宿命に導かれるようにして、ユカリは再び聖市街を囲む大いなる壁の前へとやってくる。
太陽は絶え間なく昼の眷属を地上に遣わしていた。熱は人の心を浮つかせ、光は人の頭を垂れさせる。ただ濃く暗い影だけが圧制の過ぎ去るをじっと待っていた。
あいかわらず、門の前には厳めしい面構えの門番が陣取り、子供たちを検めている。玉の汗にまみれ、子供たちの失礼で奔放な態度にも、決して苛立ちを見せず、淡々と仕事をこなしている。
あそこを通り抜けることができるのは子供だけだ。ユカリは子供といえる年齢ではあるが、自分の背の高さが心配になった。パディアやビゼに比べればきちんと子供に見えるはずなのだが。
魔導書は置いてきた。所持品検査が何を探すために行われているのかは明らかだからだ。しばらくすれば魔法少女の魔導書である『わたしのまほうのほん』は、優秀な魔法使いでさえも明らかにできない不思議な力で勝手にユカリを追ってくる。
何とか自然体に、将来に不安のない子供らしく瞳を輝かせ、何の企みも感じさせないように、開かれながらも通ることのできない門へと近づいていく。門番たちの中に昼前に尋問してきた兵士もいた。兵士たちはひそひそと会話した後、ユカリの周りをぐるりと回る。
そもそもユカリは今、何も持っていない。いつものように裾を捲り上げているので隠すところもない。ユカリは拍子抜けするほどにあっさりと城門をくぐった。
そこに広がっていたのはことごとくが神へ捧げられた信仰の街だった。神を称えるありとあらゆる文句が刻まれた天を支えるが如く巨大な柱が立ち並び、雲にも届かんという大きさの二柱の白大理石の女神、呪いの乙女と祈りの乙女が東西の端に向かい合って立っている。片や神に歯向かうように両腕を大きく広げて天に咆哮し、片や勇ましき息子を失った王母のように手を組んで顔を伏せている。
建ち並ぶ建物はどれもが神秘を内に秘めた神殿の如く荘厳な外観だ。街には女神たちを見出した預言者や古き王、諸国に名を轟かせたヘイヴィルの父祖の吸った空気が今も漂っている。
ユカリの心は自然と平穏になった。平穏であることを押し付けられたような、鳥が鳴くのを待つ早朝に地平線の黄金を眺めて自然に黙ってしまう時のようだ。しかし厳かな雰囲気の漂う街で子供たちは元気に遊びまわっている。
話によると数千人の子供たちがこの街で暮らしているという話だ。子供たちの街の出入りは自由だが、夜眠る場所はこの聖市街だと決められている。時折、親に会いに行くことを除けばほとんどがこの街に留まっているらしい。元々新市街に住んでいた幼い子供などはとても一日の内に行って帰ることなどできない。
ユカリはひとまず安心する。少なくとも街全体に迷いの魔法がかけられているということはないようだ。門から真っすぐに伸びる大通りの先にはこの街の元首だった執政官の官邸がある。ユーアはそこに住んでいるという噂だ、とユカリはビゼに教わった。ネドマリアとショーダリーの居場所は分からない。
「ユカリ、さん。ユカリさんもここで暮らすの?」
ユカリは驚き、振り返る。いつの間にかユカリのそばにいたその少女はメアだった。
「何だ、メアか。ううん。友達に会いに来たの。メアはここで暮らしてるんだよね?」
あの後、ユカリたちはメアを家に帰したが、帰る先はこの街なのだから、ここにいて当然だった。先ほどまでと比べれば落ち着いている様子だ。
「うん。あたしも友達と一緒に暮らしてる。ここで暮らすようになって友達が沢山増えたんだ」
少なくともその表情からはあまり辛い思いをしているようには見えない。
「子供だけで生活するのは楽しそうだね。でも不自由はない?」
メアは大通りで遊ぶ子供たちをしばらく見て、やっと言った。
「うーん。どうかな。お父さんとお母さんにあんまり会えないのは寂しいかな。泣いたりはしないけどね。そういう小さい子はよく泣いているからあたしたちが面倒見てるんだよ」
「メアはお姉さんなんだね。心配なのはちゃんと食べられてるのか、だけど」
「ほとんどは大きい子が作ってるよ。材料は大人の人が何でも持ってきてくれるんだ」とメアは笑って言った。
ユカリは子供だけの生活を想像して問いかける。「喧嘩にはならない?」
「ならないよ。神様が見てるんだから」
何か争いがあればユーア達が罰を下すのだろうか、とユカリは想像する。
「でも、神様が降りてきた時、皆が皆全員が従う訳ではないでしょう? ちょっと抵抗すれば自由に動けるんだから」
ユカリの言葉を聞いてメアは神妙な顔になる。
「そうだけど、どっちにしたって、神様に身を任せた他の子たちに抑えられるよ」
「それもそうか」とユカリは納得する。「それで神様に身を任せるように教えたっていう、ネドマリアとショーダリー、それに預言者様はどこにいるの?」
「ネドマリア様のことはあまり知らない。外で飲み歩いているのを見たって人はいたけど。ショーダリー様はお仕事の時以外はよくこの先の広場で男の子たちと遊んでる。預言者様は見たこともないよ。しっせーかん様のかんてーに住んでるって聞いたことがあるけど」
その時、他の子供たちがユカリたちの元へやってきた。
「どうしたの? お姉さん」という誰かの問いかけにメアが代わりに答える。
「ネドマリア様かショーダリー様のこと知らないかって」
子供たちが口々に答える。「あっちで見たよ」「いつもの広場」「追いかけっこしてた」
ユカリは子供たちに手を引かれ、大通りの突き当りにある広場へと向かう。
青々とした芝生が植えられ、その中心には磨き上げられ照り輝く青銅の直方体が横たえられている。その青銅は人の形に刳り抜かれていた。これもまた青銅像と呼ぶべきなのだろうか。人の形の空白は寝姿で寛いでいるようで、何もない虚空に二柱の女神と同様の存在感を示していた。
その周りの芝生で、野原を始めて見た野兎のように、子供たちが無邪気に滅茶苦茶に駆け回り、それをショーダリーがそばで眺めていた。子供たちが駆け寄ってくるとぎこちないながらも微笑み返している。とても人形のように操られているようには見えない。
その振る舞いを見てパピではないと確信したが、ユカリの覚えているショーダリーとはまるで別人だ。かつて緊張感に満ちていた顔立ちは緩み、子供たちのじゃれつきに構っている。
しかしショーダリーがユカリの姿を認めるとその表情は一変した。勇気を奪われた時ほどではないが、夕暮れに大きな影を見かけた子供のように、怯えが顔に現れていた。何もない芝生で隠れるかのように大きな体を縮こませ、ユカリから目を離さないように退いていく。
すると無邪気に遊んでいた子供たちはショーダリーの様子を察し、勇ましくもユカリの前に立ちはだかるのだった。
「ショーダリーさんを虐めるな」「悪者め。あっちへ行け」「僕が相手だ。かかってこい」と、幼くも勇敢に気勢を上げる。
ユカリは自分の見ているその光景をどう受け止めればいいのか分からないままに、その大男にぶつける言葉を探す。
「随分変わったみたいですね」ユカリはこれ以上子供たちを刺激しないように立ち止まった。「随分な子供嫌いだと思っていたんですけど」
「私は、私は」ショーダリーは枯れた泉を掘り起こすように喉の奥から言葉を絞り出す。「怖くて仕方ないんだ」
ショーダリーの言葉を聞いた子供たちの視線は触れれば皮膚を裂きそうなほどさらに鋭くなる。
「あなたが攫って売り飛ばした子供たちもそう感じていたと思います」ショーダリーが何か言うのを少し待ってさらに続ける。「一体何をしているんですか? 何をしているつもりなんですか? 教えてください」
「罪滅ぼしをしたいんだ」
ショーダリーの言葉を振り払うようにユカリは語気を強める。
「正直に言って、あなたが生かされているのが不思議です。ショーダリーさん、ユーアの生い立ちを知ることはできましたか?」ショーダリーがかぶりを振るのを待ってユカリは続ける。「ワーズメーズでユーアが、いえ、あの時喋っていたのはクチバシちゃんなのかな。ワーズメーズの人攫いについて話していました。あの時のユーアの瞳は今も覚えています。悲しみや怒りとは違う。寂しい目だった。ユーアがただ一人荒野の蛮族の元で暮らしていたことから考えれば、ある程度想像はつきます」
「ユーアに関しては、私ではない」ショーダリーは俯き、言葉を探す。「取引については全て記録に残していた。その記録を基に今子供たちを探している」
「それが罪滅ぼしですか。それで子供たちが納得するとも思えませんね。かといって私に、ユーアが信じているあなたの罪滅ぼしを邪魔する権利も動機もありませんが。でも、もしもあなたが魔導書を持っていて、それを私に渡す気がないなら別です」
ユカリは合切袋の中に手を伸ばす。魔導書はもう戻って来ていた。それに、戻ってくるのは『わたしのまほうのほん』だけのはずだが、その間に挟むことで他の全ての魔導書もユカリの手元にやって来ていた。
「持っていない。本当だ」ショーダリーの声が上ずる。「誰がどの魔導書を持っているのかも知らされていないんだ」
「そうですよね」
「ユーアたちの魔導書も手に入れるつもりなのか?」
「そのつもりです。何か事情があるのなら、ある程度待つのは構いませんけど」
「そんなことをすればこの幸せの国は崩壊する。このごっこ遊びのような国が形を保っていられるのは魔導書の力があってこそだ。もしもあれだけの数の魔導書を一つの意志の元に駆使したならば大陸を治めるのも容易いことだろう」
「言っている意味が分かりません。崩壊しても何の問題もありません。ただのヘイヴィルに戻るだけです」
「いいや、元のヘイヴィルには戻らないし、ことはヘイヴィルだけでは済まない。都市国家同士の同盟、その均衡は既に歪んだんだ。元々ミーチオン都市群にあると世の中に知られていた魔導書はたったの五つだ。コルボール山に一つ。ワーズメーズに二つ。ヘイヴィルに二つ。この事実を基に均衡が生まれたんだ。それが七つに増え、ヘイヴィルに集約し、そしてその後その全てが失われればどうなるか」
「どちらにしても、この世にある魔導書は全て私が集めるつもりです」
ショーダリーは口を大きく開けたまま、次の言葉は出てこなかった。
子供たちは話の内容についていけなかったのか、飽きてしまったのか、広場に散らばってしまった。
「それよりショーダリーさん。ヘイヴィルに二つって言いましたね。一つと聞いていたのですが」
ショーダリーはにやりと口角を上げる。その表情には見覚えがあった。
「おっさん、何を話しているのかと思えば、やっぱりお前か」とショーダリーは言った。
「パピ?」
「やあ、さっきの今で行動が早いね」
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