テラーノベル
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日の当たらない路地裏、野晒しにされた水瓶の陰で乾いた血に汚れた猫が身を潜めている。鼻と髭をひくひくと動かし、濡れた眼を細め、瞳孔を尖らせて表の通りを見つめている。風が吹くと毛を立たせ、人の話声が聞こえると耳を立てる。春の温もりは猫にも分け隔てなく微笑むが、毛むくじゃらの被虐者は身を震わせるばかりだ。そこへ人々の怒声が聞こえてきて、猫はさらに身を縮める。
「あの化け物、どこに行った?」「おい、あんた、汚え猫を見なかったか?」「まじないを使うんだ。不吉な猫だ」「よりによって浄火の礼拝堂の方へ逃げてくるなんて、罰当たりな化け猫だこと」
背中の方から近づいてくる足音を聞き、猫は物陰から飛び出し、裏路地を走る。瘡蓋が破れて血を零す。叫び声が聞こえ、悲鳴が聞こえる。角を曲がり、柵を通り抜け、屋根へと上る。澄み渡った青空が広がり、強い風に吹きつけられる。
次の瞬間、景色が様変わりする。牢のように狭く、素朴で、しかし清潔な部屋で、鎮める者の視点は天井近くにある。
札が風に剥がされて別の何かに貼られてしまったのだ、と鎮める者は察する。一体何に貼られてしまったのか、新たな体を改めようとしたその時、足元に小さな娘がいることに気づく。鋸のような刃の奇妙な短剣を器用に使い、木彫りの人形を作っているらしい。そしてヤアもまた小さな偶像に貼られていることに気づく。高窓の窓枠に据えられた偶像は椅子に腰かけたような意匠の女神だ。他にも三体の偶像が並んでいる。
少女が手を止める。少女の見下ろした視線の先に陽光を背にした小さな人影が動いていたからだ。ふと見上げた少女とヤアの目が合う。まだ子供だが、黄色の瞳に熟した理性を宿している。ヤアの見たことがない顔立ちで、異人らしいが、勢いよく燃え上がる炎を模したようなその装いはよく知っている。それはヤアにとって恐怖の象徴だ。ヤアが目覚めて以来、信仰篤き人々はかの女神、礼拝堂の聖火母と彼らの女神に奉ずる巫女の権威のもとに、己の正体も分からない哀れな魔性を迫害してきた。
パデラの巫女を前にして小さな体を竦ませる。心の奥から突如湧き出した冷たい水に満たされたような気分になる。逃げるにせよ隠れるにせよ、後ろの窓から飛び出すだけだが、心の痛みが疼いて動けない。
少女の表情は見る見るうちに厳かさも吹き飛びそうな満面の笑みへと変ずる。「小職の祈りにこたえてくださったのですか!? 焚火様!」
待ちに待ち兼ねた春の陽気を出迎えるべく草原に躍り出た妖精のように弾む声がヤアを歓迎するように飛び跳ねる。
アロカッソ? パデラじゃないの? ヤアの頭が混乱している内に少女が抑えつけられていた撥条のように立ち上がる。
「今、誰か、神官長様を呼んでまいります!」と嬉しそうに叫ぶ少女をヤアは呼び止める。
「待て! 誰も呼ぶな!」思いのほか声が大きくなって、慌ててヤアは声を潜める。「アロカッソの、お願いだ。聞いてくれるよな」
「それはもちろん」と素直に答える少女だが不思議そうに見つめ返してもいる。「しかしなにゆえでしょうか? 小職は若輩の身、アロカッソ様の言葉を預かるには分不相応でございます」
「いや、良いんだ。若輩で結構。丁度いいくらいだ。丁度いい加減の若輩の、あんたに会うために、その、降臨? したんだ」
恐れ多さのせいか少女の笑みに影が差す。ヤアは菱形の札が剥がれないように抑える。蛇管を握りしめた豹の絵が描かれている。
その時、何者かの呼び声が聞こえる。「気焔? どこにいらっしゃるの? 大きな声で、いったいどなたとお話を?」
「真珠のごとき娘姉様です。小職の先輩で何かとお世話に……。アギノア姉様にも秘密にした方がよろしいのですか?」
「頼むよ、ヴァーナ。あんた以外に知られるわけにはいかないんだ」ヤアはどこからか近づいてくるアギノアに聞こえないように囁く。「秘密にしてくれ」
「秘密。そうでした。小職もこれは秘密なのです」
そう言うとヴァーナは素早く寝台を踏みつけて背伸びし、ヤアの貼られたアロカッソ神を含めて四柱の小さな偶像を手に取って、木屑と共に寝台の下に滑り込ませた。
直後、アギノアが扉を開いて現れる。ヴァーナよりも五つくらい年上で、端正な佇まいの婦人だ。巫女でなければ王侯の血筋を思わせる。
アギノアはヴァーナを見つめ、小さな部屋には他に誰もいないことを確かめる。
「とても大きな声が聞こえましたが、独りで何を?」
いったいどんな言い訳をすればいいのか寝台の下のヤアには分からなかったが、何にせよヴァーナの機転に任せるしかない。
「祈っていたのです。戦火が退くように、と。本来はアロカッソ様の足下に赴くべきなのでしょうが、礼拝の時間ではないので」
「そうですか。とても殊勝な心掛けですね。そのお気持ちを大事になさってください」
アギノアは不思議そうな顔を浮かべ、腰を屈めて木屑を拾い上げる。
「自身の居房も綺麗にできないようでは女神様方の礼拝堂を保つのも難しいことでしょう」
「失礼しました。気を付けます」
アギノアが不思議そうにヴァーナを見つめ、ヴァーナは強張った愛想笑いで応える。
まさか火の女神パデラの巫女に自分の正体を明かすわけにもいかず、ヤアはパデラの娘アロカッソ神のふりをしてヴァーナの懐で日々を過ごした。
とにかく早く逃げなくてはならない。パデラ神の信徒たちにとって不吉な魔性が神殿に潜り込んでいることなどあってはならない。かといって偶像の姿のまま神殿を飛び出して、もしも姿を見られでもしたら彼らの燃え盛る憎悪に油をかけることになるだろう。
しかし誰にも見られるわけにもいかないと説明した手前、ヴァーナから離れることは困難を極める。巫女ヴァーナの居房には新たに彫っている偶像を除けばパデラ神と四柱の娘神の小さな偶像があり、神にまつわる記念すべき日やその日に捧げる祈祷対象によって持ち歩く偶像を変えていたそうだ。そして今はアロカッソ神の偶像を肌身離さず持ち歩いている。それが神に与えられた使命であるかのように。
「どうして偶像なんて自作しているんだ? こういうのは専門の職人がいるんだろう?」
星明かりだけを頼りに女神たちに祈るヴァーナを、ヤアはいつもの定位置から見下ろしている。
「自身で作った方がより思いを込められると思ったのです。そして本当にアロカッソ様に届きました」
本当にそう思っているのだろうか、とヤアは首を捻る。隠しようのない本体の札についてヴァーナは尋ねてこなかった。
「平和祈願だっけ? 偉いね」とヤアは心にもないがヴァーナの喜びそうな言葉を選ぶ。
「ありがとうございます。ただ、願いはもう一つありまして……」
「何? 応えられるか分からないけど聞かせてよ」
「女神さまとお友達になりたくて」
ヤアは声が響かないように抑えて笑う。
「不敬なのかどうか分からないけど面白いね。だいたい何でアロカッソに、あたいに願うの? 平和の神様だろう?」
「焚火は、同じ火を共に囲むことは、友誼の証です。アロカッソ様は友情の神様としても知られているのです」
「へえ、そうなんだ。あたいは知らなかったよ」
疑われることに何の得もないどころか身の危険もあるはずだが、ついヤアは意地悪なことを言ってしまって後悔する。
ヴァーナのおしゃべりに付き合うのは夜だけだ。昼も他の巫女とよく喋っているが夜ほどは喋らない。その理由をヤアは尋ねない。女神様とお友達になりたい、というヴァーナの願いを耳にしたのはその夜だけだった。
まるで逃亡者を監視するように星の瞬く夜、ヤアはヴァーナの居房の、ヴァーナの懐を抜け出した。偶像の代わりになるものを探しながら、陰から陰へ、敷地の縁の石垣をたどるように礼拝堂を巡る。声や足音が聞こえれば単なる偶像のように身を横たえ、過ぎ去るのを待つ。
街へと続く正門の他に王族と位の高い聖職者を埋葬している墓地が裏にある。墓所を囲む石垣は低いので何とか這い上がれはしないかと考えていたのだった。
何度目かの足音が聞こえ、ヤアは茂みに飛び込んだ。見回りは昼も夜も絶えることなく、侵入者や不吉な存在の気配を探っているのだ。
やり過ごし、茂みを出ていこうとしたその時、直ぐそばに何かが横たわっていることに気づいた。ヤアは悲鳴を飲み込み、闇の中で身動きしないそれを見つめる。薄汚れ、血に塗れたそれは猫だった。ヤアがずっと間借りしていた猫だ。恩義ある猫が冷たくなっている。
何より今の今まで忘れていたことにヤアは衝撃を受けた。なんと薄情なことだろう。人間ほど明確ではないが、札を通じて心を通わせ合った猫だ。人間からの迫害さえも、野良の宿命と見なしていた気高い猫だ。ヤアが遠慮し、煉瓦に身を寄せていた時も変わらずついてきた。友だったはずなのに、自分のことばかり考えていた自分に気づく。逃げ延びたかどうかの心配すらしていなかった。
ヤアはすすり泣く。気高い猫の死を悼み、情けない己を蔑む。
「こんな夜中に何をしていらっしゃるのですか?」
びくりと飛び退き、逃げかけるがその声がヴァーナだと気づいてヤアは立ち止まる。罪と恥で口籠るが、許しを求めるように告白する。
「友が死んでしまった。いや、死なせてしまったんだ」
火の消えた燭台を持ったヴァーナは何も言わずにその場を離れるとすぐに戻ってきて、猫を埋葬布に包んだ。そしてヤアを懐に仕舞うと猫を抱えて運ぶ。ヤアはいつぶりか自分が震えていることに気づく。通り抜けた礼拝堂の女神たちの責めるような視線から逃げるように目を瞑る。そのままヴァーナは貴き人々の眠る陵へとやってきた。ヴァーナは猫を埋葬しようというのだ。
「良いのか? こんなところに埋葬しても」とヤアは思わず尋ねる。
「アロカッソ様の友です。他に相応しい場所なんてありませんよ」
ヴァーナとヤアは途中で倉庫から持ってきた円匙で素早く地面を掘り、ヴァーナの手で小さな窯を作る。
「火葬するのか? 怒られやしないか?」
「略式です。すぐに済ませます」
ヴァーナは遺骸に聖油をかけて聖句を唱える。猫であること以外は正式な死出の徒の冥福を願う六柱の女神への祈りだ。ヴァーナの掌の間から火の粉が零れ落ちる。火の粉がすぐに消えてしまうのでヴァーナは正式ではない強力な呪文を加えて埋葬布に引火させる。罪無き猫が女神の燃える手で召し上げられ、魂は煙に乗って静かに天上へと運ばれていった。
「ありがとう、ヴァーナ」
「慣れていますから」
「巫女は火葬も任されているのか?」
「それもありますが、それよりずっと前から数をこなしてきたのです。今の戦争の前、この国は私の故郷と戦っていました。私は神に祈らぬある部族の子供でした。正確には独自の神を祀っていたのですが。幾多もの争いがあり、犠牲があり、身内を埋葬してきました」
「じゃあどうしてパデラの巫女なんて。憎いだろう?」ヤアは自分のことを言うように尋ねた。
ヴァーナは火を見守りながら頷く。
「初めはそうでした。パデラの名を恐れ、憎んでいました。挙句、生き残りの娘を巫女にするなんて、なんて傲慢な連中なのだろう、と。でもここで学んで知ったのです。女神の教えのどこにも他者を害せよ、なんて記されていません。結局のところ、彼らが勝手にやったことなのです」
「それは、そうなのかもしれないけどさ」ヤアの痛みも悲しみも心の奥底で疼いている。では誰が悪いのだと問うている。「あたいはさ、アロカッソ様じゃないんだよ」
ヤアの静かな告白にアロカッソ神の偶像を抱くヴァーナは無言で頷く。
「パデラ神の名に怯えていたのはあんただけじゃないのさ。隠れて、逃げ回って、挙句友達を死なせちまった。言われるまでもないだろうけど、あたいのことは黙っててくれ」
「心得ています。今度は小職がパデラ神の名の下に、いいえ、私が友達として守ってみせます」
「ありがとう。騙して悪かったな」
ヴァーナは最後の仕上げに窯を崩し、土の下にヤアの友を葬る。
「別に騙されていません。小職が勝手にそう思い込んだのです」
「毎晩毎晩熱心に祈りを捧げていたものな」
「偶像なのは間違いじゃないでしょう?」と笑うヴァーナはどこか寂しげだが少しいつもの気分を取り戻したようだった。
「違いないね」
「何と呼べば?」
「ヤアと呼んでくれ」
「私のことはヴァーナと」
「知ってるよ」
ヴァーナはヤアを友達だと言ってくれたが、今なおヤアは、だからこそ逃げ出したかった。魔性と巫女が仲良くしていて良い訳がない。
決意を固めたのは敵の軍勢が迫っているとの報せがあり、不安に駆られる市井の人々の野蛮な噂を聞いてからだ。最後に見られた猫の姿のせいか、街のあらゆる猫を殺すように主張する者たちが現れたのだった。すでに行動に移している者も何人かいるらしく、中には飼い猫に手を出すものがおり、あちこちに混乱と争いが起きている。神殿に訴え出る者も日に日に増えていた。
もはやこれまでとヤアは覚悟を決める。生き物ではない何かで人々の前に姿を現し、姿をくらまさなくてはならない。
ヴァーナの用意した古びた手桶に乗り移り、ヴァーナと共に街の端の方へ向かおうと正門へ向かう。
「上手くいくでしょうか?」とヴァーナは不安を吐露する。
「大丈夫だよ。町中の手桶が壊されてしまうかもしれないけどね」
「ことが終わったらどこで落ち合いますか?」
「居房で待ってればいいよ。高窓を開けておいて」ヤアは安心させるような落ち着いた声で説く。そして「頃合いを見て、必ず戻ってくるから」と嘘をつく。
門をくぐったその時、ヴァーナが立ち止まり、空を仰ぐ。
「何だよ、あれ」とヤアは言葉を零す。
西の空に黒煙が立ち昇っている。人々も徐々に振り返り、火事じゃないかとざわめき始めたその時、真っ赤な炎と真っ黒な煙の大爆発が起きた。遅れて音と共に衝撃波が到来し、辺りを吹き飛ばす。人々が地面に転がり、屋根瓦が木の葉のように舞っている。
それがただの火事ではないことに気づくと人々は恐慌に陥った。
西から勢い盛んに渦巻き、辺りを焼き尽くしているのは神秘を種火とした青白い炎だ。積み重なる粘土のように塊になり、鋭い鉤爪を持った山椒魚のような姿になる。自信に満ちた魔法使いほどこれ見よがしに魔法の見た目にこだわるものだ。人為の蒼炎が恐怖の象徴を模して街を呑み込んでいく。
「不吉の魔性だ!」「だが猫じゃないぞ!」「いや、女神の天罰じゃないか!?」「パデラの怒りだ!」
どちらにしても冤罪でしかない発想が人々の間を駆け巡り、混乱を煽り、争いに拍車をかける。
ヤアは何とか身を起こし、ヴァーナの元に駆け寄る。
「大丈夫か? ヴァーナ」
「ええ、大丈夫です。ヤア、こちらへ」
ヴァーナの陰に隠れるように引っ張られたが時すでに遅かった。人々の視線はまっすぐにヴァーナに向けられている。呆然とした表情、絶望した表情、そして憎悪の表情。
「巫女様が魔性をかばった?」「嘘よ」「神殿に招き入れていた?」「見て、あの顔。例の蛮族だよ」「復讐だ。敵軍に通じていたんだ」「西方の災厄を手引きしたのか?」
人々はヤアを刺激することを恐れるかのようにゆっくりと起き上がり、そろりそろりとヴァーナの元へ近づいてくる。何をしようとしているのか、彼ら自身も分かっていないに違いない。恐怖と憎悪が駆り立てているのだ。負の心が目を塞ぎ、敵を排除せよ、と耳元で囁いているのだ。
ヤアが、手桶の魔性が飛び出す。
「おい! あたしもヴァーナも関係ない。それにもしも関係していたとしても、そんな場合じゃないだろう! 火が迫っているんだ! 敵が迫っているんだろ!?」
しかし誰一人聞く耳を持たない。何を恐れているのか、耳を塞いでいる者までいる。
「ヴァーナ、逃げよう」ヤアはヴァーナに手を貸して立たせる。「悪いけど、もう駄目だよ。ここも、こいつらも」
しかしヴァーナは毅然として首を横に振る。
「いいえ、ヤア、貴女も言ったでしょう? そんな場合じゃありません。火を消すんです。侵略者と戦うんです」
「何を言ってんだ! 平和を求めていたんじゃないのか!?」
「平和のために戦うのです」
ヴァーナの決然とした表情は神々に祈りを捧げる際の表情によく似ていた。
「何だよ、それ。だいたいお前に何ができるんだよ!?」
「できることをするのですよ、ヤア。自分にできることを」
微笑みさえするヴァーナを見て、ヤアはため息をつく。呆れてもいたが、それが正しいと思えた。
「分かったよ。じゃあ、ヴァーナは巫女らしく祈ってな。あたいはあたいらしく、できることをするよ」
ヤアは己を睨みつける人々を睨み返す。嫌われたって構うものか、と開き直る。
手桶の魔性はみるみる姿を変える。筋肉が膨張し、黄金の体毛に覆われる。馬ほどの大きさ、しなやかな体は豹のようだが頭は人間の女だ。人面だが瞳も牙も鋭く、獣の本性は剥き出しだ。長い髪は黒雲で辺りを漂い、その内奥に稲光を隠している。
巨大な蒼火の山椒魚は魔性の力に気づいたようで、燃え盛る双眸をこちらに向ける。ヤアが魂まで凍り付かせるおぞましい声で吼えると、呼応するようにして焼き焦がされた空に黒雲が立ち込めた。まるで王に付き従う軍勢のように、開戦の号令を待っている。山椒魚の歩みが止まらないことを見止めるとヤアは呪文も儀式もなしに豪雨と稲妻を呼び起こし、飼い慣らされた猟犬のように青炎の山椒魚へとけしかけた。
ヴァーナのパデラ神に通じる祈りにも助けられて雨風は吹き荒び、その爪と顎をもって山椒魚に飛び掛かる。山椒魚はますます青白く燃え盛って熱を放ち、蒸気を噴き出しながら嵐に抗う。しかし初めから終わりまで無駄な足掻きだった。家々を無残に焼いた青白い巨大山椒魚はヤアの雨風に押し負け、組み伏せられた。そして自軍の敗北を悟った敗残兵の如く火という火が街から立ち去った。
雨に濡れた勝利を得て、しかしヤアの表情は曇っている。火を鎮めても、人々の疑心は消えていない。
「さあ、仰ぎ見よ! 劫火をも鎮めんとする嵐を! そして刮目せよ! 聖火に仇なす不吉と謗られし魔性の行いを!」ヴァーナが人々に一喝する。一介の巫女に人々は耳を傾ける。「火は消えます。しかしただそれだけのことです。神は人の手に火をお譲りになりました。故に人の手によって良き火も悪しき火も再び燃え上がることでしょう。ならば決して消えぬ真の火とは、篤き信仰に他なりません。はたして火の消えた者はおられましょうか?」
答える者はいない。
ヤアは手足の生えた手桶の姿へと戻る。
「さあ、火は再び灯されます。しかし今やパデラ神に加え、荒々しき雷と嵐が我らの味方です。今はなすべきことをなしましょう」
人々は立ち上がった。決して何もかもの疑いが晴れたわけではないが、敵はまだおり、戦いは始まったばかりなのだ。
ヴァーナは手桶のヤアを持ち上げる。その手は風雨と緊張によって氷のように冷たく、震えている。
「ありがとう、ヤア。しかし、きっと人々は貴女も戦いに加わることを望むでしょう。去るなら今しかありませんよ」
「去って欲しいの?」
「そういうわけではありません。ですが――」
「あたいはさ、もうあたいの知らないところで友達が死ぬのは真っ平だよ」
ヴァーナは同意を示すように頷いた。
「では友人として共にありましょう。そして叶うことならば貴女が皆の友になれるよう尽力いたします」
「そこまでは望んでないけど、まあ悪くないね」
ヤアは照れ臭そうに微笑んだ。
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