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舜太を招き入れたのは、店の奥にある、これまで一度も足を踏み入れたことのない小さな部屋だった。生活感のほとんどない、必要最低限の家具だけが置かれた空間。窓には、遮光のための重いカーテンが引かれている。
「ここが、柔太朗さんの部屋なんですね」
「うん。あんまり、誰かを入れたことはないけど」
柔太朗の声には、いつもの余裕とは違う、微かな緊張が滲んでいた。舜太はそれに気づきながらも、あえて何も言わず、静かに部屋の中央に立つ柔太朗へと歩み寄った。
「今日は、覚悟決めてくれたんですか」
「──うん」
短い返事だったが、そこに込められた重みは、これまでのどんな長い言葉よりも確かだった。舜太は柔太朗の頬に手を添え、そっと顔を近づける。
キスは、いつものように甘く、そして少しだけ性急だった。だが、その意味合いは、以前とは決定的に違っている。誘惑のための手管でも、駆け引きの一手でもない。ただ純粋に、互いを求め合う気持ちだけが、そこにはあった。
唇が離れた後も、二人の間の距離はそのまま縮まったままだった。舜太の手が柔太朗の背に回り、柔太朗の指先が、舜太の襟元にそっと触れる。言葉は、もうほとんど必要なかった。
灯りを一段落とした部屋の中、二人は互いの体温を確かめ合うように、ゆっくりと寄り添っていった。
「今、なら」
舜太が、掠れた声で囁いた。いくつかボタンを外したシャツの隙間から、肌が間接照明の淡い光を受けて、いつもよりずっと無防備に晒されている。舜太は自ら首を傾け、柔太朗にその首筋を差し出した。
「噛んでください、柔太朗さん」
「……本当に、いいんだね」
「何回言わせるんですか。もう、とっくに覚悟決まってます」
柔太朗は、舜太の首筋に顔を寄せた。鼓動の音が、いつもよりずっと近くに、はっきりと聞こえる。血の匂いが、これまで感じたどの時よりも濃く、そして甘く香っていた。
「痛かったら、言って」
「言わないと思います、たぶん」
その軽口に、柔太朗は小さく笑い、そして、静かに牙を沈めた。
一瞬、鋭い痛みが走った。だが、それはすぐに、別の感覚へと溶けていく。柔太朗の口の中に流れ込む血の味は、これまで味わってきたどんな人間の血とも違っていた。濃密で、甘く、そしてどこまでも温かい。理性の奥に押し込めていた欲求が、堰を切ったように溢れ出す。
「──っ、柔太朗さん」
舜太の声が、小さく震えた。痛みは確かにあるはずなのに、それ以上に強く込み上げてくるのは、満たされていくような、不思議な陶酔感だった。全身の力が抜け、舜太は柔太朗の腕の中に、体重を預けるようにして身を委ねる。
柔太朗もまた、これまで感じたことのない感覚に包まれていた。血を吸うという行為が、これほどまでに情愛と分かちがたく結びつくとは、想像したこともなかった。舜太の鼓動、体温、そして与えられる信頼のすべてが、ひとつの深い満足として、柔太朗の中に流れ込んでくる。
──君を落としたい。
その気持ちで始まったはずの関係だった。
今胸を占めているのは、まったく違う感情だった。
──君に、落とされている。
その事実を、ようやく、抵抗なく受け入れることができた。
しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。舜太の首筋には、小さな傷跡が残っている。柔太朗はそこに、労わるように舌を這わせた。傷口は、驚くほど早く塞がっていく。だが、その周囲には、赤みを帯びた跡が、くっきりと浮かび上がっていた。
「痕、残っちゃった」
「いいんです、それは」
舜太は気怠げに笑いながら、指先でそっとその跡に触れた。
「これ、なんか、キスマークみたいですね」
「そうかもね」
舜太は、傷跡の残る首筋を、まるで勲章のように誇らしげに撫でた。
この跡が消えるまで、しばらくは人に見られないよう気をつけなければならないだろう。だが、そんな不便さすら、むしろ愛おしいものに感じられた。
──柔太朗さんが、俺だけに残した跡。
カーテンの隙間から漏れる淡い月明かりの中、二人は言葉少なに、ただ互いの体温を分け合っていた。