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ユカリは身構えるが、その手の上にベルニージュの細くて柔らかい手が重なり、緊張を抑えることができた。
「ご安心なされよ」犀の仮面の焚書官の朗々と響き渡る声がざわつく店を黙らせる。「説教しにきたわけでもなければ、ましてや焚書しに来たわけでもない。少し君たちに、その中には当然魔女の牢獄挑む者もいると思うのだが、話を聞きに来たのだ」
そこへ店主らしき恰幅の良い男が調理台の向こうで呼びかける。
「坊様よ。別に会話でも聞き取りでも何でもすればいいがね、冷やかしは困るよ、冷やかしは。何か注文してもらわなきゃあ、そんな大所帯で店に入って来られちゃあ商売あがったりってもんだ」
犀の仮面の角を向けて、焚書官はじっくりと店主を眺めた。何かを見極めるように。
「うむ。もっともだ。では君たち」そう言って、後ろに控える焚書官たちの方に目を向ける。「好きに注文しつつ彼らに話を聞き給え」
その言葉に呼応して焚書官はわらわらと店に散らばり、各々で酒を注文し、賭け事を始めながら客や店員と話を始めた。聖職者にあるまじき光景だったが、どこか馴染んでいる。
犀の仮面の焚書官は真っ直ぐにユカリたちの元へやってくる。その巨躯の焚書官は愛想笑いを浮かべる給仕女に葡萄酒を頼むと、腰に手を当てて分厚い胸板を張り、ユカリたちを見下ろす。
「先程は迷惑をかけたね。私は思慮の人。救済機構は焚書機関、第三局の首席焚書官だ」
「首席?」ユカリは言葉に出してしまう。
「そう、首席に会うのは初めてかね? まあ、確かに多くはない」とグラタードは相槌を打つ。
ユカリは否むように首を振る。「そうじゃなくて、むしろ逆で、首席が複数いることに驚きました。首席は、普通、第一位って意味ですから」
「なるほど。他の首席を知っているのだね。その疑問はもっともだ」グラタードはうんうんと大きく頷く。「あまり一般には知られていないが、実のところ焚書機関には複数の部署があるのだよ。第一局から第五局まで役割別に編成されているのだ。そしてそれぞれの局長を首席たる焚書官が兼ねるというわけだ」
「そういうものだったのですか。知りませんでした」ユカリは素直に関心を示し、薄い林檎酒の入った杯をそぞろに回す。「そしてグラタードさんは第三局の首席焚書官というわけですね」
山羊の仮面の首席焚書官チェスタは第何局だっただろうか、とユカリは思い返すが、聞いていなかったはずだ、と思い直す。
「その通り。ところで君たちの名を聞いても良いかね?」
お互いを牽制しあうような微妙な空気が醸される。少しの沈黙ののち、サクリフが答える。
「僕はサクリフ。お互い、さっきの紳士的とは言えない出来事は水に流すってことで良いのかな?」
グラタードは仰け反るようにして大きく笑う。
「ああ、もちろんだ。げに懐深き御仁よ。そもそも我らに非があったと考えている。その寛大さに感謝しよう」
そう言って二人はがっしりと握手し合った。中々気があうようだ。
「ワタシはベルニージュ。ワタシも許してもらえますかね。呪いをかけたこと、もう解けてるでしょうけど」
グラタードはやはり大げさに笑う。
「抜刀できなくなる呪いだな。いや、実に見事だった」グラタードは心底感心している様子だ。「呪文だけであの精度は上位の焚書官でも中々いまい。シグニカでよく使われる韻律だったが、言葉はアルダニの上流古語だったか。閉塞と平和を意味する言葉の変遷を辿り、五重になった贖いの掛詞で結んでいたようだな。複雑かつ繊細、呪いを防いでなお呪われたような気持ちだよ」
「それだけじゃないけどね」と言ってベルニージュはグラタードの解説をやんわり否定した。
「私はユカリです。どうぞよろしくグラタードさん」と言って手を差し出すが、グラタードは犀の仮面の向こうからじっとユカリを見つめるだけだった。
「ユカリ? その名は……」というグラタードの呟きでとんでもない間違いをしてしまったことにユカリは気づく。
ベルニージュも愚か者を見る目でユカリを見ていた。呆れかえっている。まさかそのような間違いをうっかりしてしまうとは思っていなかった、という顔をしている。
偶像冒涜者にして魔導書の堕落者、救済機構の認定する最たる教敵、魔法少女ユカリの名を名乗るという致命的な間違いを犯してしまった。
冷や汗が流れる。顔に出てはいないかと心臓が高鳴る。いつでも変身できるように口角をひくつかせる。
「えっと、違うんです。ユカリっていうのは、その」と言い淀み、ユカリはまごつく。
「魔法少女ユカリと名乗る者を知っているね?」とグラタードは静かに言い聞かせるように言った。
「は、はい。名前は聞いたことあります。でも、それは、その」
ベルニージュがユカリの肩を小突く。
「だからもっと適当な名前にしとけばいいのにって言ったんだよ。よりによって救済機構の人間に、虚ろ名とはいえ、ユカリだなんて名乗るから誤解を生むんだよ」
空気が張り詰め、その場の四人の視線が緊張感を孕んで交差する。一拍の沈黙を開けてグラタードが口を開いた。
「ああ、虚ろ名か」グラタードは納得していたが、その理由はユカリには分からなかった。「しかし彼女、ベルニージュの言う通りだといえる。虚ろ名にしてもいらぬ誤解を生む。使用を避けた方が良い名前というのはあるものだ。魔法少女ユカリとやらはまだ幼い子供だと聞くから、背の高い君とは似ても似つかないがね。しかしあまり懸命とはいえない」
「すみません。軽率でした」ユカリは心から反省する。「本名はあれなので、虚ろ、虚ろ名を名乗ったんです。虚ろ名なら、良いかなって」
ベルニージュの視線が、下手に喋るな、と言っていたのでユカリはそこで黙った。あとで虚ろ名について詳しく聞かなくてはならない。
「とりあえず、反省は後でするとして。それでどうするの?」とベルニージュがユカリに囁く。「こういうのは悪人の名前以外だと、古い名前や珍しくない名前を名乗るのが定番だよ」
ユカリは少し悩む。下手な名前にすればまた誰かに迷惑をかけてしまう。
「それじゃあ、エイカにします」
産みの母の名だ。さして珍しくもない。
「では、エイカ。ベルニージュ。そしてサクリフ」とグラタードは言った。「君たちにも是非聞きたいことがある。というのは魔女の牢獄に潜むという怪物についてだ」
結局のところ、彼ら焚書官もこの酒場に溢れかえっている荒くれ者と変わりないようだ。
ユカリは理解を示すように頷く。「そういえば、通りで会った時も魔女の牢獄について話してましたね。やはり怪物退治ですか」
「いや、それは調査次第だ。まず街で情報を集め、その後、侵入して調査する。我々にも手に負えぬ強大な怪物であるならば一度引いて準備を整えるが、可能ならばそのまま退治しよう」
他に誰も相槌を打たないのでユカリが相手をする。
「焚書官って魔導書を探す組織ですよね? ということは、その魔女の牢獄の怪物は魔導書と関係あるんですか?」
「うむ。それも含めての調査だ。仮に魔導書に関わりがなくとも信徒の安全のために、救済機構の僧兵が怪物、悪党を退治することはままあるものだがね」
救済機構も良いことするんだ、とユカリは感心したが、おくびにも出さなかった。
「僕たちが知っていることは多くない」いつの間にか食事を終えたサクリフは言う。「いや、そもそも魔女の牢獄について知っていることなんて皆同じようなものだろうさ。分かってれば苦労しないってね」
「確かに、ここまでの調査ではほとんど成果を得られなかった」とグラタードは萎んだ声で同意する。そしてサクリフの輝かしい鎧を子細に眺める。「どうやら君も、魔女の牢獄の怪物退治を志す者の一人のようだ」
「いいや、違うね。大いに違う」サクリフは頑なに首を振る。「僕は英雄を志す者だ。悪党を蹴散らし、怪物を退治し、唯一つの歴史に名を残す者さ」
グラタードは深い地の底であくびする猛獣のように笑う。「素晴らしい意気だ。感動したよ。若者はそうでなくてはな。君が良ければ我々に、いや、違うな。我々が、同行しよう。栄誉は君のものだ。我々が欲しいのはただただか弱き人々のささやかな平穏、変わらぬ営みに他ならない。共に怪物に立ち向かおうじゃないか、未来の英雄殿よ」
サクリフは何も言わずに、両手でグラタードに握手を求めると、グラタードはそれに応えた。
ベルニージュがあくびを噛み殺していることにユカリだけ気づいていた。