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私は一人、屋敷の裏手へ回っていた。
ブラックウェル家のタウンハウスは、この町の光と闇、丁度その境界線に位置している。
表玄関は華やかなラヴェント・スクエアに面しており、画家に音楽家、文筆家その他知的職業人が好んで住んでいる。裏口は、工業地区バズ・ストリートの端にある。おびただしい煙突が吐き出す煤煙が、壁にも屋根にもぶ厚い層を成しているのに、誰も掃除しない。夜更けには黒い街並みが闇に溶ける。
そんな闇の中から、煤で汚れた外套を纏う少年少女の二人組が現れた。
少年の方が、低い囁き声で言った。
「――リゼ、来てるぜ」
少年はまだ十五歳くらいか。外套の下には、細身ながら鍛えられた体つきが見える。続いて入ってくる少女は栗色の髪を三つ編みにしている。
ノアとメイジー。顔見知りのストリートチルドレンだ。
ノアが背負っていた袋を地面に降ろす。
「今日はちょっと危なかった。白輪教の見回りが増えてるね」
「大丈夫? 怪我は?」
「ないない。いつも通り、誰にも見られずに盗んできた」
メイジーは無言で、ノアの服の裾をつかむ。寡黙な彼女はいつも、ノアの影に隠れる。そこが一番落ち着くポジションらしい。
彼らは兄妹ではない。血縁もない。ただ路地裏で生き延びるうち、自然と組んだコンビらしい。私にとっては貴重な仕事仲間だった。
「約束どおりの額、あとで渡すね」
「助かるよ。冬を越す資金になる」
ノアが包みの布を取り払った。
今日彼らが盗んできたのは――若い男の死体だった。
この国では、死体解剖が禁忌とされている。
国教である白輪教の聖書にこんな一文があるからだ。
* 肉体は神から与えられた魂の依り代である。来るべき審判の日、神が死者を呼び起こす。*
だからこの国には、海の向こうの異国にあるような、火葬の文化はない。死者は冷たい土の中で復活の日を待ち、しばしの眠りにつくとされる。
もちろん、国民のすべてが聖書の記述を信じ、復活を夢見ているわけでもないが――死体を掘り起こして切り刻むなんて、到底許されるはずもない。
だから表向き、治癒魔法の使い手は人体を文献から知るしかない。しかしその書物も、白輪教が広まる前、千年前の医学者が遺した化石のような知識の写本だ。精細さを欠いているし、誤りも多い。この国の魔術師たちの医療知識は、他国と比べても明らかに遅れている。
けれど、この国でただ一人、奇跡の聖女 ステラ・ブラックウェルだけは事情が違う。
彼女には、私が書き記した、実体験に基づく解剖学の報告書がある。
「……リゼ、顔色悪い、大丈夫?」
心臓が跳ねる思いをした。反応が遅れる。
この屋敷では気遣いなんてされないせいもあるが、メイジーがノア以外の誰かに話しかけると思っていなかった。
「……大丈夫よ、ありがとう」
満足な食事も与えられず、使用人や両親に押し付けられた激務のなか、身体はやせ細っている。その日のパンを買うお金にも苦労している彼らの目線でさえ、私は相当弱っているように見えるらしい。
「……それでも、やるんだ」
ベアトリス様や父は穢れた仕事と見下しているけれど、私は、医学の発展には死体解剖は欠かせないと信じている。ステラには解剖室に同席してほしいけれど、死体を忌避するベアトリス様が許さない。
実地体験に及ばないにしても、報告書を読むだけでも知識は得られる。
傍目でしか見れてないけど、ステラは勉強熱心な子だと思う。ちゃんとした報告書があれば、彼女の治癒魔法は十分に精度を上げられる。
白輪教がある限り、私の仕事は闇に葬むられるしかない。
それが悔しくないと言えば噓になるけど、大きな問題じゃない。
ステラが患者の命を救ってくれるのであれば、それでいい。
彼女のおかげで、私はきっと、どんな仕事も乗り越えられる。
ご遺体を解剖台に乗せる。両手の指を組み、目を閉じる。誰に教えられたわけでもなく、いつも私は祈りを捧ぐ。身勝手だ。少なくとも白輪教の神様は、私の祈りに唾を吐くと思う。
ごめんなさい。許されない。ありがとう。
感情はたくさんあった。でも全部一言にした。
「学ばせていただき幸せです」
衣装を切り捨てるために鋏を出す。
刃がすれて、シャランと鳴る。