テラーノベル
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雨が降っていた。七月の終わりにしては肌寒くて、部屋の窓は曇っていた。
冷房の設定温度を少し上げながら、**黒川 陽向(くろかわ ひなた)**は壁にもたれていた。
スマホの通知は絶えず鳴っていたけれど、そのどれにも指は伸びなかった。未読が32件、うち28件は同じ名前だった。
──**「佐久間(さくま)くん」**
三週間前から、陽向の部屋に頻繁に現れるようになった年下の男だ。
大学のサークルの後輩で、いつからか懐かれていた。
けれど──最近の彼の態度は、明らかに「懐いてる」というレベルではなかった。
「先輩、今日どこ行ってたんですか?
誰と会ってたんですか?
なんで連絡返してくれないんですか?」
LINEには、そんな文章がずらりと並ぶ。
泣き顔のスタンプ、ハートの絵文字、何も書かれていない「。」だけのメッセージ。
最初は怖くなかった。
ただ、年下の男の子がちょっと寂しがってるだけ、そう思っていた。
でも──
「……あいつ、部屋に盗聴器でも仕込んでんのか?」
ぽつりとつぶやいた瞬間、陽向は寒気を覚えた。
“部屋に盗聴器がある”と考えたことを、まだ誰にも話していなかった。
それなのに、その日の夜──彼からのメッセージに、こうあった。
「ごめんなさい。もう、音、消しました。
本当は先輩の生活音、ずっと聞いてたかったけど……やめるね」
──ほんとうに、どこまで知ってるんだ。
──どこまで、入ってきてるんだ。
陽向は思わずソファに崩れ落ちた。冷や汗が背中をつたって落ちる。
そのときだった。
「ひなたくん、いま、部屋にいるでしょ」
玄関の外から、聞き覚えのある声がした。
一瞬、呼吸が止まる。
「……鍵、かけたよな?」
確認する間もなく、ガチャ、と音がしてドアが開いた。
「やっぱり、いた」
雨に濡れたTシャツを着たまま、ドアの向こうに立っていたのは──**佐久間 蓮(さくま れん)**だった。
白い肌に、黒髪。まつげの長い、女の子のような顔立ち。けれど、その笑みはあまりに無機質で──異様だった。
「……お前、合鍵……」
「作ってもらったじゃん、前に。ほら、酔ったとき」
「あれ……捨てたはず……」
「うん。でも、予備もらったとき、こっそり複製したの。ごめんね」
まるで「アイス食べちゃった」くらいの気軽さで、蓮は陽向の方へ歩いてくる。
(どうする……逃げられない)
「ひなたくん、最近、あの人と会ってた?」
蓮が目を細めた。
“あの人”──そう言われて、陽向は自然ともうひとりの顔を思い出した。
──春海(はるみ) 透真(とうま)
陽向の元恋人。
今も時折会う、身体の関係だけが残った男。
「やっぱり、会ってたんだね。
透真くんの香水、まだこの部屋に残ってるもん」
「お前、嗅ぎすぎだろ……」
「透真くん、俺のこと睨んでたよね。
“壊したいのか”って、言ってた」
その声に、陽向の背筋が凍った。
「……お前、透真に会ったのか?」
「うん、昨日。夜のバイト帰りに、家の前で待ってたら来た」
「何、した……?」
「何もしてないよ。ただ、話しただけ。
透真くんってさ、結構脆いんだね。
泣いてたよ、最後」
その言葉に、陽向の口から小さな息が漏れる。
蓮が一歩、陽向に近づく。
その手には、小さな箱──薬のケースが握られていた。
「ねぇ、これ。ひなたくんが飲んでるやつ」
「……返せよ」
「やだ。これがないと、ひなたくん、眠れないでしょ?
でも、俺が隣にいれば、いらないじゃん」
「お前、何がしたいんだよ……」
「独占したいだけだよ。
ほら、触られると嫌な顔するくせに、誰かに捨てられるとすぐ弱くなるでしょ」
蓮の手が、陽向の首元に触れる。
「俺、そういうところも好きなんだよ」
「っ……ふざけんなよ……!」
陽向は突き飛ばした。
蓮の体は小さくて、簡単に壁にぶつかった。
でも──その顔は笑っていた。
「痛いなぁ……でも、それも好き。
ひなたくんが俺を突き飛ばしてくれるの、俺にだけだから」
そのとき、窓の外に光が走った。
雷だった。
遅れて轟音が響き、部屋の電気が一瞬落ちた。
真っ暗な部屋。
耳に残るのは、自分の荒い息と、蓮の笑い声だけ。
「ねぇ、ひなたくん。
透真くんのこと、もう忘れてよ」
「っ……やめろ……!」
「じゃないと、俺、もっと歪むよ」
その言葉の重さに、陽向は全身から力が抜けて、床に崩れた。
(誰も死なない)
(誰も殺していない)
(けれど──ここはもう、生きてる場所じゃない)
蓮がそっと陽向に膝をつき、抱きしめる。
「大丈夫。俺が全部、引き受けるから」
その声は、とても優しかった。
その夜、春海からの連絡はもう来なかった。
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