゆっくりとこちらを見る。虚ろな目が4匹を順に捉え、数を数えるように一拍置く。
「増えたな。」
その一言で、場の温度が一段下がる。不正者狩りは全員が理解した。この場にはチーターが二匹いる。狩るべき対象と、そして今、共闘を求める存在が。エルクスは一歩前に出る。
「話は後だ。」
短く告げ、視線をアッシュに固定する。路地の静けさが張り詰め、次の瞬間に何かが動き出す予感だけが、全員の神経を強く締め付けていた。
空気が張り詰めたまま、誰も最初の一歩を譲らなかった。路地は狭く、壁は高く、逃げ道は複数あるが同時に罠にもなり得る。アッシュはその中心に立ち、視線だけで距離と人数と動線を測っている。不正者狩りの4匹は半円状に散り、互いの背を預けない配置を自然に取る。スロスは一歩下がり、再生した腕の感覚を確かめるように指を鳴らす。スロスは低く短く言う。
「触れられたら終わりだ。神秘を切らすな。」
エルクスは頷き、合図を出す代わりに呼吸を一段落とした。
「持ってきてるな?」
アマリリスが答える。
「ああ。」
キヨミが影に溶けるように左右へ移動し、ミアは後方で視線を固定する。アマリリスは銃とナイフを構え、足元の粉塵の流れを読む。最初に動いたのはアッシュだった。地面を蹴る音は小さい。だが距離は一気に詰まる。エルクスが一歩踏み込み、神秘を含んだ弾丸が進路を塞ぐ。アッシュはそれを避けず、直前で体軸をずらし、掠めるように通過する。
「……遅い。」
淡々とした声が残像のように落ちる。キヨミの攻撃が側面から入り、アッシュの外套を切り裂く。布が裂け、灰色の粉が舞う。
「当たった…!」
キヨミの声に即座にアマリリスが追撃する。刃が交差し、神秘が重なって空気が軋む。アッシュは後退しながら腕を上げ、触れようとするが、スロスが割り込む。
「させるか。」
刃の角度を変え、手首を弾く。触れた瞬間、灰が走るが、神秘が膜となって侵食を遅らせる。スロスは即座に距離を切る。アッシュは一瞬だけ眉を動かす。
「防がれるのは初めてだな。」
声に感情はないが、観察の色が混じる。ミアが後方から動線を塞ぐように位置を変え、路地の出口を監視する。
「逃がさなねぇぞ。」
エルクスの短い宣言。アッシュは視線を向けるが、すぐに切り替え、地面を踏み鳴らす。粉塵が舞い、視界が揺れる。その隙にアッシュは壁を使い、跳ねるように移動する。
「上だ!」
アマリリスが叫ぶ。エルクスが即応し、上方へ神秘を振りまく。空中で接触が起き、アッシュの肩に浅い傷が入る。初めて、確かな手応えが伝わる。
「効いた……。」
アマリリスの声が震える。アッシュは着地し、肩口を見下ろす。灰化は起きないが、確かに傷は残っている。スロスが間合いを詰める。
「今だ。」
四方向から圧がかかる。だがアッシュは中央に踏み留まり、触れられる範囲と触れられない範囲を瞬時に切り分ける。一歩踏み出し、キヨミの攻撃をすり抜け、ミアの視線を外す。
「多いな…!」
その声と同時に、地面に触れた指先から灰が走る。路地の床が削れ、視界が歪む。
「地形まで……!」
エルクスが歯を食いしばる。アマリリスが間合いを保ちながら言う。
「削れる範囲からできるだけ離れよう。近づきすぎるな。」
アッシュは一瞬だけ動きを止め、不正者狩り全員を見渡す。アマリリスとエルクスの弾丸の神秘が、アッシュの灰と重なり合う音が路地に満ちる。
攻防は拮抗し、誰も倒れない。灰は防がれ、神秘は完全ではない。互いに決定打を欠いたまま、時間だけが削られていく。
均衡は一瞬で崩れた。アッシュは踏み込みの直前に視線を街路へ投げ、次の行動を決める。狭い路地に留まる理由はない。神秘が厚く重なるほど、触れる機会は減る。ならば人の流れへ溶け、接触の密度を武器に変えるだけだ。
アッシュは低く身を沈め、壁を蹴って路地の出口へ滑り出る。エルクスのライフルが即座に唸る。乾いた反動、弾道は正確だが、アッシュは歩幅を詰めるように斜めへ走り、弾線の縁を掠めるだけで通過する。キヨミの閃光弾が続き、路面に弾ける光が視界を割る。アッシュは肩を捻り、風の隙間へ身を差し込む。
「逃がすな!」
アマリリスの声。銃声が重なり、ナイフが投げられる。アッシュは触れる直前で軌道を変え、指先が壁に当たる。壁の表層が静かに崩れ、灰が細く落ちる。そのまま街路へ出る。昼の中心、交差点。
イカタコの流れが密だ。悲鳴はまだない。理解が追いつく前の数拍が最も危険で、最も都合がいい。アッシュは歩行者の波へ踏み込む。すれ違いざま、袖口に触れる。さらりと軽い音。一人が消え、痕跡は風に薄れる。
「な……!」
誰かの声が遅れて上がる。スロスが歯を食いしばる。
だがアッシュは止まらない。触れる距離、触れない距離を身体で刻み、最短で中心へ向かう。アマリリスが銃を下げ、角度を探る。
誤射は許されない。ミアがナイフを構え、人の動線を読み替えるが、躊躇が一拍遅らせる。エルクスはライフルを下げ、移動しながら狙点を切り替える。
「中心へ行かせるな。」
低い指示。キヨミが特殊弾を足元へ撃ち、衝撃で人の流れを裂く。アッシュは裂け目を踏み、指先を伸ばす。触れた先で存在が消え、流れが乱れる。混乱は遮蔽物になる。アッシュは振り返らない。ただ前へ。神秘を帯びた弾が肩口を掠め、布が裂ける。浅い傷。痛覚が遅れて届く。
歩速を上げる。アマリリスが前に出るが、距離は詰まらない。触れられない間合いを保つほど、逃走は成立する。エルクスの銃声が再び鳴る。人波の隙間を縫う弾。アッシュは一拍遅らせて方向を変え、弾道の外へ滑る。ミアが短く息を吸う。
「……追おう。」
スロスが低く告げる。
「止める前に、街が壊れる。」
アッシュは中心へ向かい続ける。触れ、消え、触れ、消え。音は最小、結果だけが残る。昼の街はざわめきを増し、中心へ近づくほど密度は上がる。
逃走ではない。
移動だ。
次の局面へ。