一人の少年が虚ろな表情で駆け寄ってきて、微笑みを浮かべるショーダリーに羊皮紙を二枚手渡した。
「ショーダリーさん」ユカリは目の前のその大きな体の奥に引きこもっているショーダリーに呼びかけた。「その魔法は子供の力でも抵抗できるはずでしょ? あなたの罪滅ぼしにパピが必要だとは思えないんだけど」
「無駄だよー。きちんと調教してるからね」ショーダリーはにやにやと馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
ユカリの呼びかけに応じない。確かにショーダリーはパピに逆らうつもりはないようだった。
ユカリは小さなため息をつき、改めてパピに尋ねる。「それで考えはまとまったの?」
「考え?」
「食堂で言ったこと。ユーアの幸せを願っているんでしょう?」
微笑みは消え、冷たい表情でショーダリーは傾げる。「僕たちに消えろって言いたいの?」
「ううん。私に従えってわけじゃない。消えるにせよ、ユーアの心と統合するにせよ。あるいはどうもしないにせよ。それはあなた自身が受け入れたことでなければ苦しみは消えないと思う」
「ふうん。まあ、どっちにしたってお前に教えてやる必要はないよ。そもそもお前の言うことが本当のことか分からないし。僕はやりたいようにやらせてもらう。面倒は嫌いなんだ。ユカリ。あいつらはどこ? ビゼとパディアだっけ?」とショーダリーは【囁いた】。
目には見えない強力な力が、しかし苦痛を伴わせずにユカリを強制する。
「二人は私の合図を待ってる」ユカリの口と舌が何の躊躇いもなく白状する。「迷いの魔法がかけられていないか、迷わずの魔法の魔導書を手に入れるかのどちらか。――秘密の暴露の魔法だね」
ユカリはハルマイトのことを思い出して胸が痛んだ。
「あと、ねえ、これ」と言ってショーダリーがユカリに見せた魔導書は白紙だった。トイナムの港町で焚書官チェスタからパピが奪ったものだ。「何で白紙なのか分かる?」とパピは【囁く】。
「分からない」
「そっか。何なんだろうね、これ。まあ、触媒として使うだけでも十分なんだけどさ」
パピはごく単純な一文字、【怪力】を意味する古より伝わる言葉を唱える。戦士なら誰もが知るそのささやかなおまじないも、二つの魔導書を触媒にしたためにショーダリーの巨大な肉体をさらに膨れ上がらせた。銅色の髪を逆立たせ、灰色の目を爛々と燃え上がらせ、ショーダリーは空白の人の形を象る青銅像を片手で引っこ抜き、ユカリに投げつける。
「避けろ!」ユカリがそう【叫ぶ】と、ユカリ目掛けて飛んできた青銅の塊は形を変えて、剣と盾を持つ甲冑の姿になり、投げ飛ばされた勢いを殺しつつユカリを避けた。
「便利なものだね。その魔法」とショーダリーは吠える。
「おお! 我が主よ!」守護者はユカリを跨いでショーダリーに立ち向かう。「何と強大な敵か! その厚き信頼にこたえて見せまする!」
巨大な姿のショーダリーが躍りかかってくる。その猛烈な拳を守護者は盾で防ぐ、その打ち付ける響きはまるで金属と金属のぶつかり合いだった。守護者の青銅の剣はショーダリーの鋼のようになった体に振るうたびに鐘のように鳴り響いて無残に歪む。ユカリの叫びに応じて守護者の変形してしまった体は即時元に戻る。剣が効かないと見るや、守護者はその剣と盾を体に取り込み、その体積を増してショーダリーを抑え込んだ。
「そのまま抑えて!」
「御意!」と守護者が喉を絞るような声を出す。
力比べは守護者が勝っていた。手四つでショーダリーは力任せに退けられ、ついに膝をつく。
「グリュエー! もう一押し!」
「御意!」とグリュエーが守護者の真似をする。
今日のグリュエーは逆に吹いたりはしなかった。守護者とグリュエーがショーダリーを押し倒し、駆け寄ったユカリがその隙に二つの魔導書を奪った。戦士のまじないの効果が消えるというのは高望みだったようだ。なお抵抗するショーダリーを守護者が何とか押さえつけ続ける。
「パピ、あなたの望みは何?」とユカリは【囁く】。
「ユーアを幸せにしたい」パピは苦しそうに声を絞り出す。「くそっ! そんなの魔導書を使わなくたって知ってるだろ! ユーアの望みは幸せな国、幸せな世界を作ることだ! そのためなら、僕は何だってする!」
ショーダリーの右手が、拘束をすり抜けて自由になって、ユカリの方へと延びる。しかし髪一筋ぶん届かず、ユカリの目の前でくうを切る。
「ユーアはパピで、パピはユーアだよ」ユカリはショーダリーの巨大で硬質な右手に触れて囁く。「パピがユーアを幸せにしたいなら、それはユーアがパピを幸せにしたいってこと。パピ、あなたの望みは何?」
「僕は、僕の望みは……」
ショーダリーから力が抜け、そのおまじないも失われた。魔力で膨れ上がった肉体が縮み、元の姿に戻る。根拠のない自信に満ちた表情も消え、ショーダリーが戻ってきたようだった。
「それで、ショーダリーさん」ユカリは淡々と呼びかける。「この国には魔導書が二つあるんですか?」
体を酷使した反動か、ショーダリーは身動き一つ取らずに答える。「いや、正確には二つあると見なされている」
「どういう意味ですか? あるんですか? ないんですか?」
ユカリの言葉はつい鋭さを増す。
ショーダリーは青い空を見上げて、雲でも数えるような声で答える。
「一枚はあった。祈りの乙女、あの白大理石の巨像の口の中にあったと古くから伝えられている。ヘイヴィルの執政官に代々引き継がれるものだ。今はユーアかネドマリアが持っている。そして当然呪いの乙女の方にもあったはずだ、と世間では認識されている。ヘイヴィル市が公的に表明している魔導書は一つだけだが、切り札を明かす馬鹿はいないからな。だが我々の調べても、執政官は所持していなかったし、本当に知らないようだった」
ユカリは青空を背景に天に咆哮する女神の方を見て、改めて魔導書の気配を探るが、ただ沢山あるという認識はあるが、一枚の有無までは分からない。本当にあるのだとすれば、今この街に魔導書が一冊と十一枚あることになる。
もう一度ショーダリーを見下ろしてユカリは言った。「ネドマリアさんがどこにいるかご存知ですか?」
「ヒヌアラに体を貸してどこかをほっつき歩いているのでなければ、研究施設に籠っているだろう。街の北東、壁際にある。その施設自体が同じような壁に囲まれている」
「ありがとうございます。一つお願いしていいですか?」ユカリは少し返事を待つがショーダリーが答える前に続ける。「パディアさんかビゼさんにもうこの街に入ってきていいと伝えてもらえませんか?」
ショーダリーが苦しそうに笑う。「どんな合図を送るか決めていなかったのか? 別に構わないが、彼らが私を信用するかな?」
ユカリは冷たく言い放つ。「あなたが私を信用するなら」
深い空を覗き込んで太陽に目を細めながらショーダリーは答えた。「信用しよう」
ユカリは【口笛を吹く】。曲はなんでもいい。曲じゃなくてもいいが、ユカリは『羊の川』を吹いた。ユカリが、生きている人にこの魔法を使うのは初めてだった。これでいつでもどれほど遠くに離れていても、ショーダリーが抵抗しない限りはショーダリーの体を意のままに操れる。
「あと、念のために子供たちを聖市街の外へ連れ出してください」
「承知した」ショーダリーは錆びついた体を無理に動かすように上半身を起こした。「ところでさっきの、たまにユーアが吹いていた覚えがある。何という曲なんだ?」
「『羊の川』。嘘つきのための歌です」
ショーダリーは目を細め、わずかに俯く。
「そうか。嘘つきか」
ユカリは何か言おうとしたが言葉が出てこず、そのままショーダリーを置いて北東へ、研究施設を目指して進む。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!