テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第4部 綺麗な猛毒
第18章 二対一
二月五日、午後三時。会議室の長机に三人が並んだ。
議題は、二つ。
「一つ目は、最終条件の確認だ。価格はレンジの上のほう。留任は二年。柔太朗の制作の自由は譲らない。これで、ヴェルディエに出す」
「わかった」
舜太は頷いた。異論は出なかった。数字の話は、いつも、舜太と仁人の間できれいに通る。
「二つ目」
「柔太朗から申請が出ている」
『パリのクリエイティブ・ディレクターのアトリエを、一週間、訪問したい。共同制作の可能性を検討するため。買収の交渉とは切り離して』
舜太は、書面を見なかった。見なくても内容は分かっていた。
「取締役会として、承認が要る」
仁人が続けた。
「柔太朗の申請は、会社と競合しうる仕事に当たるから承認が要る」
柔太朗は椅子に静かに座っていた。いつもの落ち着いた顔だった。膝の上で、右手の指輪を静かに回している。緊張したときの癖だ。
「先に、訂正させてくれ」
仁人が言った。
「前に、柔太朗に、承認するのはお前を含めた三人だと言ったが、正確ではなかった。自分の申請については、票を投じられない。利害があるから。法律上の決まりだ。……だから、決めるのは、俺と舜太の二人だ」
柔太朗が瞬きをした。
「そうなんだ」
「すまない。俺の説明が、足りなかった」
仁人は頭を下げた。この男は、こういう間違いを自分で許せない。
舜太は、その横顔を見た。目の下の影が濃かった。何かを抱えている顔だった。それが何なのか、舜太は考えないようにしていた。
「賛否を取る」
仁人が言った。
「俺は賛成だ」
短く、迷いなく。
舜太は、仁人を見た。仁人は、舜太を見返した。
「柔太朗が自分の意思で決めることに、反対する理由が、俺にはない」
「……そうか」
舜太は、ゆっくり息を吸った。
「俺は反対や」
声は静かだった。
「一対一だな」と、仁人が言った。「二人が賛成しないと決議は成立しない。承認はされない」
会議室が静まった。
「反対の理由を、聞かせてくれ」
仁人が言った。
来たと舜太は思った。理由は、用意してあった。全部、正しい理由を。
「契約上の理由」
「独占交渉の最終局面や。買い手のグループの人間と、うちの中心人物が個別に会う。それは、条件交渉の前提を崩しかねん。表明保証の面でも、個別の合意を疑われる可能性がある」
もっともらしかった。それらしい言葉を並べた。
「どの条項だ」
仁人が静かに言った。
「……何が」
「契約上の理由、と言った。どの契約のどの条項だ」
舜太は、一瞬、言葉に詰まった。
「意向表明書の、独占交渉の……」
「読んだか」
仁人は、書類の束から意向表明書を抜き出した。付箋がいくつも貼られている。仁人は、その一枚を開いた。
「独占交渉権が禁じているのは、Lueurが、他の買い手と買収に関する協議をすることだ。柔太朗が、ヴェルディエ傘下のメゾンを訪ねることは、禁じていない。相手は、そもそも、買い手のグループ内だ」
仁人の声は平らだった。感情がなかった。事実だけが並んでいた。
「表明保証も関係ない。共同制作の検討は、買収とは別の話だ。重要な事実の開示の対象ではない」
舜太は何も言えなかった。
舜太が、頭の中でそれらしく組み立てただけの理由を、一つずつ外していく。
「……せやけど」
舜太は、絞り出すように言った。
「柔の制作が止まる。新作が遅れる。キャリアのために」
「一週間だ。新作の締切は、三月末だ。影響はない」
仁人が、即座に返した。
「……」
「他に、理由があるか」
理由。理由。頭の中で探す。全部、正しい理由を。買収の交渉が乱れる。引き抜きの恐れがある。柔のキャリアのため。
全部、言った。全部、外された。
残っているものが、一つだけあった。
理由では、なかった。
「行かせへん」
声が出た。
会議室が止まった。
自分の声が、耳の中で遅れて響いた。低く、硬く、湿った声だった。営業の声でも、経営者の声でも、なかった。
「……今の」
柔太朗が言った。静かな声だった。
「本音?」
「ちがう」
舜太は即座に言った。
「ちがう。今のは、言葉の綾で」
「舜」
「柔のためやんか」
声が大きくなった。自分でも、驚くほど大きな声だった。会議室の壁に跳ね返った。
「全部、柔のためや。俺は、柔のために、」
「舜」
柔太朗は、もう一度、静かに名前を呼んだ。
「僕のため、って言うたびに」
柔太朗は、舜太の目を見た。涼しい目元が、じっと動かなかった。
「舜の顔、僕を見てないよ」
舜太の口が、開いた。言葉は、何も出なかった。
仁人が何かを言いかけて、やめた。机の上の意向表明書を静かに閉じた。
柔太朗が立ち上がった。
「少し、外で考えてくる」
声は穏やかだった。怒っていなかった。責めてもいなかった。それが、かえって、舜太には堪えた。
「戻るから。心配しないで」
柔太朗は、そう言って、会議室を出ていった。扉が静かに閉まる。
追いかけようとして、足が動かなかった。追いかけて、何を言えばいいのか分からなかった。
長い沈黙が落ちた。
舜太は、机に両手をついた。指が震えていた。
「舜太」
仁人が口を開いた。
「隠すな、と言ったのは、俺だが」
「やめろ」
舜太は遮った。
「やめてくれ。今は、聞きたない」
「……お前が隠している間、あいつは、ずっと聞いてきたんだろう」
「やめろって、言うとるやろ」
声が跳ねた。
「仁ちゃんに、何が分かる」
「……」
「仁ちゃんかて」
言うな、と頭の中の誰かが言った。けれど、口は止まらなかった。
「仁ちゃんかて、何か、隠しとるやろ」
仁人の顔から、色が消えた。
一瞬だった。表情は平らなまま、ただ、血の気だけが引いた。目の下の影が、急に濃く見えた。手が、書類の端を掴んだ。指の関節が白かった。
舜太は、その顔を見た。
言ってしまった、と思った。
「……仁ちゃん」
「……悪い。用事を思い出した」
仁人は、平らな声で言った。書類を、静かにまとめて立ち上がる。扉に向かう背中が、まっすぐだった。まっすぐすぎた。
扉が閉まる。
一人になった会議室で、舜太は、長い間動かなかった。
窓の外の空が、少しずつ暗くなっていく。蛍光灯が、白く机を照らしている。
行かせへん。
自分の声が、まだ、耳の中に残っていた。
契約上の理由。
そう言った。あの言葉が、正しいと思っていた。正しい理由が並んでいれば、それが本当の理由だと、思っていた。
けれど、仁人の一言で全部が外れた。
どこにも、書いていなかった。
意向表明書にも。表明保証にも。契約上の理由など、どこにもなかった。
机の上に、仁人が置いていった書類が、一枚残っていた。付箋に細かい字。あの男は、この一週間、これを全部、読み込んでいたのだ。舜太の理由を一つずつ、外すために。柔太朗のために。
柔が、いつか、本当に、行ってしまう。パリでも、どこでも。世界が、柔を見つけている。見つけてほしいと願ったのは、自分だった。
それなのに。
あったのは、ただ一つだった。
舜太は、自分の右手を見た。まだ、少し震えていた。
行かせへん。
それは、契約でも、キャリアでも、なかった。
考えたくなかった。考えた瞬間に、何かが、決定的に壊れる気がした。
だから、考えなかった。
考えないまま、ただ、机の上の手を見つめていた。
みら

1,537
#bl
コメント
1件
お疲れ!読み終わったわ…いやー、第19話、重かったね。 会議室の空気がひしひしと伝わってきて、息が詰まるような緊張感だった。特に仁人が契約書の付箋を読み込んで、舜太の「正しい理由」を一つずつ外していくとこ、あれは胸が痛かった。「行かせへん」って漏れた本音と、その直後に「違う」って打ち消す必死さが、本当にリアルだったな。 柔太朗の「舜の顔、僕を見てないよ」がズシッと来た。読んでるこっちもグッと考え込んじゃったよ…続きが気になる🔥