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『……これできみはようやく夢の向こうに立つことが出来た。これからの活躍を楽しみにしているよ』
恩師の温かな言葉に看板を付けたばかりのクリニックが入居するアパートを見上げたウーヴェは、その顔を恩師に向けて頭を下げる。
『ありがとうございます。先生のおかげです』
人生を大きく変えた事件の後、医師という道を選ばせ歩ませてくれたのは、あの日姉の部屋で出会った先生の本があったからだと小さく笑うと、幾度か聞かされていた話だが何度聞いても驚いてしまうし嬉しいものだとアイヒェンドルフが穏やかに笑う。
『たった一冊の本がここまで人の人生を左右するのかと思えば少し恐ろしくもなるね』
恩師の述懐に無言で頷いたウーヴェは、時間軸を無視した遠くに感じてしまう昔、誰かの膝の上で本を読んでいたことを思い出すが、まるでそれを阻止するかのように頭の奥に疼痛が生まれ、それを振り払うように頭を振って、皆が開業を祝ってくれる食事会にはまだ時間があるからクリニックに入ってゆっくり話をしようと恩師を誘うと、そうだねぇと授業を受けているときから変わらない温和な声が同意し、二人でアパートの階段を上っていく。
その後ろを数人の制服警官が談笑しながら通っていくが、同期の中でも優秀なのかそうで無いのかの評価が真っ二つに分かれる男が見習いの刑事になることへの褒め言葉や不満で盛り上がっているようで、ちらりと振り返ったウーヴェが制服警官が楽しそうに話が出来るのは平和である証だと皮肉気に笑うと、アイヒェンドルフが微笑ましそうに見守りながら同意も否定もしなかった。
『……良い場所に開業できて良かった』
アイヒェンドルフが診察室と書かれたプレートを貴重品を扱う手つきで撫でながら問いかけるとウーヴェがキッチンスペースから顔を出し、少し相談に乗って欲しいのですと告げた為、どんな悩みか今から聞こうかと笑ったアイヒェンドルフが診察室のドアを開き、真新しいデスクとソファ、窓際に置かれたチェアとコーヒーテーブルなどの調度品が愛弟子の好みに添ったものというだけではなく、ここを訪れる患者への配慮が成されているように感じぐるりと室内を見回して納得の吐息を零す。
『先生?』
『居心地の良い部屋だ。ここならば何でも話せそうな気持ちになる』
『……そうあって欲しいと思います』
『きみの場合はその気持ちや言葉で人が前を向く手助けが出来るだろう』
皮肉屋で一人が好きだと学生の頃は思われていたが、患者に相対したときのきみは気休めは言わない代わりに患者一人一人の心に誰よりも寄り添っていたと腰の上で手を組みながらアイヒェンドルフが振り返り、自慢の愛弟子を文字通り手放しで褒めるとウーヴェの顔が僅かに紅潮する。
『人が嫌がることをしないのは当然だが、自分がして欲しいと思う事であっても相手にとってはそうではないかも知れない。その見極めは難しいものだが、きみになら出来る』
『……はい』
『頑張りなさい、ウーヴェ。きみは総ての人を助けられる大きな手を持っているわけでもないし総てを見通す目を持っているわけでもない。ここに来る人は狭い迷路の中で苦しんでいる。その彼らを広い世界へと導くための方法を知っている。だが、知っているのは方法だけだ。本当に人を救うのはその人自身なんだよ』
何よりも簡単で難しいそれを、その人が気付いて行える手助けを出来るだけなんだよ。
己の無力さに打ち拉がれるときがいつか必ず来るだろうが、その時にこの言葉を思い出して欲しいと最後の教えとばかりにアイヒェンドルフが告げた為、ウーヴェが咄嗟に手を伸ばして彼の心と同じく暖かな手を握りしめる。
『先生……!』
『ここに来る患者もそうだが、もちろんきみも一人ではない。困った事があればいつでも大学に来なさい』
私はあの部屋できみが来るのをいつでも待っているし歓迎すると笑う恩師に黙って頷いたウーヴェは、とにかくお茶を飲もうと笑ってキッチンスペースに戻ると、すぐに二つのマグカップを持って戻って来る。
『そう言えば、部屋のことで悩んでいると言っていたね』
先程の相談とはそのことかと笑うアイヒェンドルフを窓際のチェアに案内し、自らも向かい合うカウチに座ったウーヴェは、強く躊躇った後、母が、祖母がと言い直し、ここの開業にあたって祝いとして資金を提供してくれたこと、この街でも有数の高級住宅街に新しいアパートが完成したのだが、そこを買ったが使わないのでそこに住めと言われたと告げると、アイヒェンドルフの目が一瞬鋭く光る。
『……事情を知らないものからすればただただ羨ましいだけの話だな』
『……だと思います。資金の提供もアパートのことも断ったのですが……』
ウーヴェの顔に浮かぶのが困惑だけではないことをしっかりと見抜いていた彼だが自ら話させる方が良いと判断をし、何に悩んでいるのかと問えば、それを受けても良いのかどうかと呟くウーヴェに苦笑してしまう。
『先生』
『いくつか問題はあるが、まずは部屋の話だ。その部屋はお祖母様が買ったんだったね?』
『はい。叔母に聞いたところ、新しくアパートが建つので投資目的に購入したそうです。ただ、俺が部屋を探していることを聞いたようで、それならどこの誰かも分からない相手に貸すのではなくあなたが使いなさいと……』
もう家を出て何年にもなるのに今更家に甘えられない、せめて幾許かの家賃を払うと叔母を通じて祖母に伝えて貰ったのだが、契約書が届いて少し驚いていることをウーヴェが素直に告げると、何に驚いているのだとアイヒェンドルフが足を組む。
『それが……部屋の間取り図も入っていたのですが……』
部屋と呼ぶには大きすぎるのですとウーヴェが心底困惑した顔で恩師を見ると、見られた恩師が首を傾げる。
『大きい?』
『はい。どう考えてみても一部屋では無く、アパート全体というか、あるフロア全体の間取り図のように思えるのです』
届けられた間取り図を広げたときにまず驚いたのは部屋数の多さで、キッチンやリビング、メインのベッドルーム以外に数え直してしまうほどの部屋数があり、自分一人で住む部屋なのにアパート全体の間取り図を送ってきたのかと思い、アリーセ・エリザベスにすぐさま連絡をしたほどだった。
返ってきた答えは最上階の二軒を纏めてしまって一軒にしたというもので、聞かされた言葉の衝撃に呆然としてしまったウーヴェは、心配そうに名を呼ぶ姉にどういうことだと震える声で問い返すが、投資目的の部屋にするにはリスクが大きい、だからその部屋はあなたが好きに使いなさい、要らないやダメと言った反論は聞かないが気になるのなら光熱費だけ払いなさいと笑われ、それぐらいは当然だと返すのが精一杯だった。
先日の衝撃を伝えたウーヴェだったが、アイヒェンドルフが肩を揺らして笑い出したことに目を瞠り、目尻を赤くしながら笑い事ではないと上目遣いになる。
『ああ、いや、反論を許してもらえないというのはなかなか強引なやり方だが、家が広くて困ることなどないのだからその話を受ければ良い』
『でも、一人で暮らすのにあんなに広い家など……』
ルームシェアをするとすれば一体何人で出来るのかと思う程部屋数があり、掃除やメンテナンスが大変だと心底困惑するウーヴェが珍しくてアイヒェンドルフがなおも笑い続けるが、ベッドルームとリビング、キッチンぐらいで後は本を置く為に使えば良いと提案すると、ウーヴェの目が軽く開かれる。
『そう、ですね』
『ああ。何も悪い方に考えなくても良い。光熱費だけで済むのなら随分と助かるだろう?』
『はい。ただ、それだけだと何だか気持ちが落ち着かないので、いくらか家賃を払うことにします』
『ああ、それも良い案だ。それで気持ちよく住めるのならそうしなさい』
『はい』
悩みと言っても事情を知らない他者からすればなんと贅沢なものだと誹られそうなものだったが、ウーヴェにしてみればギムナジウムに入学以来ほとんど帰っていない家に象徴されるように、気持ちも離れている家族からの資金提供や住宅の提供をそのまま素直に受けることなど考えられないことだった。
だから家賃を払うことで己の中で折り合いを付けたのだが、それでも何か足りない気がしていた。
その思いが顔に出ていたのか、アイヒェンドルフもコーヒーを飲みながら返さなければと思うものがあるのなら別の形で別の時に返せば良い、きみの家族はそれを許してくれる人たちばかりだと告げた為にウーヴェが驚いてしまうが、それについては肯定も否定もしないのだった。
『ともかく、無事にクリニックを開院出来て良かった。今夜はきみの友人達の中に混ぜて貰うが、おめでとう、ウーヴェ』
アイヒェンドルフが様々な思いを内包した笑みを浮かべて手を差し出したため、ウーヴェがそっとその手を握り、この手にその笑顔に今まで支えられここまで導かれたのだと穏やかな笑みを浮かべると、私たちの手は小さいし目も遠くを見通せる訳ではないことを忘れないようにいなさいと今まで何度か聞かされてきた教えを聞き、真摯な顔でそれを受け止め守っていくと伝えるようにウーヴェも頷くのだった。
ウーヴェがクリニックを開院したという話を妹と母から聞かされたギュンター・ノルベルトは、数年前にも感じた寂寥感を再び覚えつつそうかと短く答えるだけだった。
ギムナジウムの卒業と大学の入学や卒業、そして生涯の職業となるであろうクリニックの開業など、人生の節目節目を本人から聞かされることのなかった彼だったが、それについては自業自得という思いが強くあったために誰に対しても何も言うつもりはなかった。
ただ寂寥感だけはどうすることも出来ず、つい妹を前に愚痴ってしまうと、いつかもだったがバルツァーの中核会社の社長に就任したばかりだが大丈夫か、父さんが会長という立場に収まり一線を退いたのは時期尚早だったのではないかと笑われ、酷いぞと妹を見れば言葉とは裏腹にやり通せる男だと兄を認識している顔で笑っていて、その笑顔に釣られてギュンター・ノルベルトも笑ってしまう。
『そうだわ。ノル、あなたが買ったあのアパートだけど……』
『ああ、どうだった? あの子は受け取ってくれそうか?』
『……この間の話では随分驚いていたようだったけど、光熱費と家賃を入れることで折り合いを付けたみたい』
『そうか』
ウーヴェが驚き呆気に取られたアパートだが、アリーセ・エリザベスが説明した投資目的というのは真っ赤な嘘で、そもそもはギュンター・ノルベルトの社長への就任祝いと肩書きに相応しい家に住めというレオポルドの提案で、友人が経営している不動産屋に最上階のワンフロア総てを買い取るから設計の変更をしろと命じ、結果二軒が入る-それでも階下と比べれば遙かに広い部屋だった-はずのフロアにドアが一つだけと言う、恐ろしく贅沢な一室を買うことになったのだ。
大幅な設計の変更がなされ、工期が遅れつつも完成したアパートは、高級住宅街の中でも小高い丘に建つ一昔前のお屋敷の雰囲気を持つもので、その最上階ともなればどんな人が住むのかとアパートの周辺住民からも羨望と嫉妬の声が聞こえるほどだった。
そのアパートからバルツァーの本社に通うのは実家から通うのと同じほど時間が掛かってしまう為、ギュンター・ノルベルトは正直な話乗り気ではなかったが、アパートの完成まであと少しの頃、ウーヴェがクリニックを開業する話を母から聞かされ、学生の頃から暮らしている部屋だと資料の本が溢れて手狭になってきたことと通勤に時間が掛かる為に引っ越しを考えていることも教えられ、一も二もなく間もなく完成するアパートを譲ると申し出たのだ。
一人暮らしのギュンター・ノルベルトにとって己の部屋と言えば、今暮らしている会社にも近い古いがしっかりした造りの3LDKで十分だった。
だから自分は良いからウーヴェにあの家を譲り渡すと伝えると、イングリッドが心配そうに頬に手を当てる。
『受け取ってくれるかしら? クリニックの開業資金も受け取ってくれないのよ』
『母さんからの生前贈与の形にすれば良い』
『あなたはそれで良いの、ギュンター? あの部屋はあなたに買った物よ』
イングリッドの言葉にギュンター・ノルベルトが軽く驚くが、買ってくれたことは嬉しいが自分ももう良い歳をした大人だし社長という肩書きもあるからそれに見合った収入もある、だから俺よりもこれから自立し一人の医師として毎日働いていこうとするウーヴェの日々の暮らしを支えられるのならば自分の家など今暮らしているもので良いと笑うと、イングリッドが安堵か何かの溜息を吐く。
『開業祝いにすれば受け取るだろうし、家も母さんが投資目的で購入したとでも言えば良い』
それであの子は悩みつつも受け取るはずだと寂寥感を押し殺しつつ笑う息子に母も何度か首を左右に振るが、確かにそうかも知れないと自身を納得させる、そんな会話がウーヴェのあずかり知らない所で交わされていたのだ。
ウーヴェがアイヒェンドルフに語った祖母と叔母とはイングリッドとアリーセ・エリザベスのことで、ウーヴェの家族を襲った悲劇について彼は知っていたし、ウーヴェ自身が話したこともあってか家庭の事情については良く知っていた。
他の人ならばいざ知らず、ウーヴェはアイヒェンドルフに己とその家族の説明をする際、戸籍上の母が実の祖母であり、兄であるギュンター・ノルベルトが実父であることをアイヒェンドルフにだけは話していたのだ。
何故彼にだけそれを話したのかはウーヴェは己の心の動きながら分からないことだったが、それ以降彼の前では母は祖母になり、姉は叔母としてウーヴェの話題の中に登場するようになっていた。それ故、母のことを祖母と称しても不思議には思わないで彼は聞いていたのだが、その母から生前贈与という名目で資金も自宅アパートも譲られた形になるウーヴェだが、周囲からすればなかなか理解されない贅沢なことだと陰口を叩かれるだろうし、バルツァーという名前はそんな所でも威力を発揮するのかと笑われるだろうとも思うと、もう少し控えめな形で援助した方が良いのかと、母と息子が顔を寄せて相談するが、娘と一緒に話を聞いていた父が新聞を折りたたみながら言い放った言葉が妻と息子の心配を掻き消してくれる。
『持って死ねるわけではない。だから生きている間に譲るだけだ』
『確かに』
生前どれほどお金を稼ごうが大豪邸に住もうが死んでしまえばそれで終わりで、相続してくれる人がいなければ望まぬ人に回ってしまうかも知れない。それならば俺たちが生きているうちにあの子に譲っても誰にも何も言われないはずだと、ソファから立ち上がってイングリッドの傍に向かったレオポルドは、ギュンター・ノルベルトにそうだろうと同意を求めて頷かれる。
『……私もノルももう十分あるから気にしないで』
世間的には長男長女がいるのに何故資産が総て次男であり末子のウーヴェに行くのかと訝る声も聞こえてくるだろうが、それこそ人の家庭の問題に口を挟むなと一喝すれば済む話だとアリーセ・エリザベスが笑い、イングリッドもようやく納得出来たのか、愁眉を開いて笑みを浮かべる。
『そうね。確かに人の家の問題に口を挟むなと言えば済むことね』
『そうよ。……フェル、開業するって言うけれどちゃんと患者は来てくれるのかしら』
大学の成績も人伝にだが非常に優秀だとは聞いているが、それでも研修を終えたばかりの新米医師の所に患者が来るだろうかと、この先のことを考えて不安を覚えたアリーセ・エリザベスは、ギュンター・ノルベルトが不安など一切ない顔で目を閉じたことに気付き小首を傾げる。
『ノル?』
『名の通った誰かからの口コミがあれば広まりやすいんだろうな』
『そうね。……でもそれはあの子自身が探さなくてはならないものね』
いくら家族とは言え外野が横から口を挟むことではないと肩を竦めたアリーセ・エリザベスは、本当は誰よりも心配しているがそれ以上にウーヴェを信じているから大丈夫と穏やかに笑うギュンター・ノルベルトの様子に安堵し、開業祝いを何にするのかといつかも同じような話題で家族で盛り上がったことを思い出すのだった。