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指輪を交わしてから、二人の間の距離は、これまでにないほど近くなっていた。
だが、その分だけ、まだ埋まらない一線の存在が、かえって際立つようにもなっていた。
「なぁ、柔太朗さん」
閉店後のカウンター、舜太は少し酔いの回った顔で、隣に座る柔太朗の肩に頭を預けていた。
「もう、遠慮せんでもよくないですか」
「何のこと」
「分かってるくせに」
舜太は顔を上げ、柔太朗の首筋のあたりを、指先でそっとなぞった。今度は誘惑のためではなく、純粋な好奇心と、もどかしさからくる仕草だった。
「俺の血、そんなに美味そうですか」
「……そういう聞き方、やめてほしいんだけど」
柔太朗の声が、わずかに強張った。舜太はその反応を面白がりながらも、今度は真剣な調子で続けた。
「俺、ちゃんと分かった上で言ってます。柔太朗さんが、俺のこと本気で欲しがってくれてるん、もう知ってるから」
「それとこれとは、話が別だよ」
「なんでですか」
柔太朗は言葉に詰まった。理由なら、いくつも並べられる。人間の血を吸うという行為が、単なる快楽の共有では済まないこと。一度その一線を越えれば、これまで保ってきた理性の抑制が、どれほど脆く崩れるか分からないこと。そして何より──。
「──怖いんだ、俺が」
ようやく絞り出したその言葉に、舜太は目を見張った。
「怖いって、何がですか」
「一度、味を知ってしまったら。もう、加減が利かなくなるかもしれない。舜太くんを、傷つけてしまうかもしれない」
その告白は、これまでの余裕たっぷりな柔太朗からは想像もつかないほど、弱く、不安げだった。舜太はしばらく黙って、その横顔を見つめていた。
「柔太朗さんでも、そんな怖がったりするんですね」
「馬鹿にしてる?」
「してない。むしろ、ちょっと安心した。俺だけやなくて、柔太朗さんも、ちゃんと怖いもんあるんやなって」
舜太はそう言って、柔太朗の手をそっと握った。
「だったら、余計に、俺から言わせてください。怖くても、俺は柔太朗さんに、噛んでほしい」
「舜太くん」
「想像したことあるんです。柔太朗さんが、俺の血に理性飛ばして、我を忘れてくれるところ。──正直、めちゃくちゃそそられるんですよね、それ」
あまりに率直な物言いに、柔太朗は思わず息を呑んだ。
「──今日は、まだ駄目」
長い沈黙の後、柔太朗はそう答えた。
「なんでですか」
「まだ、覚悟ができてない。もっと、ちゃんとした形で迎えたい。舜太くんの命を預かることに、変わりはないから」
その慎重さは、柔太朗なりの誠実さの表れだった。舜太はそれを聞いて、少しだけ拍子抜けしたように笑った。
「分かりました。なら、待ちます」
「怒った?」
「いや。むしろ、余計に欲しくなりました、そういうとこ。焦らされてるみたいで」
「焦らしてるつもりはないんだけど」
「分かってますって。やから、余計にタチ悪いんですよね、柔太朗さんは」
舜太は苦笑いしながら、柔太朗の肩にもう一度頭を預けた。
窓の外では、静かな夜が更けていく。
「柔太朗さんが、ちゃんと覚悟決めてくれるまで、俺は逃げも隠れもせえへんので」
「知ってる。舜太くんは、そういう人だから」
柔太朗はそう言って、舜太の頭を優しく撫でた。その仕草には、これまでの誘惑めいた駆け引きとは違う、確かな慈しみが込められている。
まだ越えていない一線。だが、それを越える日は、もう遠くないところまで近づいていた。二人ともそのことを、はっきりと予感していた。
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