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「なんだよ、鬼塚。もう帰るのか?」
一次会が締めくくられ、帰宅の準備を整えていると、不意にほろ酔い気分の数人に呼び止められた。
「あぁ。家に仕事を残してきてるんだ。期限が近いから、明日までに片付けなきゃならない。……それに、一人で少し考えたいこともあるしな」
「ふぅん。若くして出世すると色々大変なんだな」
「まぁ、好きでやってる仕事だから仕方ないさ」
「そっか。……たく、せっかく会えたのに残念だよ。真紀もケンジも付き合い悪いしさ」
ケンジは「店があるから」と早々に夜の街へと消え、幹事である真紀も、二次会への誘いを「今日は、彼にもう一度アタックするから」と潔く断っていた。昔から決断力があり、思い立ったら即行動。そんな彼女の気質は、十数年経っても何ら変わっていないようだった。
「即行動、か。アイツらしい」
「周りの女子たちに焚きつけられてたからなぁ。……そんなことよりさ、鬼塚。戻るんなら、あの人を送っていってくれないか?」
「あ?」
友人が申し訳なさそうに指差した先には、壁際のソファで置物のようにくったりと凭れかかっている蓮の姿があった。
「いやぁ、あの人、意外と酒に弱いのな。ちょっと飲ませすぎたみたいで、完全に潰れちまってさ」
「……なんで俺が」
理人は眉間に深い皺を刻んで不満を露わにしたが、友人は困ったように笑うばかりだ。
「お前、家が近いんだろ? なぁ、頼むよ。このまま放っておけないだろ」
強引に連れてきた責任を放棄する身勝手さに呆れつつも、確かにこのまま放置するわけにもいかない。蓮が変な口走りをしないかという不安もあったが、結局、理人は溜息を吐いて折れた。
「チッ……仕方ねぇな」
意識はあるものの、まともに立てない蓮を、理人は半ば引きずるようにしておぶった。鍛えられた男の身体は一回り大きく、ずっしりと重い。なんとか外へ連れ出し、待機していたタクシーのシートに蓮を押し込むと、運転手に行き先を告げた。 自分も隣に乗り込み、深くシートに沈み込む。窓の外を流れる夜景を眺めながら、ようやく一息ついた。
くにゃりと理人に凭れかかる蓮からは、アルコールと汗、そして微かなコロンが混じり合った匂いが漂ってくる。その香りを嗅いでいるうちに、何とも言えない焦燥感と落ち着かなさが胸に込み上げてきた。 蓮の鼻先が首筋に当たり、吐き出される熱い呼気が皮膚をくすぐる。理人は逃げるように身を捩った。
「あー……いい匂い。懐かしいな……理人の匂いだ……」
「っ、何言ってんだ。……たく、酔っ払いが」
肩を掴んで押し返そうとした瞬間、蓮の潤んだ瞳と視線がぶつかった。紅潮した頬に、熱を帯びた扇情的な視線。普段の理知的で傲慢な姿とは別人のようなその表情に、理人は不覚にも動悸を覚え、慌てて窓の外へ視線を逸らした。
運悪く道が混んでいるのか、車はなかなか進まない。苛立ち混じりに外を眺めていた理人の目に、見覚えのある女性の姿が飛び込んできた。 真紀だ。だが、彼女は一人ではなかった。 隣には背の高い男性が寄り添い、真紀は親しげにその腕に絡みついている。
「アタックする」と言っていたのは、彼のことだったのか。 特に興味もなかったが、何気なくその男の横顔を視界に入れた瞬間――理人の心臓が、嫌な音を立てて止まりそうになった。
他人の空似にしては、あまりにも似すぎている。 あの背格好、あの歩き方。そして、真紀に向ける少し困ったような、優しい眼差し。 まさか、そんなはずはない。瀬名は今頃、ホテルで落ち込んでいるはずだ。
けれど、脳裏に真紀の言葉が呪文のようにリフレインする。 『昨日、恋人にフラれたみたいで落ち込んでたから、チャンスあるかもって』
もし、あれが本当に瀬名だったなら。 信じてもらえないのは辛い――そう言って悲しそうに笑った彼を、突き放したのは自分だ。 信じてやらなくてどうする。自分が信じなくて、誰が彼を支えるというのか。
だが、もし。自分の放った毒が原因で、自暴自棄になった瀬名が彼女の手を取ったのだとしたら? 瀬名の隣で幸せそうに微笑む真紀。その光景を正視できる自信など、理人には微塵もなかった。
そんなのは嫌だ。やっぱり瀬名を誰にも渡したくない。
――きっと他人の空似だ。きっとそうだ。そうに違いない。
腹の底で暗澹たる想いが渦を巻き、理人は小さく震える拳を、白くなるまで強く握り締めた。
「……ほら、着いたぞ。入れ」
胸中に渦巻く暗澹たる想いを引きずったまま、理人は蓮を無理やり聞き出した自宅マンションまで送り届けた。自由の利かない蓮のポケットから勝手に鍵を取り出して解錠し、寝室のベッドへ放り投げるように寝かせる。 シーツの海に沈み、微睡んでいるかつての男を見下ろし、理人はこの日何度目かも分からない盛大な溜息を漏らした。
「……ったく、世話の焼ける。……水、ここに置いておくからな」
高価そうなスーツが皺になることが一瞬頭をよぎったが、脱がせてやるほどの義理はない。ミネラルウォーターのボトルをサイドテーブルに置き、背を向けて玄関へ向かおうとした、その時だった。
不意に、強引な力で手首を掴まれた。
「おい、離せ」
「嫌だ」
振り返ると、いつの間にか身を起こした蓮が、理人の腕を射抜くような視線で凝視していた。振り払おうとしても指先ひとつ緩めようとしない。それどころか、骨が軋むほどの力が込められ、理人は痛みに顔をしかめた。
「何なんだよ、お前……っ」
理解不能な行動に言葉を失った瞬間、理人の身体は強く引き寄せられた。バランスを崩し、蓮の広い胸へと倒れ込む。抗う間もなく、鋼のような腕が理人の背に回され、逃げ場を奪われた。
「ちょっ、何すんだ! 離せって言って――」
「……離したくないんだ、理人」
耳元で掠れた声が囁かれ、理人の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。一瞬だけ、かつての記憶が甘く疼く。だが、すぐにハッと我に返り、蓮の腕の中で身を捩った。
「何言ってんだ、酔っ払いが。……家まで送ってやったんだ、それで十分だろうが」
誰と間違えている。これはただの戯言だ。耳を貸してはいけない。 そう自分に言い聞かせるが、蓮の腕は驚くほど強固で、理人の細い抵抗など無意味であるかのように封じ込めてしまう。
蓮はさらに深く、理人の首筋に顔を埋めてきた。クンクンと、獲物の香りを確かめるような執拗な動きに、理人の身体は石のように強張る。
「帰るなよ、理人」
「……俺には、用が……」
言いかけて、脳裏に先ほどの光景がフラッシュバックした。 真紀と腕を組み、夜の街に消えていったあの背の高い影。もし今、あいつの元へ戻って、あの二人が睦まじく寄り添う姿を目の当たりにしたら? 自分はもう「邪魔者」なのだと突きつけられてしまったら?
瀬名がそんなことをするはずがない。信じると決めたはずだ。 けれど、考えれば考えるほど、最悪の想像が泥のように溢れ出し、理人の心を侵食していく。
その不安を見透かしたかのように、蓮の大きな掌が理人の頬を包み込んだ。吸いつくような指の感触に、肌が粟立つ。
「理人? ……なんでそんなに、泣きそうな顔をしてるんだ」
「してねぇ……っ」
「嘘つきだな。相変わらず」
蕩けるような、それでいて冷徹な熱を孕んだ視線が絡みつく。 頭の中では警鐘が鳴り響いている。逃げろ、ここから離れろ、と理性が叫んでいる。なのに、吸い寄せられるように視線を逸らすことができない。
こんなのはおかしい。間違っている。 唇に感じる蓮の熱い吐息に、理人の喉が小さく鳴った。 重なり合うほどの間近に、蓮の唇があって――。