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小窓が雨粒に叩かれ、パスパスと音色を奏でる。日が沈んだ頃合いからイダンリネア王国の天候が変わり、今はすっかり雨模様だ。
満腹感に満たされながら、ウイルは自室のベッドに寝転がる。
自重がふわっと受け止められる感覚。それがどこまでも心地よく、高級品は伊達ではないと、体中の細胞が喜び震える。
金額は五十万イール。貴族にふさわしい寝具だ。
イールとは、この大陸で使われている通貨を指す。
平均的な世帯の収入が、月二十万から三十万イールと言われている。五十万イールのベッドがいかに高級か、そして貴族がいかに裕福か、家具一つで説明出来てしまう。
もっとも、こんな生活は今だけだ。旅立つことを決めたのだから、ここにはいられない。
とは言え、今はまだ、この部屋が彼の居場所だ。
寝そべりながら天井を見上げる。見慣れた木目は、何年も見続けたそれだ。後何日見ていられるのか、そう考えると少しだけ落ち着かない。
(ハクアさんはどこにいるんだろう?)
目を閉じ、考える。
目下、調べなければならないことはまさしくこれだ。
白紙大典の知り合いであり、何十年、もしくは何百年と生き続けている魔女。
そもそも魔女は魔物のはずだ。少なくとも、両親や学校ではそう教わった。
しかし、本の中の彼女は違うと笑い飛ばした。
どちらが真実なのか、今は未だ知る由もなく、されど手がかりはその魔女が握っている可能性があり、ぐずぐずと疑っている場合ではない。
(もう一度、お話出来ないかなぁ……)
横になったまま、天井へ右腕を突き出す。
途端、真っ白の本がボンとそこに出現する。白紙大典はウイルの意思で出し入れ可能であり、持ち運ぶ必要はない。また、魔法とは異なり、この行為に魔源の消耗は伴わず、そういう意味でもありがたい。
上半身を起こし、眼前の本をパラパラとめくる。当然のように中も白紙だが、意味もなく、今はその行為を続ける。
(何から手を付けよう……)
やるべきことは明白だ。それらに対し、順位付けも済んでいるのだが、重い腰を上げられない。
億劫というわけではなく、どう切り出せばよいのか、決めかねている。
(父様になんて言えばいいのかな。白紙大典を見せて、魔女について伝えればスムーズにいきそうだけど……、う~ん)
この家を飛び出し、旅に出る。それを両親に伝えることが、目下少年のやるべきことだ。
シンプルかつ今すぐにでもやれることなのだが、内容が重大過ぎるため、ついつい慎重になってしまう。
夕食の時間がチャンスだったものの、空気が重かったこととメイドが二人いたため、とてもではないが言えなかった。
そして、自室に戻り今に至る。寝るにはまだ早い時間ゆえ、こうやってゴロゴロしているが、面倒ごとを後回しにしているという自覚もあり、心はどうしても落ち着かない。
とは言え、今日という一日が少年を疲弊させたことも事実であり、このままベッドに寝転がれば、寝息をたてることは造作もない。
(自分では壊せない壁だったんだ……。白紙大典……、感謝しかない……。今度は僕が勇気を出す時だ)
わかってはいる。
学校を辞めて旅立つ。両親にそう伝えた結果、叱られる可能性の方が高いことを。
(当たって、砕けるしか、ないか)
少年は気合を入れ、ベッドから飛び降りる。状況が状況ゆえ、明日に先延ばすことだけは避けたい。
母に残された時間は、たったの三か月。
ハクアと名乗る魔女の居場所を突き止め、そこまで出向く。一介の子供には不可能だ。
白紙大典が手掛かりになれば、と淡い期待を抱くも、甘い考え方だと自分で自分を笑う。
それでよい。理由はどうあれ、落ち込んでいるよりは幾分健全だ。
気合を入れなおす。
(いざ)
父を目指し、歩き始める。
その瞬間だった。
(玄関の方が騒がしい。誰か来た?)
扉のさらに向こうから、誰かの話し声が聞こえる。父の声は聞き取れたが、もう一人に関しては声量が小さいのか、難しい。
来客にしては随分と遅い時間だ。不思議に思いながらも、貴族の息子として顔を出さないわけにはいかない。
「お、丁度呼ぼうと思っていたところだ。ライノル先生がこんな雨の中、お見えになってな。話があるそうだ」
ウイルが登場するや否や、ハーロンが即座に反応する。
その隣には、昼間に会ったばかりの名医、ライノル・ドクトゥルが立っている。びしょ濡れのまま、未だ玄関の前から動こうとせず、ウイルの顔を見るや否や気まずそうに視線を外す。
「すまんが君達二人に話があってね。まぁ、言わずともわかるじゃろうが、例の病気について……な」
訪問者の発言が、少年を心底驚かせる。分かれてからまだ数時間程度ゆえ、手がかりが得られるとは思えず、このようなシチュエーションは想像出来ずにいた。
「え、もう何かわかったんですか?」
「そのようだ。サリィさんにタオルを借りてきてくれ。こうもずぶ濡れでは、医者と言えども風邪をひいてしまう」
ハーロンの言う通りだ。ライノルはこの悪天候の中、傘もささずにエヴィ家まで足を運んだ。
その結果、少ない白髪だけでなく、白衣やズボンも水浸しだ。
何がそうさせたのか、少年は不思議に思いながらも、父の指示通りにメイドからタオルを借り、介護のように老人を拭いていく。
その時だった。
「本当は君だけに伝えるべきじゃろうが……、さすがにそうもいかんか」
「え?」
二人きりの玄関で、ライノルは静かにつぶやく。
母の病気に関してなら、当然エヴィ家の長も同席すべきであり、なぜそのようなことを言ったのか、理解に苦しむ。
その後、二人は応接室へ移動し、既に待機しているハーロンと合流する。
「ハーロン殿、ウイル君。改めてすまんな、突然に」
「いえ。こちらこそ、ご無理をさせてしまったようで、大変申し訳ない」
大人の二人が背筋を正してスッと頭を下げる。本題の前の礼儀作法であり、裏を返せば、ここからが重要だ。
「なんと……、言えばよいか」
この国一の名医とは思えないほど、言動はおろか雰囲気そのものが弱々しい。
父と子は、老人がわずかに震えていることを見逃さず、雨のせいではないと察する。
「妻の容態は、それほどまでに……?」
「い、いや、すまない。もちろん、よくないことは確かなんじゃが……」
夫として、ハーロンの心中は穏やかではない。医者の態度にはどうしても過敏に反応してしまう。
一瞬の沈黙。パシャパシャと雨の音だけが聞こえる中、ライノルは震える手で、用意されたコップに手を伸ばす。
(……ん?)
ウイルは気づく。先ほどから、正面の老人が自分の方ばかりを見ている、と。本来ならば、父の方を、もしくは半々程度に視線を向けられるはずだ。
不思議に思いながらも見守っていると、ライノルはやつれた表情のまま、東方由来の麦茶をいっきに飲み干す。その勢いで大きく息を吐き、残り少ない白髪ごしに頭をかき始める。
「調べた結果……、少しだけわかってな。詳しくは説明できぬのじゃが……」
「ほう! さすがはライノル先生!」
言い淀む医者とは対照的に、父の表情は明るくなる。当然だろう。謎の病気について手がかりが得られるかもしれないのだから、藁にもすがる思いだ。
「ゴホン……、ウイル君、心して聞いてくれ」
「え? それはもちろんですけど」
その言い回しはおかしい。この場には父と子がいるのだから、二人は一語一句受け止めるつもりでいる。
だが、医者はなぜかウイルだけを指名した。
そのことを不思議に思いながらも、少年は小さく頷く。
「迷いの森に隠れ住んでいる、魔女なら薬を作ることが可能じゃ……」
「なんと……」
(え……)
ライノルの発言が親子を激しく動揺させる。
だが、話は終わらない。ここからがある意味本題だ。
「その魔女の名は、ハクア」
(な、なんで……、なんで⁉)
医者程度がなぜその名前を知ることが出来たのか、ウイルには想像すらできない。
ハクア。白紙大典とゆかりのある人物なのだが、正体は魔女らしく、この国でその名を耳にすることはない。
魔女は魔物だと考えられており、そうであれば一人ひとりに、魔物風に言い換えるなら、それぞれの個体に、名前などないはずだ。少なくとも、それがイダンリネア王国における一般常識だ。
おそらくは白紙大典しか知らないであろう情報を、なぜこの医者が知りえたのか。
わからない。
ましてや、情報の精度はそれ以上だ。彼女はハクアの居場所までは言い当てられなかった。
ゆえに、ウイルは父親以上にうろたえる。
「とある本を……、届けることで会えるようじゃ」
「本? それはいったい?」
追いつめられるように話すライノルと、不思議そうなハーロン。
そして、恐怖のあまり言葉も出ないウイル。
(そんな……! 白紙大典のことまで⁉ もしかして、見られていた⁉)
もたらされた情報は有意義だが、今はまだ精査する段階ではなく、混乱する頭では現状を受け入れることすら困難だ。
おそらくは、この国で唯一、変色病の治療方法に近づけている。ウイルはそう自負していたが、眼前の老人は自身と同じ情報を掴んでいる。
白紙大典と契約した際の様子を、どこからか覗き見られていたとしか思えない。少年はそう推理する。
「おかしな言い方になってしまうが……、わしも本については何も知らぬ。ただ、ウイル君ならわかるはず……」
「ふむ……。どうなんだ?」
二人の視線が一点に集まる。
わかるのか、と尋ねられればわかるに決まっている。
だが、やはり腑に落ちない。なぜ、ライノルがこんな短時間で白紙大典に辿り着けたのか、それがわからないからだ。
だが、こうなってしまっては、明かすしかない。なによりウイルはこの流れを利用して、己の目的を果たすつもりでいる。
「きっと、この本のことだと思います」
右手を小さく突き出すと、さもそこに初めからあったように、純白の本が出現する。
この光景には、父だけでなくなぜか医者も驚きを隠せない。
「これは……」
「なんじゃ……?」
「白紙大典。ハクアという魔女に出会うための証……です」
表紙にも、裏表紙にも、そして背表紙にも、一切の記述が見当たらない、真っ白な古書。それがふわふわと少年の眼前で浮いているのだから、大人達は目を丸くする。
「聞いたこともない……。びゃくしたい……、いや、見たことならある。地下倉庫に保管されていた本か」
「はい。先ほど、僕はそこでこの本と契約しました」
父の言葉を受け、ウイルは事のあらましを説明する。
ライノルが帰宅後、病気について調べるため、地下倉庫へ向かったこと。
そこでこの本に話しかけられたこと。
その際に、魔女なら何か知っているかもしれないと告げられたこと。
契約を機に、コールオブフレイムを習得したこと。
つらつらと話す子供の声に耳を傾けながら、ハーロンとなぜかライノルさえも衝撃を受けている。
「なるほど……な」
「わしは……、わしは……」
大人達は半信半疑でありながら、それぞれの態度で情報を噛みしめる。
ハーロンは父として、どんな対応を取るべきか、深く考えだす。
一方、医者のライノルは動揺を隠せずにいる。俯き、頭を抱える様子はどこか不穏だ。
「ウイルがその本から聞いたことと、ライノル先生の調査結果は見事に一致している。となると、疑う余地はないのかもしれんな。魔女……。にわかには信じられんが、今はそこに救いを見出すしかない、か」
エヴィ家の長は、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。父として、息子を疑うことはせず、そもそも証拠品とも言える白紙大典を披露されたのだから、議論を進める他ない。
「僕は……」
さぁ、今がその時だ。
自分のやるべきこと、自分にしか出来ないことが白紙大典とライノルから示されたのだから、後は決意表明だけだ。
気がかりな点はある。二人の発言があまりに似通っていることが、不自然なこと極まりない。
策略めいたものを感じずにはいられないが、仮にそうだとしても構わない。むしろわかった上で飛び込む。
「僕は、行きます……! 母様を治すため……、魔女に会ってきます!」
自画自賛の名演技だ。父と医者には、母を想う子供として映っているはずだ。
ウイルは弱冠十二歳の子供だが、大人のように計算高いところがある。この演技も、己の目的を果たすためでしかない。
「だから……、僕は家を出ます。傭兵になって、迷いの森を目指します。父様……、今まで、お世話になりました」
立ち上がり、深く、深く頭を下げる。
迷いの森へ赴くためには、実はいくつかの条件を突破しなければならない。
一つ目が、傭兵試験の合格だ。
道中、巨大な洞窟を抜ける必要があるのだが、その出入口は結界で塞がれており、通過の許可は傭兵にだけ与えられている。
二つ目は、生き延びるための実力だ。
旅の途中では、数え切れぬほどの魔物と出くわす。それらを倒すのか逃げるのか、その選択は個人の自由だが、ただの子供にはどちらも不可能だ。
しかし、今のウイルには勝算がある。魔法コールオブフレイムの習得が、それを可能にすると考えている。
迷いの森へたどり着くためには、以上二つの条件を満たす必要がある。
だが、それだけでは足りない。
変色病を治療するための薬。それを作ってもらうために、ハクアという魔女に会う。そのためには白紙大典が必要らしく、その所有者はウイルに他ならない。
つまりは、必須条件の一つがウイルということになる。
だからこそ、旅立つ。
もっともらしい理由を並べて、本音を隠す。
実は、ウイルに限り、正確にはエヴィ家に関しては、もう一つの条件が発生する。
イダンリネア王国の法でそう定められているのだが、一部を除き、貴族は傭兵になることはおろか傭兵組合の利用そのものが許可されていない。
ゆえに、ウイルが傭兵を目指すためには、先ずエヴィ家の姓を捨てる必要がある。
それはつまり、親との今生の別れを意味するのだが、わかった上での宣言だ。
本音を隠した上で真の目的を達成するためには、その程度の代償は払わなければならない。
いじめから逃げるための退学には、貴族としてそれくらいの理由をお膳立てする必要がある。
母の病気を治すという名目は、非常に便利だ。息子として不自然ではなく、何より利用しやすい。
嘘ではないのだから良心も痛まず、エヴィ家としても恥をかかない。
まさしく、一石二鳥だ。
薬の入手と、いじめからの逃避。そのどちらもが、提示された方法で実現するのだから、この生活を手放すことに迷いはない。
当然だが、大人達は驚く。だが、その理由は全く別だ。
ハーロンは父として、息子の決意に尻込みする。もちろん、そうするしかないとわかってはいるのだが、内容が内容だけに即答など不可能だ。
一方、医者のライノルは青ざめた表情のまま、小さく震えている。
「明日、ここを出ます。父様、最後のわがままをお許しください。支度金を……」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。か、考えさせてくれ……。いや、そうするしかないと理解してはいるのだが……、さすがに、な」
ウイルは男の顔を作ってはいるが、内心では喜び勇んでいる。当然だ、二度と学校へ通わずに済むのだから、貴族としての裕福な暮らしを手放すことなど痛くもない。
父はらしくないとわかってはいても、情けなく考え込む。他に選択肢はないのだから、今回は無茶を承知で子に託すしかなく、もちろん妻を諦めるのなら別だが、それもまたありえない回答だ。
「わ、私は、これにて失礼するよ……。もう、お邪魔だろう……」
「あ、ライノル先生……。今日はありがとうございました」
一瞬の沈黙は老人によって破られる。ライノルは動揺しながらも立ち上がり、逃げるように立ち去ろうとする。
ハーロンとウイルは玄関まで見送り、再度客間へ戻る。
話し合いは終わらない。むしろ、ここからが本番だ。
「どれほど危険か、わかっているのか?」
「もちろん、です」
父と息子。二人は先ほどとは異なり、テーブルを挟んで向き合って座っている。
「仮に……、許可した場合、どう動くつもりでいる?」
「明日の朝、ここを出て、その足でギルド会館に向かいます」
うつむき加減なハーロンとは対照的に、ウイルは凛と背筋を伸ばす。気弱な子供のままではいられない。そんな気概が少年を少しだけ成長させた。
「ギルド会館、か。先ずは試験を受けるのだな」
ギルド会館。傭兵のための巨大施設だ。傭兵組合が運営しており、建物の中は傭兵達で賑わっている。
ウイルはそこを目指す。
ハクアが隠れ住んでいる森を目指すには、とある洞窟を抜けなければならない。
そのためには傭兵となり許可を得る必要がある。
試験を受け、傭兵になる。
つまりはギルド会館こそが、最初の目的地だ。
「はい。その後、武器を調達して、魔物を狩りにいきます」
傭兵試験の内容はシンプルだ。マリアーヌ段丘の草原ウサギを三体討伐。
最も弱い魔物が指定されているとは言え、決して侮ってはならない。素手で立ち向かうことなどご法度だ。
ゆえに、武器の購入は必須であり、そのためのお金を用意して欲しいとウイルは考えている。
「勝算は……あるのか?」
「はい。白紙大典との契約によって、僕はコールオブフレイムが使えるようになりました。今はまだ二回だけですが、草原ウサギを倒すだけなら可能なはずです」
魔法を詠唱するためには、魔源というエネルギーのようなものを消費する。それは庶民であってもある程度は内に秘めており、ウイルに関しても同様だ。
二回。ウイルの魔源では、コールオブフレイムを二回しか発動出来ない。ただし、魔源はスタミナのように時間経過で回復してくれるため、試験にはなんら支障ない。
コールオブフレイムの効果時間はきっかり十分間なのだが、ウイルは連戦など想定していない。休み休み挑むつもりだ。ならば途中で魔源は補充され、三度、四度の詠唱も可能となる。
つまりは、実力不足は否めないが、何とかなるだろう、とウイルは考えている。そのような甘い考え方は、翌日に見事粉砕されるが、今はまだ知る由もない。
「う~むぅ……」
ハーロンは唸りながら、ぐっと考え込む。頭を抱えているわけではなく、両腕を組んで、どしりと構えたままだ。
雨音だけが聞こえる客間にて、そのまま数分程度が経過する。
(あれ、寝ちゃった?)
ウイルがそんなことを思った矢先に、父は自身の太ももをバシンと叩いて目を見開く。
「よし! わかった! 財産を半分くらい持っていっていいぞ」
「いえ、そんなにはいらないです」
子供ゆえ、エヴィ家の資産を把握しているわけではないが、ボリューム程度なら想像可能だ。
貴族とは由緒ある大金持ちとも言える。これから死ぬかもしれないという自覚があるのだから、大金は不要だ。
「明日をもっておまえはエヴィ家の人間ではなくなる。だが、安心してくれ。父がなんとかする」
ハーロンとウイルは明日で親子ではなくなる。言い回しは異なるが、そういう意味合いだ。
ウイルは二度と、エヴィ家の敷地をまたぐことは出来なくなる。それがどれほどつらいことか、父としても想像に難くない。
だが、見捨てるつもりなどない。そもそもマチルダを救うために旅立つのだから、エヴィ家の長として全力で支援するつもりだ。
そして、それだけではない。実現可能かどうかはこれからの努力次第だが、ハーロンは独自に動こうと思っている。
魔女から薬を譲り受けることだけは託すしかないが、それとは並行して、そして何年かかるかもわからないが、ハーロンは息子のためにとある計画を企てるつもりだ。
それについて、父は何も述べない。話の本題から逸れてしまうからだ。この件は、目途が立ってからでも遅くはない。
「なんとか……? とりあえず、五十万イールくらいは欲しいです」
「わかった。五百万だな」
「五十万です。五十万イール」
気前の良すぎる父に、ウイルは狼狽する。
同時に、あっさりと主張が認められたこともうれしい誤算だ。
「おまえは昔から控えめで偉いな……。金以外にもないのか? 役立つものは何でも持っていけ」
「じゃあ……、マジックバッグが欲しいです」
「いいぞ」
ウイルの要求は確かに大人しい。五十万イールは少額ではないものの、貴族からすれば小銭でしかない。父の言う通り、五百万イールですら余裕で贈与可能だ。もっとも、一般家庭の年収が三百万イール前後なのだから、十二歳の子供に手渡すような金額ではない。
追加のわがままとして、マジックバッグを持ち出せることが決定したが、実は非常にありがたい。
マジックバッグ。イダンリネア王国では製造できない魔道具の一つ。見た目は単なる背負い鞄だが、実態は似て非なる。最大の違いは、収納可能な容量だ。普通の鞄は見た目通りの量しか詰め込めないが、マジックバッグは異なる。無限ではないが、持ち運べる容量は底なしに近い。もちろん、鞄の口以上に大きな物は入れられず、弱点としてはそれくらいか。
「ありがとうございます。おかげで森への旅路が楽になりそうです。僕が……、薬を持ち帰るまでの間、母様のこと、お願いします」
これにて交渉は終了だ。もちろん、親子水入らずの時間は今日が最後なのだから、ここで会話が途切れることはない。
ウイルがウイル・エヴィとしていられる時間は残りわずかだ。父はメイドを呼んで惜しむように猶予を満喫する。
今生の別れではない。されど、そうなる可能性も低くはない。
外の世界はそれほどまでに苛酷で残酷だ。
それでも後悔はない。あるはずがない。
母を助けるため。
なにより、アーカム学校を退学するため。
少年は新たな生き方を選択する。
その第一歩として、貴族としての生活を手放す。
引き返せないことはわかっている。それでも、地獄のような日々から逃げられるのならためらわない。
ウイルは、道を踏み外す。
貴族から庶民へ。
学生から傭兵へ。
守られる側から守る側へ。
どちらが正しかったのか。それを知るためにも、前へ進むしかない。
さぁ、別れの時だ。
十二年住んだ家と、家族と、約束された将来を、今まさに手放す。
悔いなどない。
あるはずがない。
あるとするなら、謎の違和感だ。
白紙大典とライノル・ドクトゥル。両者からの助言はなぜ似通っていたのか。単なる偶然なのか、真実がそうなのだから必然なのか。それも含め、ハクアという名の魔女に会うことで、何かわかるのかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、新たな一歩を踏み出す。
母を救うために。
生きるために。
ウイルは朝陽を浴びながら、ギルド会館を目指す。
これは、ウイルの物語。
ここから始まる、愛の物語。
◆
「あの子は遠くに出かけたのね」
「おはよう。やはり……、わかってしまうのだな」
窓から差し込む陽射しが、夫婦のベッドをさらに白く塗りあげる。
この寝室は普段通り清潔だ。二つのベッドといくつかの家具が設置されているものの、空間は大いに余っている。巨大な屋敷ゆえ、部屋も相応に広大だ。
朝には違いないが、今日という日はとっくに始まっている。起床には少々遅い時間だが、彼女に関しては許される。
額には大粒の汗。
表情もやや暗く、グレーの長髪を揺らしながら、ゆっくりと体を起こす。今はこれが彼女の精一杯だ。
夫が隣で見守ってくれているのだが、両者は目を合わすことはない。片方が視力を失っているのだから、やむを得ない。
マチルダ・エヴィ。三十三歳。隣のハーロンより九歳若く、美貌もまだまだ健在なのだが、今はどこから見ても病人だ。高熱がひいておらず、苦しいに決まっている。
「珍しい……。あのあたりは、ギルド会館あたり? 私も久しぶりに行ってみたいわ~」
「そ、そこまでわかるのか……。すごい特技だな」
妻の発言は妄想でもなんでもない。昔から保有する彼女だけの能力であり、具体的には一人息子の居場所が手に取るようにわかってしまう。
「あなたは入ったことないでしょうけど、あそこって色んな傭兵さんがいて、見てるだけでも楽しいのよ。ちょっと汗臭いけど」
病人のはずだが、マチルダはけらけらと笑う。だが、視線は隣には向かず、正面を見据えたままだ。暗闇の中にいるため、眼球を動かす必要がない。
「エヴィ家はギルバード様に連なる施設を利用できないからな。それより体調はどうなんだ?」
「うん、最悪~。病気ってこんなにつらいのね」
「病気というか……、まぁ……、食事はとれそうか?」
「食べる食べる。サリィさん一人に作らせちゃって、申し訳ないわ」
妻の言動は明るいが、普段よりもかなり遅い起床が容態の悪さを物語っている。
「今は仕方ない。いつか必ず薬が届く。それまでは辛抱してくれ」
「……そう、やっぱりそういうこと。なら我慢出来ちゃう。それまではずっと寝てないといけないのよね。そっちが我慢できそうにないわ。庭のお手入れとかどうしよう?」
三か月以内に治療薬は届けられる。
何も知らされていないマチルダは、夫の発言と息子の現在地から全てを察し、話題を変える。
そう、ウイルは母にだけは何も伝えず、出発してしまった。
その理由は、当事者に対しどう説明すればよいのか、思いつかなかったから。同時に、甘えがなかったとも言い切れない。
父が代わりに話してくれるだろうという勝手な期待と、寝ている病人を起こしては悪いと都合のよい理由を並べ、ウイルは朝一番に旅立つ。
実は、ただただ単純に照れ臭かっただけだ。本人は気づかぬ振りをして別の建前を作り出したが、実際のところはその程度の理由だ。
「庭は私が何とかしよう。花のことはよくわからないから、後で文句は言わんでくれよ」
「真っ赤なお花、グリモアって名前のお花なんだけど、その子はデリケートだから周りの雑草を小まめに抜いてね」
「ふむ、覚えていられる自信はないが……、大事な花なのか?」
「不思議なお花なの。地下倉庫に真っ白な本があったでしょう? それに挟んであって。綺麗だったから品種を調べて、庭に植えるようにしたの」
マチルダの発言に、ハーロンはドキリと驚く。
真っ白な本には覚えがある。白紙大典のことだろうと直感的にわかったが、息子と医者に続き、妻までがそれについて言及するとは思ってもおらず、なにか運命めいたものを感じずにはいられない。
グリモア。北西の土地に群生する花の一種だ。花弁が血のように赤く、その色合いは見る者によっては不気味なほどだ。
「そ、そうか……。その本に妙なところはなかったか?」
「何それ? 何も書かれてなかったこととグリモアの押し花が挟んであったから印象には残ってるけど、それだけよ?」
「ふむ、まぁ、気にしないでくれ。そういえば、君のマジックバッグをウイルに譲ったよ。欲しいと言われたのでな」
「え、えぇー! お気に入りだしすごい便利だったのに!」
話題が変わると同時に、マチルダは病人でありながら悲鳴を上げる。当然だ、愛用している鞄を息子に取られたのだから、夫を非難したくもなる。
「急な話で、そうするしかなかったんだ。安心してくれ、君が回復するまでに新品を買っておくから。東の大陸から輸入するとなると少々時間はかかるが、まぁ、間に合うだろう」
「それなら、よし! 次はオレンジ色でよろしくー」
ハーロンの言う通り、今回ばかりは仕方ない。
ウイルの旅立ちは今朝のことであり、その決定は昨晩だったのだから、新たなマジックバッグを用意することなど不可能だった。
エヴィ家は二つのマジックバッグを保有しているが、もう一つは従者用ゆえ、そちらを息子に与えてしまうと彼女らの業務に支障をきたしてしまう。
マチルダは外出が許されないのだから、今は不要のはずだ。それを息子に譲り、妻の分は買い直すという判断は正しい。
「今度はオレンジか。覚えることがいっぱいだな」
ハーロンは許しを得られたことにホッと胸をなでおろしつつ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
そのまま歩みを進めれば、数歩先の小窓に到着だ。額縁のようなそこからは、手入れの行き届いた庭が見渡せる。多種多様な花が赤青黄と騒がしく咲き乱れており、夫としても誇らしいが、今後はこれらの手入れを代行しなければならない。そう考えると、プレッシャーを感じてしまう。
「今日の天気は良いの?」
「ああ、お日様が暖かいよ」
ハーロンが少しだけ窓を開けると、新鮮な空気が流れ込む。妻の病気は空気感染しないと医者から聞いており、換気をするもしないも自由だ。
(ん? なんだ? 遠方で煙があがってるな……。もしや火事か?)
灰色の煙が、もやもやと上空へ伸びている。火の発生源は近所ではなさそうに見えるため、この家が巻き込まれる心配はない。
(あのあたりは……南の区画か?)
そこは高級住宅街であり、金持ちや軍関係者、そして医者のような重要人物がそれぞれの住居を構えている。
話題としては不謹慎ながらも申し分ない。だが、妻の病状を考えると相応しくなく、ハーロンはこの件を伏せる。
「そうそう、そういえば……」
「ん?」
新たな話題はマチルダからもたらされる。
「昨日も見たのだけど、時々空に火の玉みたいなのが浮いてるのよね~。あれって何なのかしら?」
「太陽ではなく?」
「さすがに見間違わないわよー。もっともっと低くて、大きさは……、そんなに大きくないと思う。遠いからよくわかんないけどね」
妻のこの発言は初耳ゆえ、夫は唸るように考え込む。
炎のようなものが空中に、正確にはイダンリネア王国の上空に浮いている。安易に考えれば魔法なのだろうと推測出来るが、では、誰がどんな目的でそのようなことをしたのか。
「ふーむ、魔道具の実験か何かだろうか? だとしたら、届け出があってもおかしくはないが、少なくとも私に報告はなかったな」
魔法や戦技のように、超常的な現象を発現させる魔道具。ランプのような灯りから、戦闘に役立つものまで、その種類は様々だ。用途はわからないが、火の玉を撃ち出すものが発明されたとしてもおかしくはない。
「不気味な気配が空からしたから見上げると、見つかるの。私の能力はあの子限定のはずだから、いつも不思議に思ってたのよね~」
「不気味な気配……、もしや魔物か? 聞いた話によると、魔物と魔法は根底が繋がっている可能性があってな。だから波動が似通っている理由もそれで説明がつくらしいのだが……、って寝るんじゃない。いや、調子悪いのなら寝てくれて構わないが……」
マチルダの探知能力は、息子だけを探してくれる。本人もそう思っていたのだが、空に浮かぶ炎についても感知出来ていた。
その理由まではわからないが、ハーロンはとある説を思い出す。
魔物と魔法の近似性。片方が生物でもう片方は現象なのだから、比較すべきではないのだが、学説の一つとして、これらには関連性が見受けられると言われている。
「むにゃむにゃ、ご飯と飲み物持って来て~。あ、その前にトイレ行こっと」
「……手を貸そうか?」
「もうだいじょぶ! 目が見えなくても我が家だしね」
ホホホと笑いながら、マチルダは手探りで立ち上がる。体は依然としてだるいが、生理現象には逆らえない。
また、体力を補うためにも飲食は不可欠だ。発熱のせいか普段よりも食欲はないが、無理をしてでもいくらかは腹を満たす必要がある。
三百年前と同様に病状が進行するのなら、そう遠くない時期から肌の色が変わり始める。紫色へ至る三か月がリミットであり、彼女の貴族らしからぬ言動はその時で見納めだ。
マチルダも自身の余命については知らされている。
ゆえにハーロンは思ってしまう。
普段通りの態度は強がりなのかも、と。
仮にそうだとしたら、否、そうでなかろうと、エヴィ家の長として彼女を守りたいと強く願う。
これに関しては、息子も同じ考えを持っている。だからこそ、旅立ちを決意した。
光流暦千十一年。記念すべき、そして悲劇の千年祭から十一年が経とうとしている。
子供も大人も老人も、魔物と魔女の脅威を恐れ、日々を過ごしている。建国から千年以上が過ぎ去ろうと、それだけは変わらない。
一方で変わったものもある。
人間と魔物のパワーバランスだ。
建国以前は、人間が一方的に蹂躙されていた。巨人族はそれほどまでに脅威であり、人々は皆恐れ、ひっそりと隠れ住んでいた。
だが、ある男が立ち上がったことでいっきに状況は反転する。後にイダンリネア王国を建国し、初代の王となったその男は、高いカリスマ性と人並み外れた戦闘力で皆を導き、この大陸の東側から巨人を掃討する。
光流暦六年。建国から六年がたち、初代王は四人の英雄と精鋭の部下達を率いて、巨人族の王を打ち倒すことに成功する。
以降、大きな戦争は何度かあったが、イダンリネア王国および南の村々は、平穏を享受し続ける。
もっとも、魔物も巨人族も滅ぼせたわけではない。今でも人間の多くは魔物に殺害されている。
魔女。進化を得て人間の姿と言葉を手に入れた魔物。これが確認された頃合いは、建国後、少ししてからだ。
巨人という駒では不足と思ったのか、魔物が新たな戦力を投入したと考えるものさえいるが、ウイルは白紙大典と契約し、そうではないと思い始めている。
魔物と魔女。
そして、人間。
どこで線引きをすべきなのか、それを確かめるためにも、なにより母の病気を治すためにも、少年はそこを目指す。
迷いの森。イダンリネア王国から遥か西に位置する、未開の土地。その名の通り、入り込んだ者は軍人であろうと傭兵であろうと、例外なく、自分の現在地を見失う。
その結果、探索もままならぬまま、気づけば外へたどり着いてしまうのだから、地名に偽りはない。
ウイル・エヴィ。
今日からは、別姓を名乗る。
ウイル・ヴィエン。貴族の地位を捨て、傭兵として新たなる一歩を踏み出す。
その結果、早々に出鼻をくじかれるが、運命のように新たな出会いが訪れる。
ウイル・ヴィエンとエルディア・リンゼー。二人はここから、長い旅路を歩み始める。
(それじゃ、れっつごーごーごー!)
「うわ、ビックリした! え⁉ もう起きたんですか⁉」
(時々、一瞬だけ覚醒できるみたい。まー、すぐ寝落ちしちゃうけどねぇ。んじゃ、おやすみ~)
「はやっ⁉」
「どしたのー? 独り言というか一人漫才みたいな」
「あ、えと、その~……」
二人と一冊の旅は、ここから始まる。