テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
少なくとも、知らなかったと思っている。
あの家に地下室があること自体は、ずっと前から知っていた。
階段は玄関の奥、使われていない物置の横にあって、扉には鍵もなかった。ただ、降りる理由がなかった。それだけだ。
両親は地下室の話をしない。
話題に出す必要がない、という顔をしていた。
それが普通なのだと、僕も思っていた。
その日もきっかけは些細なことだった。
両親が出かけていて、家には僕ひとりだった。
冷蔵庫を開けて、閉めて、やることがなくなって、家の中を意味もなく歩き回っていただけだ。
物置の前で足が止まったのは、偶然だったと思う。
地下室へ続く扉は、少しだけ埃をかぶっていた。
触れると、指先にざらりとした感触が残る。
――こんなところ、あったっけ。
そう思った瞬間に、もう取っ手を引いていた。
理屈より先に、体が動いていた。
階段は思ったよりも深く、冷たい空気が下から上がってきた。
一段、また一段と降りるたびに、外の音が遠ざかっていく。
電気をつけると、地下室は妙に整っていた。
使われていないはずなのに、埃は少なく、壁も床もきれいだった。
そして、奥に――人影があった。
最初は、人形だと思った。
次に、動物か何かだと考えた。
最後にようやく、それが女の子だと分かった。
彼女は、こちらを見ていた。
逃げる様子も、怯える様子もなく、ただ不思議そうに首を傾げている。
人間なのかどうか、すぐには判断できなかった。
あまりにも、そこにいるのが自然だったからだ。
しばらくの沈黙のあと、
彼女が先に口を開いた。
警戒ではなく、好奇心の声だった。
「……ひさしぶり。うえから、きたひと?」
そのときの僕は、
彼女の言葉の意味を、ひとつも理解できていなかった。
ひさしぶり、という言葉が、頭の中で引っかかっていた。
「……えっと、ここに人がいるとは思わなくて」
言ってから、変なことを言ったなと思う。
地下室に人がいるはずがない、という前提が、なぜか当たり前のように口から出ていた。
彼女は少しだけ考えてから、頷いた。
「そうだよね。ここ、あんまり人こないから」
あんまり、という言い方が気になった。
来ない、ではなく、あんまり来ない。
「……君は、ここで何をしてるの?」
尋ねると、彼女は困ったように微笑んだ。
「いるだけ」
それが、答えだった。
冗談かと思ったけれど、彼女の声はとても真面目だった。
ここにいることが、役割のように聞こえた。
「……ずっと?」
問い返すと、彼女は少し首を傾げる。
「たぶん。わたし、あんまり外、知らないから」
その言葉が、地下室の天井よりも低いところで鳴った。
「じゃあ、学校とかは……」
言いかけて、言葉を切った。
地下室で学校の話をするのは、急に残酷なことのように思えた。
彼女は気にした様子もなく、続ける。
「うえはね、ひかるんでしょう?」
「光る?」
「うん。昼になると、あかるくなるって聞いた」
聞いた、という言い方だった。
見たことがある人の言葉じゃない。
「……君、外に出たことは?」
そう聞いた瞬間、
自分が踏み込んではいけない場所に足を入れた気がした。
でも彼女は、静かに首を振った。
「ないよ。でも、だいじょうぶ」
どうして、と聞く前に、彼女は言った。
「ここ、わるくないから」
その言葉を、
僕はそのとき、安心の言葉だと思ってしまった。
――その意味を、
あとになって、何度も考えることになるのに。