結局、争いの種は全て立ち去って、通りに残されたのはユカリとベルニージュと銀の鎧だった。さっきまで抱いていたざわついた気持ちも、争いと手を取ってどこかへ去ってしまった。
「ええっと、何といいますか」ユカリは埃っぽい空中に何か気の利いた言葉は書いていないかと探す。「大変、でしたね」
銀の鎧は見るからに大層立派で高価な代物だ。ただ磨き上げられた美しさというわけではない。アルダニの鍛造品に見られる特有の波模様を地にして、歴史に名高い戦争や戦士たち、聖者たちの生き生きとした姿が彫られ、各部を繋ぎ止める鋲にまで細かな花の彫刻があった。
その姿だけ見ても相当にやんごとない人物であることがユカリにも察せられる。そうでなくとも相当のお大尽には違いないだろう。いくつか傷はあるがまだ新しく、戦いの経験の少ない若い人物であることも示している。
「僕は大したことしてないよ。君の方は立派だったね。刃傷沙汰を避けたかったんだろう? とはいえ、焚書官が延々と転び続ける様は笑いを堪えるのが大変だったよ」そう言って面甲の向こうの瞳がユカリとベルニージュを往復する。「僕は羽ばたき。怪物退治にやってきた、この街ではさして珍しくもない命知らずの一人だ」
ユカリは丁寧に名乗り、ベルニージュはぶっきらぼうに名乗る。
「この辺りに怪物がいるんですか?」とユカリは興味を惹かれて尋ねる。
「おや、知らないでこの街、ドミルア市に来たのかい? 魔女の牢獄の怪物を」
聞き覚えのある言葉だ。ユカリは何とか記憶の澱をかき集める。平和の使者の行方を調べていた時に聞いた言葉だ。
ユカリは自信なさげに尋ねる。「魔女の牢獄っていうと、ここら辺の古い地名でしたっけ?」
「確かに、この街自体も時にはそのように呼びならわされているようだね。けどより正確に言うと、あの岩塊がそうなんだ」サクリフは街の向こうに広がる森の真ん中に座する巨大な岩を指さした。「あの岩の塊が魔女の牢獄と呼ばれている。そしてあの中に怪物がいるというわけさ。ところでそれでは君たちは何のためにこんな街へ? 若い娘さんに面白いものはそう多くないと思うが」
あなたこそかなり若そうな声だけど、と思いつつユカリは質問に答える。「私たち、平和の使者を追いかけてここに来たんです。その、ちょっとお話を聞きたくて」
「ああ、新興の宗教団体の? というと入信希望?」
「まあ、そのようなものです」
「そうか。だけど一足遅かったね。平和の使者と名乗っており、同名団体の教祖でもある神の喜び氏は数日前に数人の弟子を引き連れて魔女の牢獄の中へと入ったきりだ。一人として戻ってきてはいない」
ユカリは生唾を呑みこみ、街の向こうの森の向こうの岩塊『魔女の牢獄』を怖ろしい気持ちで見つめる。
「怪物にやられてしまった、ということですか?」
「おそらくね」サクリフは悲しそうに兜を振る。
ユカリとベルニージュは目を合わせ、やるべきことを確認し合った。
「その、魔女の牢獄について詳しく教えてもらえませんか?」とユカリが請う。
「ああ、それは構わないよ。頼み事なら大歓迎だ」
溌剌とした声音でサクリフは答える。面甲の向こうで満面の笑みを浮かべていそうな、そんな声だ。
特に腹は減っていなかったが、サクリフの案内でこの街で最も大きな酒場へと向かう。
この街の支配者が誠実な権力者や敬虔な聖職者であれば、そこはいかにも暗々裏に運営されるべきであろう酒場だ。濃い酒気は店外にまで漂い、色づく秋風まで酩酊させる。
昼時にも関わらず店内は薄暗く、お互いの顔が分かりにくい。堂々と賭場が開かれ、全うな商人には知られぬ硬貨が行き交う。隅の方では怪しげな薬が臆面もなく売買され、気味の悪い笑い声が聞こえてくる。
蹲っている者。座り込んでいる者。踊っている者。
屈強なセンデラ。陰気な湿地の民。肌を晒さぬ樹林列島人。
漂う煙は煙草のものだけではない。酒と吐瀉物ときつい香水の臭いでユカリは鼻がもげそうだった。街に入る前にかけたまじないはきちんと働いているのだろうか、と辟易する。
客は誰もが、とはいえサクリフほどではないが、武装を固めている。分厚い甲冑や目の細かい鎖帷子。大鍋のような盾に各々自慢の剣や斧、槍や鎚を装っている。彼らはサクリフ同様に怪物退治に来た者たちだ。そしてやくざ者と思しき男や裸に近い給仕女は、彼ら英雄の財布の中身を吐き出させようと狙っている。
ユカリはとば口で店の雰囲気に気圧されて躊躇ったが、ベルニージュが気にせず入っていくのでおっかなびっくり後に続いた。
「臆せば負けだよ、ユカリ」
「負けでいいですよ。うう、酷い臭い」
時に強く輝き放つユカリの勇気は雨に濡れた鼠のように縮こまっており、ベルニージュの背中に身を隠しつつ、サクリフの後をついていく。
「そうそう、言っておくけれど」とサクリフが背中を向けたまま言う。「この街にはこういう店しかないんだ。決してご婦人方を如何わしい店に招きたかったわけではないからね。裏を返せば街自体が如何わしいんだ、あはは」
「入る前に言うべきことですよ」とユカリは愚痴る。
「それもそうだ」と言ってまた笑う。
賭場の方でも酒は飲まれているが、酒場の方では食事をしている者も多い。背の高い机はいかにも頑丈そうで、しかし壊されて補修した跡がある。その理由は明白だ。喧嘩に発展しそうな言い合いをしている者が今も何組かいる。
「立って食べるんですか?」ユカリは辺りを見渡しながら呟く。「立ち飲みはともかく、立ち食いなんて初めて見ました」
物語の中にもそのような作法を聞いたことはなかった。
「僕もそうだけど、こういう格好の人間が少なくないからじゃないかな」
そう言うとサクリフは、銀の鎧で堅く身を包む自身とは対照的な目のやり場に困る格好の給仕女に注文する。ユカリとベルニージュも飲み物を注文した。
全身鎧の人間は他にいないけど、とユカリは心の中で呟く。
机の一つにつき、サクリフとユカリ、ベルニージュは向かい合う。
「ここにいる力自慢や武芸者は皆、魔女の牢獄へ挑む者たちだろうね」サクリフが薄暗い店の中をざっと見て、ユカリもそれにつられる。「僕もそうだ、いや、僕こそがそうだ。物語の英雄たちのごとく怪物を見事討ち取ってみせよう。鳥撃ち暁星。牙狩りの心優しき人。そしてかの大英雄、鱗剥ぎ貴き恵みのように!」
「フェイデリア! 私も好きですフェイデリア!」ユカリは身を乗り出す。
ユカリが目を輝かせて英雄の勲しを語ると、サクリフは皮肉っぽい笑い声とともに怪物の恐ろしさを語った。ユカリが眉間に皴を寄せて怪物の卑劣さを語ると、サクリフは得意そうに英雄の高潔さを語った。そしてベルニージュはあくびをしながら、林檎酒が届くのを待つ。
「分かるかい?」
「分かります!」
ベルニージュが言葉を挟む。「それで魔女の牢獄は? ワタシたち、それを聞きたかったんだったと思うけど」
ユカリははっとした面持ちでベルニージュの顔を窺う。ただ壁の染みを眺めている人間のような表情を浮かべている。サクリフもそれに気づいたようで、落ち着きを取り戻す。
「ああ、うん、魔女の牢獄だね」サクリフは机の上で籠手に包まれた手を組む。「まず初めは、この土地に残る、ある伝説からだ。それによるとあの岩塊、魔女の牢獄の中で古代の魔女の愛玩怪物が飼われているという話だ」
「愛玩怪物?」ユカリは聞いたこともない単語に首をひねる。「つまり愛玩動物のような怪物ですか? 怪物って愛玩できるものなんですか?」
「さあね。あくまで伝説だよ。実際は単に怪物を閉じ込めただけかもしれないが、とにかくそのように伝わってるんだ。そしてその怪物の餌としてある街が用意された」
「怪物の餌として街を? この街を、ですか?」ユカリは同意を促す。
「いいや、違う」サクリフは忌々し気に、そして恐ろし気に語る。「その街もまた魔女の牢獄、あの岩塊の中にある。さながら怪物のための餌皿というわけさ」
酷い話だ。酷い話過ぎて、ユカリにはとても本当のことのように思えなかった。
「そんなのおかしいじゃないですか。何で街の人たちは牢獄から逃げ出さないんですか?」
「それは……もちろん、僕らは想像する他ない。怪物が立ちはだかっているのかもしれないし、出口が分からないのかもしれない。何と言っても怪物退治の栄誉に浴そうと魔女の牢獄に挑んだ者は数多いが、誰一人戻ってきた者はいないんだ」
「牢獄っていうくらいだからね。逃げられない理由があるんでしょ」とベルニージュが刺々しく口を挟む。「結局のところ、どこまで分かっているの? どんな怪物がいて、どんな街があるの?」
サクリフは気にする様子もなく首を振る。
「いいや、ほとんど何も。怪物はいるが、その姿は分かっていない。街についても、分かっていることといえば金銀財宝が眠っていることくらいさ」
ベルニージュは眉根を寄せて、賭場の方に視線を向ける。
「その財宝に目の眩んだ愚か者たちが魔女の牢獄に集まってきて、その愚か者たちから巻き上げてこの街は維持されているみたいだね」
皮肉を気にせずサクリフは肯ずる。「そういうことだね。魔女の牢獄で死ぬか、財宝を持って生きて帰るか、だからさ。失うものがないわけだ」
この話にはどこか違和感が拭えない。しかしユカリは一旦忘れることにして、話の矛先を変える。
「魔女、って今までに何度か聞いたことがありますし、英雄物語にもよく出てきますけど。どういうものなんですか?」
「別にどういうものでもないよ」ベルニージュは運ばれてきた水割り林檎酒を飲む。「文脈次第だけど、ほとんどの場合は強い女魔法使いに対する蔑称だね。尊称、美称の時もたまにある」
馨しい肉汁滴る子羊の焙り肉が運ばれてくる。いよいよサクリフの顔が見れる、とユカリはさりげなく覗き込む。サクリフは面甲を触ると、少しだけ浮かせ、隙間から肉を放り込んでいく。面甲は顔を左右から覆うようになっているらしく、その顔を見ることは出来なかった。
「それはそうだが、このアルダニで魔女といえば誰もが思い浮かべるのはただ一人なんだ」サクリフは肉を呑みこむとそう言った。「夜闇に潜む乙女の末裔だとされる古代の魔女粛然たる宵。彼女の伝説はこのアルダニにたくさん残っているし、その痕跡とされるものは魔女の爪痕と呼ばれている。魔女の牢獄もその一つに過ぎないというわけだ」
「そうだ、隕石。隕石もその一つですよね!」ユカリは急に思い出してまくし立てる。「確か生命の喜び会のキーツさんに聞いたんです。かつてリトルバルム王国を滅ぼした隕石は魔女が落としたのだ、っていう伝承があるそうです」
「うん、それもシーベラの伝承の一つだね」サクリフが頷く。「他にも疫病や蝗害、大飢饉を起こしたとか」
「それはとんでもない悪党がいたものですね」ユカリは肉を食うサクリフの面甲にある二つの穴に目を向ける。「きっと名高い英雄に討たれたんでしょう?」
「そうあって欲しかったものだ」サクリフは小さなため息をつく。「シーベラの物語を知った時は僕もそのように考えた。だが、シーベラはただ消えただけなんだ。誰に討たれたわけでも殺されたわけでもなく、ただ語られなくなった。だけど、それならば、と僕の心は俄然燃えたね。僕こそがシーベラの物語に終止符を打つ英雄になるというわけさ」
サクリフは熱っぽく語るが、ユカリにもベルニージュにも届いていなかった。
「でもサクリフさん。現実に、魔女の牢獄に挑んだ者は誰一人として戻って来ないんですよね? 私は魔女の牢獄に挑むのをよして欲しい気持ちになりました」
サクリフはユカリの不安に彩られた瞳を見て、首を振る。「気持ちはありがたいが、もう決めたことなんだ。僕は英雄になる。そのために魔女の牢獄の怪物を討つ」
「ずるいよね、ユカリは」とベルニージュが呟く。
唐突に矛先を向けられてユカリはぎょっとする。
「な、何でですか? 突然。何もずるいことなんて」
「自分は魔女の牢獄に挑むのにさ。サクリフを止める資格なんてないんじゃない?」
「だってそれは、あれがあれなので、仕方ないというか。平和の使者の、えっと」
「メイゲル氏だね」とサクリフが助け船を出す。
「そうです。メイゲル氏にお話を聞きたいので」たどたどしくユカリは話す。
「ええ? でも死んでるなら話は聞けないし、生きてるなら戻って来るのを待てばいいよね」とベルニージュは言った。
「そ、そうですけど。ってさっきから何でそんな意地悪を言うんですか? 二人で決めたことじゃないですか」
「別に? ひとのこと言えないよねって思ったからそう言っただけだよ」
「それは、そうですけど」
「まあ、待ちなよ」とサクリフは口を挟む。「喧嘩をするならどちらが悪いか決めてからにしてくれ、なんてね、あはは」
どちらが悪いか分からないから喧嘩になるのだろう、とサクリフに言いたかったがベルニージュに対してはそんなこと言いたくなかった。
その時、店の空気が変わる。ユカリもベルニージュもサクリフもそれに気づき、客や店員、どちらでもない者たちの視線を追うと、入り口にあの角の燃え盛る犀の仮面の焚書官が立って、酒場と賭場をじっくりと眺めている。
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