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子どもの頃以来の大泣きをしたウーヴェは、家族がリビングに勢揃いし、その中にリオンもいる安堵に溜息をついたあと、顔を洗って来るとソファを立つ。
ついでに命の水のお代わりをすると笑うとリオンが俺も飲みたいから持って来て欲しいと背中に注文し、ウーヴェがオーダーを受けた合図に肩越しに手を上げる。
ウーヴェが静かに出て行った後のリビングは奇妙な静けさに包まれていたが、レオポルドがリオンに向き直り咳払いを一つしたあと、お前のおかげだと軽く頭を下げた。
ドイツ国内どころか世界でも名の通った企業を一代で築き上げた立身出世の見本のような男に頭を下げられたことでただ驚いたリオンだったが、ここで慌てふためけばその男の背中を追いかけ追い越そうとしていることが大それたことのように思えてしまい、腹にグッと力を込めて軽く頷く。
「俺の力なんてほんのちょっとだ。総てはオーヴェが皆と一緒に笑いたいって気持ちで頑張ったからだ」
だから本当に頑張ったのは他でもないウーヴェだと告げ、俺は少しだけその背中を押しただけだと笑うとレオポルドの横でギュンター・ノルベルトが意外そうに目を瞠る。
「リオン、ウーヴェが俺たちを庇っていたと言っていたが、あれは本当なのか?」
「ああ、間違いねぇ。オーヴェはあの事件の最中、犯人達に逆らえば家族を傷付けられると思い込まされていただろうし、オーヴェも犯人のそれがただの口から出任せだとは思えなかっただろうからな」
犯人がウーヴェを利用した気持ちとウーヴェの誰の言葉も信じてしまう純粋さを利用された結果、今朝までウーヴェはそれを誰にも、己の主治医にすら話すことなく一人で抱えていたのだとそのウーヴェが出て行ったドアを見たリオンは、並大抵の根性では出来ないことだしそれだけ親父や兄貴達のことが好きだったんだと、己を愛しまた愛する男の強さの根源を再度感じ取り、レオポルドが驚きに染めた目で見てくることに気付いて肩を竦める。
「オーヴェは自分の思いを口にすれば兄貴達が殴られる恐怖と誰の命を助けて欲しいか選べと迫られたとき、目の前にいるハシムを助けて欲しいと言いたかったが、本当に助けて欲しいのは兄貴達だったからその場にいた人のことは選べなかったはずだ」
幼いウーヴェが極限の状況下、一人だけ助けてやると言われて咄嗟に思い浮かべた顔はハシムでは無くギュンター・ノルベルトの顔だったはずだと疑う余地を挟めない強い声で告げたリオンは、一人一人の顔をじっと見つめた後、それは10歳の子どもにとって途轍もなく重い決断だっただろうとも告げるとウーヴェがマグカップを両手に持って戻って来る。
「リオン?」
「お前の強さの話を今してたんだ」
「?」
一体何のことだと小首を傾げるウーヴェを手招きしマグカップを取り上げてテーブルに置いたリオンは、隣に座ろうとするウーヴェを己の腿に座らせると、色が変わっていても手触りは変わっていないことを想像させる髪を撫でて腰に腕を回して緩く拘束する。
「リオン?」
「……兄貴を助けて欲しいとずっと思っていたから、あの時ハシムを助けて欲しいと言えなかったんだよな」
「……っ!」
「事件の間ずっと考えていたのは自分が助かることじゃなかった。家族に危害が加えられないかということだ。ただそれを口にすると殴られるからずっと黙っていた。大人しく犯人達にされるがままになっていた」
「……」
「事件の後、兄貴達が誰も怪我をしていないことに安心して助かったと思ったが、ハシムの最期を見てしまった。レジーナがお前を庇って死んだのを見てしまった」
だから事件後に収容された病院で心配そうに病室に駆けつけた家族を見た瞬間、小さな胸の中で二つの思いが渦巻きどうすることも出来ない苦しさから嗤うことしか出来なかったんだとリオンが静かに告げると、ウーヴェの手が握りしめられて白くなる。
その手に気付いてそっと手の甲を撫でたリオンは、力を抜けというように一本ずつ握りしめられている指を開かせていくと、完全に開ききる前に己の手を宛がい、軽く力を入れて手を組む。
手の甲に食い込むウーヴェの指先の力を何とか堪えつつ、呆然と見つめて来るレオポルドとギュンター・ノルベルトの顔を中心に見回したリオンは、ウーヴェが未だにハシムの墓に花を供えているのは追悼の意志よりも悔悟の思いが強いからだと告げてウーヴェの肩に額を軽くぶつける。
「リーオ……っ!」
「死なせて悪いって言うよりも、親父や兄貴達よりも大事だと言えなくて悪いと思ってたんだよな」
「!」
「それは悪いことじゃねぇし当たり前っていえば当たり前だ。俺でも同じ状況になったらオーヴェと同じ選択をしてる。でもオーヴェは優しい。優しすぎるから……」
命を救えなかったことへの悔悟の念と兄達を守れたという思いに板挟みになった結果、どちらに対しても申し訳ないという気持ちが溢れ、レオポルドやギュンター・ノルベルトの顔を見れば自動的にハシムの顔やレジーナの顔が思い浮かんできてしまい、その苦しさから逃れたい一心で父や兄を避けていたのだとリオンが悲痛な声でウーヴェの心の軌跡を口にすると、ウーヴェの身体が震え、縋るように身を捩ってリオンの首に腕を回してしがみつき、それ以上己の心を代弁するなと悲鳴じみた声を上げる。
「……リオン……っ……ぃ、やだ……っ!」
「オーヴェが親父や兄貴を見て頭痛を起こすのもそれが原因だ」
「……お前はどうしてそれに気付いた?」
ウーヴェでさえもはっきりと自覚していなかった頭痛の原因だがどうしてそれに気付いたとギュンター・ノルベルトが震える声で問いかけると、リオンがウーヴェの背中を宥めるように撫でながら親父の護衛をしたときに違和感を覚えたと告げて皆をただ驚かせる。
「あの事件?」
「ああ。あの時オーヴェがいるホテルに送って貰って家に帰ったとき、オーヴェと口論になった」
憎んでいる父の護衛という仕事にリオンが全力を傾けた結果ウーヴェとの先約をすっぽかすことになり、そのことで珍しく感情的になったウーヴェと口論になったのだが、その翌日、前夜は護衛などしなくてもよかったと叫んだウーヴェが父を助けてくれてありがとうと言ったのだとリオンが告げると、しがみついていたウーヴェですら驚いたのか、リオンと距離を取るように肩に腕をついてその顔を見つめてしまう。
「リオン……?」
「あの時さ、俺なら憎んでる相手なら死ねば良いって思うって言ったよな?」
「……ああ」
「でも、お前は誰も親父が死んで欲しいなどと思っていないと言った。その後、好きだと言わないから殴らないでって言ったんだよ」
それがいつまでも引っかかっていたのだと告白したリオンは、その時に感じた違和感がずっと胸の中にあったとも告げると、呆れた様な感心したような吐息がリオンの前や横合いで零される。
何年前だったか会社の合併式典の時にレオポルドを狙うという脅迫状が届いたためにリオンが彼の護衛に就いたのだが、その時に感じた違和感がずっと引っかかっていたのかとウーヴェが問うと、リオンが蒼い目を細めてこれでも刑事だからと小さく笑う。
「小さな違和感も見過ごすなってボスに叩き込まれたからなぁ」
ただ、そのはずなのにゾフィーの事件についてはまったく気付けなかった馬鹿だけどと自嘲するが、今はそれはどうでも良いともう一度肩を竦めると、その時にもしかするとウーヴェは憎んでいるはずの親父や兄貴のことが実は今でも愛しているのではないかと思ったと答え、ウーヴェの頬を撫でて髪を掻き上げてやる。
「それならあの時の相反する言葉も納得出来る。でも、決定的にもうお前が親父達を憎んでいないと思ったのは……ジルに対して俺の気持ちを切り替えようとしてくれたときだ」
「なに、を言った……?」
「いつまでも人を憎むことは出来ない。憎しみは前に進む力をくれるがそれと同じだけ足枷になる。そんなことを言ってくれるお前なんだ。自分のこともそうじゃねぇのかって思った」
姉を喪った事件の後リオンが酷く落ち込んだり荒れた時、いつまでも憎めないと優しく諭し抱きしめてくれたのは他でもないお前だ、そんなお前が自分は別だとは思えないとリオンが笑い、ウーヴェのターコイズ色の双眸を覗き込めば感情を表すように左右に揺れる。
「憎んでいないのに親父達を避ける理由は犯人達が脅していた、それが一番理由としては納得出来る。当時のオーヴェはどうこう言ってもやっぱりガキだ。狡賢い大人の言葉なら鵜呑みにしてしまうだろうしな」
ウーヴェから家族の情報を見聞きしたときに接した感情、事件について少し調べたときに得た感覚を付き合わせ脳内で捏ねくり回した結果先程の結論に達したと告げてもう一度肩を竦めたリオンは、ここにいる誰一人がそれに気付かなかったのは当事者故に冷静に客観的に事態を見ることが出来なかったからであり、ウーヴェが己すらだまし通すほどの強い意思と巧妙さで本心を押し隠したからだと一人一人に語りかけるように顔を見た後、ウーヴェの握りしめられている手の甲にそっと口付ける。
「優しいしオーヴェ。お前が頑張ったおかげで皆が守られた。だからもう……一人で頑張る必要はねぇ」
事件に巻き込まれた少年の命よりもお前の家族を優先したことに対しもう誰も何も言わないしお前を責めることはない。だから一人で抱えるな、俺もいるしお前を愛している家族もいると笑うと、ウーヴェの頭が微かに震えながら上下する。
「……リーオ、も、ぅ……」
「ああ。……ハシムも、ちゃんと分かってるって」
「……う、ん」
事件の後のウーヴェの様子に家族の誰も手を付けられず最も近くにいながら最も遠かった為、本当の意味での解決は成されていなかった。
事件の傷が見えないように覆い隠しウーヴェ自身は心の奥深くに閉じ込めたつもりだったが、実際は傷口から血が一滴ずつ流れ出すたびに犯人の嘲笑やハシムの最期が忘れるなと語りかけてきていたのだ。
それら総ては今日をもって終わりを迎える、ハシムやもしも許せるのならばレジーナの墓に花を供えればもう事件はようやく解決するのだと告げ、震えるウーヴェの肩を抱いてこめかみに口付けたリオンは、ウーヴェの名を呼んで目を覗き込むと、ウーヴェが愛してやまない笑みを浮かべて今度は額にキスをする。
「ハシムもさ、無残な最期ばかり思い出すんじゃなくて事件の中でもお前を助けてくれていた笑顔を思い出して欲しいって思ってるんじゃねぇのかな」
「……っ!」
「これからはハシムを思い出すときはさ、子どもらしいあの写真のような笑顔を思い出してやろうぜ」
俺がハシムなら絶対に悲しい最期では無く笑顔を思い出して欲しいし覚えていて欲しいと笑ったリオンの首に再度腕を回したウーヴェは、本日何度目になるのか数えたくない涙を瞼の下に押し隠そうとするが、リオンの大きな手が優しく背中を撫でたため、迫り上がるそれを抑えることが出来なかった。
「……ぅ……っ……ぁ、あ……っ!」
「うん。事件の時、ハシムがいてくれてよかったよなぁ」
心を殺され肉体的にも殺されかけていた時傍にいた同年代の少年の存在はきっとそれだけで救われたはずだ、大人達の思惑がどうであってもそこにいるだけで良かったんだと笑うとウーヴェが嗚咽を押し殺す。
「兄貴も親父もみんな無事で良かったなぁ」
「……ぅ、・・ん……ぁ、……っぅ……」
ウーヴェ一人が生存している異様な事件の終わりを迎えた後、本当ならばこうして家族が抱きしめてウーヴェ自身だけではなく家族の傷も癒やす必要があったのに犯人達の狡猾な方法でそれが出来なかったため二十数年もの間溝が生まれてしまったことは本当に残念だし犯人に対して腹の底からの怒りしか感じないが、それでも本心を心の軌跡を伝えられて良かったと笑い、ウーヴェの後頭部に手を宛がって己の肩にグッと顔を押しつけたリオンは、震える肩を片手で抱きその耳に口を寄せる。
「お前は本当に強い男だ。誰に聞かれてもそう言える。俺のオーヴェは誰よりも優しく強い男だ。……さすがは、親父と兄貴の血を受け継いだ男だ」
お前が一人で堪えていたのと同じ時間、親父も兄貴も一人で堪えていたんだとも囁くと、レオポルドが目頭を指で押さえて顔を背け、ギュンター・ノルベルトもグッと唇を噛み締めて俯いてしまう。
「そんな親父達の一番近くでずっと見守り前のような仲の良い家族に戻れる日が来ることをずっと願っていたムッティやアリーセも強くて優しい。その優しさもちゃんと受け継いでいる」
ここにいる人たちの強さや優しさ、家族を思いやる心は総てお前という形に集約されている、そんな家族が素直に羨ましいとも笑うと、今度はイングリッドとアリーセ・エリザベスが横に座るそれぞれの夫の腕に顔を押しつける。
「さすがは、俺のオーヴェだ」
「リ……オン……っ!」
朝から泣き通しだったために赤く腫れぼったくなった目を何度も瞬かせたウーヴェは、誰よりも頼りになる男の顔で笑うリオンの額に額を重ねると、俺のリーオと音のない声で囁いて目を閉じる。
「……俺や……みんなを、解放してくれて、ありがとう……」
「今度さ、ハシムの墓に皆で花を供えに行こうな」
「……ぅ、ん」
二人が交わす言葉を間近で聞いていたレオポルドやギュンター・ノルベルトは涙を何とか堪えつつリオンの存在が自分たちが思ってる以上のものだという事実をまざまざと見せつけられるだけではなく、一見すればふざけているだけにしか見えないリオンが実は鋭い観察眼と洞察力を兼ね備えている事実に内心舌を巻いていた。
イングリッドもその思いは同じだったが、ここにいる家族の中で一足早くリオンがその言動や見かけだけでは判断出来ない不可思議な男である事を見抜いていたアリーセ・エリザベスが涙を拭きながら夫に本当に良かったと笑いかけ、目尻の涙をミカがそっと拭き取る。
「そうだね」
アリーセ・エリザベスから聞かされた過去以上に詳しいことは知らないが、断絶していた家族の間の溝がリオンという一人の男によっていとも容易く埋められた事実にただただ驚愕してしまうが、それ以上にリオンという男に興味が湧いてきたと笑い妻の白磁のような頬にキスをする。
「ウーヴェがここにいる間はリオンも帰ってくるのかな?」
「どうかしら。後で聞いてみればどう?」
「そうだな。……出来れば一緒に飲んでみたいな」
ミカの呟きにアリーセ・エリザベスが呆れた様な顔になるが、男連中で一緒に飲めば良い、その間私たちはハンナと母さんと一緒に美味しい料理を食べに行ってくると告げた為、リオンの耳が犬のそれのように反応する。
「え、何美味いもの食いに行くんだ?」
「……リオンちゃんには教えてあげないわ」
「んなー! 相変わらずイジワルなんだからなー!」
さっきまでの真剣な顔や嫌がるウーヴェを抱きしめつつ己の思いを口にした時の顔とのギャップにアリーセ・エリザベスとミカが顔を見合わせるが小さく吹き出してしまい、彼女のそれが部屋にいた皆に伝染したのか、イングリッドが涙を拭いながら夫の肩に手をついて寄りかかり、妻の肩を抱いたレオポルドも知らず知らずのうちに小さな笑い声を立ててしまう。
そんな父と母の横でギュンター・ノルベルトも最初は呆れた様な顔をしていたが、自分一人が不機嫌になっているおかしさと何よりもウーヴェがリオンの肩に懐くように顔を寄せながら笑みを浮かべているのが嬉しくて、ウーヴェとよく似た顔に笑みを浮かべてしまうのだった。