テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
佐藤俊雄はいつものように、午後の早い時間から資料整理に没頭していた。捜査一課のデスクには、未解決の事件ファイルが山のように積み重なり、彼のペンは休む間もなく走っている。窓の外では横浜の夏の陽射しが白く輝いていたが、室内の空気はすでに、夜の涼やかさを思わせる冷気を含んでいた。
「ヒナ、最新の証言録取しといてくれ。僕は被害者の関係図をまとめ直すよ」
後輩の九条ヒナが頷き、キーボードを叩く音だけが静寂を破る。飛び込んできた通知は、遊園地での銃撃事件発生の一報だった。被害者はひかりパーク運営部長の高坂陽一、命に別条はないものの、足をかすめた弾痕で意識を失ったという。
「現場、向かおう」
さほど遠くないとはいえ、現場は遊園地の外れにある旧式の管理棟だ。高速道路をくぐり抜け、商業施設の灯りが途絶えた先に、ネオンの消えかけた門扉があった。パトランプの赤がぽつり、ぽつりと光を放ちながら回り、警官がロープを張って立哨している。
未明のスケジュール帳をふと思い返す。高坂陽一。三十年近いキャリアを誇る大ベテランだが、部下からは「厳しいが面倒見がいい上司」と評判だった。だがその裏側には、彼にしか甘えられない者とのしこりも生んでいたはずだ。
ふたりはロープをくぐり抜け、メリーゴーラウンドの足元へ向かった。白と赤のパレットがくるくる回る光景は、夕暮れの中でひと際不気味さを帯びている。遊具の下には大きく円を描くコーンテープが張られ、その内側に倒れ込むように高坂が横たわっていた。
制服を脱ぎ捜査ジャケットに着替えた佐藤がしゃがみ込む。ヒナが脈を確認しながら、声を掛ける。
「陽一部長、意識ありますか?」
高坂は苦しげにまぶたを開き、絞り出すように答えた。
「なぜ…俺を…狙った」
震える声には、怒りだけでなく、深い悲しみが滲んでいた。
その視線が、地面に散らばる白い粉へと留まる。
「チーズ…?」
ヒナもまた視線を落とし、ちらりと包装紙の残骸を見つける。青と黄色のポップな柄に「チーズ風味」の文字。遊園地内唯一の屋台で期間限定販売されたチョコバナナだ。
「限定、だったな…」
佐藤はそっと粉を掌に載せた。甘い香りの奥に、わずかな塩味を感じた。意図的に撒かれたとすれば、その動機は何か。
高坂の足元にはもう一つ、異物が隠れていた。配線に沿って目を凝らすと、金属製の小型ユニットが半ば見えかくれしている。熱検知センサー。彼が座った馬の座面裏に、さりげなく仕込まれていた。内部ログを呼び出すと、「36.7℃で作動」という記録が浮かび上がった。人の体温に限りなく近いその数値。誰が、何のために──。
周囲には園内スタッフが大勢控えているが、警護のバリケードも役に立っていない。三脚に載せられた捜査用ライトが、夕暮れの影を不気味に揺らしていた。
「ここに接近できるのは、正規の権限を持つ者だけだ。整備班、施設管理室、屋台担当の三者にしか許可がなかったはずだ」
頭の中に浮かぶのは三人の顔。
佐久間泰彦。三十代半ばの整備員。かつて大手テーマパーク設計会社で働いていたが、ある事故の責任を問われ、こちらに引き取られて以来、つねに肩身の狭さを抱えている。温厚な一方で、被害者に未払い賃金を訴えた日以来、顔を合わせるたびに険悪な空気が漂う。
山下由美。屋台の女性店主。元ホテルのパティシエールで、娘と開発したレシピを「チーズ味チョコバナナ」として出していた。だが販売初日に被害者が「バカ舌に合わせたビミョーな味」と軽く嘲笑した一言が、ネットで拡散。屋台は一時閑古鳥が鳴き、彼女は家庭崩壊の危機に直面している。
高山修司。施設係長。昭和の現場感覚を今に伝える職人肌の男。被害者が忘年会で流した動画で「老害の典型」とネットに晒され、自尊心をえぐられた経緯がある。
三者にはいずれも動機があり、現場に立ち入る権限があった。だが証拠はまだ散乱した粉と、センサーの点検ログだけ。工具箱から出る音、屋台付近の微かな食べかす、高山の機器端末の操作履歴──すべてをつなぎ合わせなければ真実は見えない。
佐藤は立ち上がり、コーンテープの外で見守るスタッフに声を掛ける。
「君たちのうち、三人だけこちらへ」
まずは整備員の佐久間を指名し、その場で工具箱を開けさせる。旧式のイタリア製トルクレンチが顔を出すと、佐藤はひそりとつぶやいた。
「この規格は、現場で廃止されたはずだが…」
次いで屋台の山下由美にも同じ場所で証言を求める。砂埃を払いつつも、彼女のエプロンからは微かにチーズの香りが立ち上る。最後に施設係長の高山修司を呼び寄せ、真っ直ぐに見据えた。彼の胸元には、制御端末から抜かれたメモリカードの一部が握られている。
三人が並ぶ光景を、佐藤は遠巻きに見つめる。夕陽の朱が車のガラスを赤く染め、射し込む縞模様は、まるで運命の縄のようだ。真実を明かす鍵は、このあとに交わされる短い会話──ほんのわずかな齟齬に、隠された真意が露わになるはずだ。
深く息を吐く。
「これから話を聞く。嘘は見逃さない──」
メリーゴーラウンドの金色のポールは、やがて闇夜の中でただの装飾に戻る。しかし、その裏で回り続けた因縁と憎悪は、この場でいま一度静止しようとしていた。
第2話へつづく