テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ノアとメイジーは解剖室に残ってもらっていた。
メイジーが紙とペンを取り出す。彼女は写真機のように景色をそのまま写し取る才能がある。報告書に添えるスケッチを描くため、普段から、解剖に付き合ってもらっていた。もちろん、追加の給金も渡している。
ノアも解剖室に残っているが、彼に仕事はない。給金もない。ただの野次馬だ。
私は鋏で死体の衣装を引き裂いていく。
死体を観察する。
解剖台に横たわる男は、整った顔立ちをしていた。
白く長い睫毛が影を落とし、鼻筋はすっと通っている。泥と血に汚れてなお、育ちの良さを隠せない。頬の骨格は均整が取れ、顎の線は無駄なく引き締まっている。生きていれば、社交界でも目を引いたに違いない。
「……ノア、この人、王侯貴族だよ。しかも、訳アリの」
「はあ?」
「背中から首にかけて、十字架の烙印がある」
王族にとって十字架は剥奪の証だ。妾腹の子や罪人など、国王の血を引きながらも継承権を失ったものにつけられる……らしい。縁のない世界だから、実物は見たことがない。
何にせよ、腐っても王族。爵位は与えられている。浮浪者に混じって死ぬような身分ではないはずだ。
「いやいやいや、ありえねえって! 共同墓地から抜き出した無縁仏だぞ」
「暗殺者が死体を処理するにあたって、テキトーに埋葬される浮浪者たちの中に紛れ込ませた、とか?」
「ひょっとして、厄介事か?」
「大事件かも」
高貴な身分にふさわしく、肌も妙にきれいだった。ただ体温だけが失われているように見える。――というか。
「……きれいすぎない?」
「まあ、容姿は整っていると思うけど」
「そういう話じゃなく、死斑がない」
「シハン?」
心臓が機能を失い血流が止まると、重力に従って血液は下面に沈み、皮膚に赤紫の痣を生じさせる。本来なら死後二時間もすればその兆しが表れるはずだけど、彼の肌は理論に反してまっさらだ。
私は試しに彼の腕を曲げてみる。
力をこめずともすんなり曲がった。死後硬直はない。
「ノア、この人が死んだのはいつ?」
「……わかんね。テキトーに拾ってきただけだし。死因も調べてねえよ」
頭部の裂傷に蛆が湧いている。ピンセットで一体抜き出し、ガラス瓶に入れた。
「……うーん、この人が死んだのは半日前かな」
蠅は当然、生きた人間には卵を植えない。幼虫が孵化して成長してきた具合から、死んだ時刻を頭の中で計算した。
――これが、死後半日の遺体?
――ありえない。
それなら死後硬直はピークのはずだし、背中一面に死斑がでてもおかしくないのに。
「……矛盾してる。やっぱり変だ」
「リゼと違って俺は専門家じゃないんだ。何が変かちゃんと説明してくれよ」
「蛆は本来、目や口や耳……開口部を狙って浸食していく。でも何故かこの人の場合、そこには一切手がつけられていない」
「蛆って膿んだ傷口に湧くもんじゃねえの?」
「本体が生きていても、流れ出た血が腐ると、蛆は湧くよ。そこは部分的に死んでるから。この人の場合、傷周りの壊死した組織を蛆が食べていると見た方が自然かな」
「つまり?」
「この人が生きているなら、すべて説明がつく」
ノアが目を丸くする。
「……いやだって、運んできたときも、冷たくて」
「昏睡状態に陥った患者は体温が低いよ。仮死状態なのかも」
「……でも、まさか」
「確かめる」
リゼは男の瞼をこじ開け、ランプで照らした。翡翠色の瞳を覗き込む。
――さて、瞳孔は閉じるか否か。
私は思わず、ランプを解剖台の上に放った。
「――ッ!」
私は解剖室の隅にあるバケツを指さした。
「ノア! お湯!」
「……お、おう! オーケー!」
ノアがバケツの水に手をかざすと、数秒で、湯気が立った。彼は浮浪児には珍しい魔力もちで、ある程度の熱を操れる。
まずは裂けた頭部の傷を布で強く圧迫し、簡易に縫い合わせる。今の状態で血流を復活させたら大事故だ。
体温を戻す。濡れた衣服をさらに切り開き、毛布を重ね、温めた布で首筋と脇を包んだ。血流が戻りやすい場所から温度を上げる。
かすかに胸が上下しているのを感じる。呼吸が復活しつつあるらしい。しかし、脈がおそろしく弱い。
私は心臓近くに手を当て、意識的に魔力の代わりとなる”刺激”を送る。
――ステラに普段やらせている心肺蘇生の真似事。効果はある?
祈りにも似た思いで、私は処置を続けた。
「本当に治すの?」
メイジーがいつの間にか、解剖台を挟んで向こうに立っていた。
真正面から私を見据える。
「その人、私たちのこと喋るかも。ブラックウェル家の秘密、バレちゃうよ」
メイジーは抑揚のない声で言うが、目を見ればわかる。
この子は、私のことを心配している。
「あたしたちはいい。死体泥棒はたくさんある収入源の一つに過ぎない。でも、リゼは違うでしょ? 死体解剖の秘密がバレたら、旦那様はリゼを庇わない。リゼはブラックウェルを追放される」
そうなれば当然、私はもう二度と、ステラの役には立てなくなる。
「リゼが、生きがいを失うよ? ……この人を見捨てれば、リゼ、死なないよ?」
メイジーの声は震えていた。
私は一度だけ、深く息を吸った。
「ごめんね、メイジー。それじゃあどの道、医学者としての私は死ぬんだ」
もし運命が違って、両親も白輪教も存在しなかったとして、
私は自身に恥じるところなく、ステラの隣に立てるだろうか?
今は立てる。穢れ仕事と蔑まれても、解剖学に身を捧げた自分を誇りに思う。
では、この人を見捨てたら?
答えは簡単だ。でも、それが私の全部だった。
「……っ」
かすかに喉が鳴る音がした。話しながらでも止めなかった手が、思わず止まる。
十字架もちの王族の瞼が、ゆっくりと震えて――開いた。