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ユカリは目が冴えている。溟海の剣の支配する海から逃れ、砂浜に身を横たえてもまだ体が揺れている気がした。星々の瞬きを知る者もいない深い夜、ユカリはため息をついて身を起こす。肩にかけたまま寝る癖のついた合切袋を起きた時に検める癖もついている。
焚火は燠に、風は声を潜め、波は淑やかだ。
ユカリとレモニカ、モディーハンナと僧侶たちは溟海の剣の魔力を恐れ、かといって船から離れすぎることもできず、砂浜で絶えることのない波の音を聞いて一晩を過ごしていた。
浅瀬に近づけない船は沖に停泊している。ネドマリアを探そうにも手がかりがない。どこにいるか分かったとしても足がいる。それは船かもしれないので、まだ敬虔で勇敢な水夫たちとの雇用関係は続いている。あの嵐を超えてなお船を降りる者はいなかった。
「ユカリさま。眠れないのですか?」と焚書官の姿のレモニカに呼びかけられる。
忍び歩こうとした矢先にユカリは振り返る。「ごめんね。起こしちゃった? レモニカが他の何かに変身するほど離れるつもりはなかったんだけど」
焚火の海側にユカリとレモニカ、僧侶たちは焚火を挟んで陸側に固まって眠っている。
「いいえ、わたくしもまだ目が覚めていました。それはそれとして最近はユカリさまの気配で目が覚めるようになりましたわ」
「何かそんな気はしてたけど。私そんなに騒々しいかな?」とユカリは照れ臭そうに目をそらして言う。
朝の身支度をもう少し静かにした方が良いかもしれない、とユカリは思った。
「というよりも騒々しさが収まるのですわね」とレモニカが言うとユカリは驚いて口を抑える。
「え?」ユカリにとっては思わぬ返事に戸惑う。寝ている時の方が騒々しい。つまりそういうことだ。 ユカリは恐る恐る尋ねる。「……そんなに?」
「そこそこですわ。夢の中で誰かと遊んでいらっしゃるようですわね」
言葉にもならず、悪夢の地平に響くような唸り声を漏らしながら、どこかに隠れたくなったユカリは両手で顔を覆う。
二人は夜気に当たりながら少し歩くことにした。二人の見張りの僧侶を除いて起きている者は他に誰もいない。
話しかけずとも語り掛けてくるような波の音を聞きながら、ユカリとレモニカは話す。
「ネドマリアさん、どこにいるんだろう。まだジンテラ市にいるってことはないよねえ」とユカリはため息を漏らすみたいに言った。
「ないとは言い切れませんが、救済機構には捕まっていないようですし、捕まっていれば今頃利用されていたでしょう。かといって今もジンテラのどこかで機を窺っているとも思えませんわね。ネドマリアさまはどこかせっかちといいますか……どうかなさいました?」
ユカリはさっきまで寝ていた砂浜の方を振り返ってみている。仄かに燠の明かりが見える気がする。
「ここでモディーハンナたちと別れようと思うんだけど、どうかな?」とユカリは声を潜めて言う。
「まずは理由をお聞かせ願えますか?」
「アルメノンがモディーハンナのことを『昨日今日知った人間』って言ってた。私たちがいつ知り合ったかなんて知るはずもないのに。意図は分からないけど繋がってるんだと思う。まあ、尼僧なんだから何も不思議ではないけど」
レモニカは否定せず頷く。
「なるほど。ですがアルメノンの言うことですわ。これまでの言動を聞くに、当てずっぽうで適当なことを言う人間だとも思います。果たしてそれだけでモディーハンナを疑うに足るでしょうか?」
「そう言われると、うん、そうかもしれない。少なくともモディーハンナは低地の人々を救うために行動したし、魔導書を持って逃げる私たちに協力してくれたんだもんね。私たちの信用を得るためだけ、にしては手が込んでる。アルメノンの一言だけで疑うのは間違いかも」
レモニカの鉄仮面が僅かな星の光を反射していることにユカリは気づく。そしてその眼差しが燠火の方へ向かっていることも。
「そんなことはありませんわ。疑ってしかるべきです」
「どっちなの!?」ユカリは小さな声で強く発する。
「ユカリさま。わたくしは初めからモディーハンナも僧侶たちも心から信用してなどいませんわ。特にモディーハンナは元人攫い。改心したと口で言うのは簡単ですもの」
それは冗談などではなく、レモニカの心からの言葉だった。
「意外と辛辣なことを言うね」
ユカリはそう言ってレモニカを恐ろし気に見つめる。鉄仮面は表情を隠している。
「信用は希少です。ですから価値がある宝石なのです。安売りしても買い叩いてもいけません。偽物だと思われるだけですわ」
「でも、じゃあやっぱり、ここでモディーハンナたちと別れる?」
レモニカは控えめに首を横に振る。「以前、ユカリさまも仰っていたことです。己が目的と立場を自覚すれば自ずと身の振り様が見えてくる、と」
そんな言い方をした覚えはないが大意は同じだ。ユカリは知った風に頷く。
「わたくしたちの目的はモディーハンナが信用に足る人物か判断することではありません。ベルニージュさま他、海に沈んだ人々を助けることですわよね?」
ユカリはうんうんと頷く。
レモニカは続ける。「であれば暫くは船が必要です。モディーハンナが信用に足る人物かどうかに関係なく。ユカリさま。世の中には信用ならぬ者の方が多いです。ああ、いえ、悲観主義ではなく、自分自身に関わりのある者というのが世の人々の極々一部に過ぎないという話ですわ。それでも否応なく付き合いというものがあります。むしろ人生において信用できぬ者との付き合いの方が多いのです」
「ええっと。うん。そうかもね? 言われてみれば」
やっぱりそれは悲観的、あるいは悲劇的だと思ったが、ユカリは素直に同意した。
「ですから信用できぬ者との関わり合い方をこそ、巧みにならねばならないのですわ」
ユカリは感心した気持ちで実母エイカの姿をしたレモニカを見下ろす。あのいい加減な母には言えそうにない台詞だ。
「レモニカが年上のお姉さんみたい」
レモニカが鋭い語調で答える。「初めから年上のお姉さんですわ。二つ上の十七歳です」
「あれ? いつ十七になったの?」
レモニカは唇を尖らせて首を傾げる。「春先ですわ! お祝いしてくださったではありませんか!?」
もちろんユカリは覚えている。一日中レモニカを元の姿で維持するために変身し続け、手を繋ぎつづけていた。しかし、それは……。
「あれはクオル討伐兼、魔導書取得……兼レモニカのお祝いだったね! うん、そうそう、そうだね!」
レモニカはユカリが聞いたことのない低い声で問う。「やり直していただけますでしょうか?」
「ええ? 楽しんだんでしょう? それなら良いんじゃない?」
「誰にも祝われていないのに一人浮かれていたということですよ!? こんなに惨めなことがありましょうか!? 言われてみればおめでとうと言われた覚えがありませんわ!」
「分かったよ。分かった。おめでとうレモニカ。お祝いはベルニージュと再会した時にね」
「不服そうなことが不服ですわ」
目の端で何かが動いたことに気づき、ユカリは沖に目を向ける。船が氷漬けになって、今まさに沈もうとしていた。突然の事態に寸時ユカリの思考が停止する。次に船もまたぴたりと止まる。辺りの海までが凍り付いたのだった。
ユカリはシャリューレを警戒し、大地の剣を抜き放った瞬間、刃が一人でに閃いた。背後に迫っていた剣を振り払う。シャリューレだった。
シャリューレの鋭い剣が翻り、再びユカリが防ぐ。今のはレモニカを狙っていた。
「後ろにいてレモニカ」
ユカリは両手でしっかりと短剣を握る。シャリューレの一撃はどれも重いが、腕を踏み砕かれる痛みには比べるべくもない。
「レモニカのことも分からないの? シャリューレさん。正気に戻って。自分の名前は思い出せないの?」
「名は思い出せないが私は正気だ。お前たちのことは前から殺そうと思っていたんだ」
騒ぎにモディーハンナたちが目覚め始めた。殺意に満ちたシャリューレの舞い踊るが如く繰り出される剣に恐れ戦いている。
「忌々しいことだ」とシャリューレが汗一つかかずに剣を振り回しながら言う。「私の類稀な才覚も膨大な血を流した努力も、たった一つの魔導書によって覆される。馬鹿々々しいと思わないか?」
「思わない。魔導書は道具でしょ? いくら体を鍛えたって鎧より堅くはなれない。だからって馬鹿々々しいとは思わない」
さらに何度か刃を重ね、シャリューレは距離を取ってため息をつく。「同じ力を持っていたなら地力が差を生むはずなんだがな」
力を振り絞るユカリを軽々と押しているはずだがシャリューレは不満らしい。
「魔導書に比べれば誤差なんでしょうね」とユカリは言ってから自分の挑発的な発言に気づく。先ほどの反論にそぐわない。
シャリューレは剣を収めるが、ユカリは構え続ける。一瞬の隙に三回殺されてもおかしくない相手だ。
「護女エーミとネドマリアはどこだ?」とシャリューレが尋ねる。
「知らない。知っててもアルメノンには教えない。どうせ聞いてるんでしょう?」とユカリはシャリューレの向こうを睨み据えるようにして言う。
「ばれてら」とシャリューレの口を通してアルメノンが言った。「勘が良いね。ユカリちゃん」
「似たような魔術を見たことがあるからね」とユカリは言う。
ユーアが使いこなしていた人形遣いの魔術。あれは自身の扱える体が増えるようなもので、ユカリには二つでも大変だった。神童ユーアは一つの村をまるごと再現していた。
あるいは魔法少女の憑依の魔法もよく似ている。こちらは本体が意識を失うが、人の形でなくても生き物であれば何でも支配下に置ける。
果たしてアルメノンのこの魔術の特性はどういうものなのだろう。名前で縛り、おそらく本体も動ける。操られているシャリューレ自身の意識はどうなっているのだろうか。
「何を隠そうこのシャリューレこそが護女エーミを逃がし、妹ちゃんに託したんだよ。しかし、その先は誰も知らない、と。困ったな。困っちゃうな。まったく、大切な人をなくしたってのに懲りないんだから、シャリューレは。結局巡り巡って自分に跳ね返ってくるんだ。振り子みたいにさ」
そうシャリューレが言った。
「何の話だ、アルメノン」と言ったのもシャリューレだ。同じ声でも響きがまるで違う。
シャリューレはほくそ笑み、周囲を見回し、内緒話でもするみたいに口を隠す。
「実はね。レモニカの変身の呪いはワタシがかけたんだ」そう言ってシャリューレは自分の胸に手を当てて笑う。「二つの意味でワタシってわけだ。こういう風にシャリューレを操って、生まれたばかりの赤ん坊を抱いたんだ。そう、直に母に手渡されたんだったな。そしてとっても強力な呪いをかけた。そうそう、とても焦ったよ。ワタシの目論見ではシャリューレの腕の中のレモニカが何かに変身するはずだった。でもそうならなかった。失敗したのだと思って代わりにレモニカを殺そうとしたが、念のために、母親に赤ん坊を返したんだ。そしたらレモニカは変身したってわけだ。何に変身したと思う?」
シャリューレの拳が涙の伝う己の頬を殴る直前で止まる。
「驚いた。全くもって君は卓絶した人間だね。君なら己自身を殴り殺せるかもしれないな。シャリューレ。シャリューレ。シャリューレ。この首輪はそう簡単に外せないぞ」
「アルメノン様ですか?」と背後からモディーハンナが声をかけた。
シャリューレは冷たい目でモディーハンナを見る。
「何だよ。裏切り者。今更阿っても許さないぞ」
「考え直す気はありませんか? もう私の頭脳には価値がありませんか?」とモディーハンナはシャリューレの向こうのアルメノンに問いかける。
「君が嫌がったんだろ。暴力的なのは嫌だあって」
「それは今も概ね変わりませんが、多少考えを修正しました。取引をしてくださるのなら、それが大いなる目的のための手段である限り、多少の犠牲にも目を瞑りましょう」とモディーハンナは無表情で言う。
「へえ、何が君を変えたの?」とアルメノンは言葉を和らげて尋ねる。
「そこの、レモニカと出会って」とモディーハンナは言った。
「何ですって!?」レモニカは思わず非難めく。「わたくしが救済機構の暴力を肯定するようなことを何か致しましたか?」
レモニカの怒れる問い掛けに答える者はいなかった。
「ふん!」とシャリューレを通してアルメノンが鼻を鳴らす。「一度失った信用は簡単には取り戻せないんだぞ、モディーハンナ」
「ええ、そうですね。まあ、別に信用していただかなくても構いません。お互いがお互いを利用する。それで良いではありませんか」と、どこかで聞いたようなことをモディーハンナは言った。「猊下は頭脳が欲しい、私は人手が欲しい。そうですね。お詫びにネドマリアの居場所は手土産にはなりませんか?」
シャリューレは嬉しそうに飛び上がり、モディーハンナと面と向かう。
「なるよ。なるなる。どこにいるの? というか出来ればエーミの方が知りたいんだけど」
「護女の方は知りませんがネドマリアの今の居場所は知っています。少なくとも私が目撃した際にネドマリアと一緒にいた者は誰もいませんでした。手をこまねいている内に遠くに去ってしまうのではありませんか?」
アルメノンは二つ返事で決断する。「よし。分かった。君を許そう、モディーハンナ。不問だ不問。さあ、ネドマリアのもとに行くよ」
シャリューレがモディーハンナを担ぎ上げ、他の者たちを全て捨て置いて船の方へ、凍り付いた海面の上をとんでもない速さで走り去る。
「レモニカ! グリュエー!」
風の力で飛び上がってユカリとレモニカはシャリューレを追う。しかし海は瞬く間に解け、船は帆を張らずに飛ぶように進んでいく。海には舗装路のような妙に真っ直ぐな海流が生まれている。溟海の剣の力だ。
しばらく飛んで、モディーハンナがネドマリアの居場所を知っている事実と合わせてユカリは気づく。
「この方向は、ウィルカミドだ!」とユカリは断言する。「あの街にネドマリアさんがいたんだ!」