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小さくノックをすると
奥から微かに返事があった。
時也は静かに取手を回し
レーファの部屋の扉を開ける。
室内には、微かな発酵香と共に
やわらかな夜灯が灯っていた。
ティアナが窓辺で香箱を作って目を細め
ベッドの端に座っていたレーファが
ぴくりと肩を跳ねさせた。
「失礼しますね」
時也の穏やかな声が
部屋の空気をさらに和らげる。
レーファはベッドの端で手を揉みながら
そわそわと所在なげに言葉を探していた。
「え、えと⋯⋯えっと、あのね?」
その声には
伝えたいことがあるのに
言葉の形が見つからないという焦りと
それでも〝伝えなければならない〟という
決意が滲んでいた。
「はい。
レーファさんの言いたい事は、解りました」
時也は微笑んで
彼女の目をまっすぐ見つめる。
「〝ペニシリン〟を
貴方の異能で作れる、ということですね?」
レーファの目が、ぱちぱちと瞬く。
自分の言葉にならない思考を
時也が先に言葉にしてくれたことへの驚きと
それを〝理解してもらえた〟という安堵が
一度に押し寄せてくる。
「⋯⋯うん。たぶん、それ」
彼女は、不安げに、小さく、小さく頷いた。
「レーファさん
貴女はご自分の異能を
全て毒だと思っているようですが⋯⋯
違いますよ」
時也はそっと膝をついて
彼女と目の高さを合わせる。
そのまま、指先で優しく彼女の髪を撫でた。
「貴女は人を助ける事もできる
素晴らしい異能の持ち主でもあるんです」
「わ、たし、でも⋯⋯
人を殺さずにいれるの?」
それは、震える魂の問いだった。
レーファの中にこびりついていた
〝恐れ〟という名の泥を
ようやく絞り出した瞬間だった。
時也は力強く、しかし優しく頷く。
「はい。
僕のこれから言う通りにしてみてください」
⸻
彼女の異能は、菌類を操作するもの。
しかしその内には
常在菌のように
安定した性質の微細菌も含まれており
感情が暴走しない限り
その働きを制御することも可能であった。
「レーファさん
まずは、リラックスしてください。
呼吸を深く、ゆっくり。
⋯⋯僕が手を添えますね」
時也は彼女の手を両手で包む。
その低め体温と呼吸に合わせて
レーファの内にある細胞たちが
徐々に落ち着きを取り戻していく。
「今、貴女の体内には既にに青カビ──
ペニシリウム・ノタトゥムの一種が
共生していますね?」
「⋯⋯うん。
た、食べ物が腐った時の⋯⋯
その子でいいの?」
「大丈夫です。
それが、今は役に立つんですよ」
時也の声は
まるで祈りのように静かだった。
「ペニシリウム菌は
適度な温度と栄養条件下で
抗生物質を生成します。
今、貴女の体温と腸内にある炭水化物代謝が
それにちょうど良い環境を与えています」
レーファは目を閉じ、言われるがまま
身体の中に意識を向ける。
彼女の内で共生している細菌たちが
ざわめくのを感じた。
それは彼女の〝恐怖〟を感じ取った
暴走ではない。
〝使命〟のもとに目覚めた
静かな細胞の会話。
「今、糖質を含む腸内の発酵物質に反応して
ペニシリウムが代謝活動を始めています」
時也が語る通り、微細な白い菌糸が
彼女の小腸壁に沿って細く広がっていく。
そこから微量に分泌されるペニシリン──
それは、殺菌ではなく
選択的に〝悪い菌〟を殺す、命を救う成分。
「今です。
生成したペニシリンを
左腕の毛細血管に沿って運んでください。
⋯⋯指先に集めましょう」
彼女は
言われた通りにゆっくりと集中した。
意識と共に、菌が動く。
まるで自分の神経が導いているかのように
確かな反応が伝わってきた。
──やがて。
レーファの左手中指の腹が
ほんのりと温かくなる。
その皮膚の下に
小さな液体の塊が出来上がっていた。
「うまくいきましたね!
あとは、僕が処理しますね」
時也は、足元に置いていた箱から
滅菌済みの小瓶と注射器を用意し
レーファの指先から
丁寧にペニシリンを抽出した。
それは透明でありながら
僅かに粘性のある液体。
確かにそこに〝命を救う薬〟が宿っていた。
「レーファさん
貴女は、誰かの命を救える存在です。
⋯⋯それを、忘れないでくださいね」
彼女は、涙を浮かべながら、小さく──
けれど確かに頷いた。
その頬には
初めて〝誇り〟という名の紅が灯っていた。
時也は
レーファの指先から
丁寧に抽出したペニシリンの液体を
小瓶に注ぎ終えると、即座に立ち上がった。
もはや猶予はない。
この薬を適切に処理し
投与可能な状態に整える必要がある。
「少し急ぎますね⋯⋯っ」
短くそう言うと
時也は取手付きの保管ボックスを机に置いた
金属の縁に補強されたそれは
内部にいくつかの気密容器と
作業スペースが収められた
携帯式の医療用処理箱だった。
カチリ、と開いた蓋の内側には
必要最低限の器具が整然と並ぶ。
滅菌済みの注射器、ガラス製のピペット
アルコール綿、ガーゼ。
そして
薬液の微濾過に使う極細のろ紙と
簡易ろ過器。
「ティアナさん、お願いします」
窓辺にいた白い猫がすぐに反応し
音もなく歩み寄る。
そして、机と時也を囲うように
薄膜のような青白い光が展開された。
ティアナの結界──
それは空間を緩やかに閉じ
外気に含まれる細菌や塵を遮断する
天然の滅菌領域。
時也はその内側で深く一礼すると
慎重に処理へと取り掛かった。
まず、抽出したペニシリン原液を
ピペットで微細なろ紙へと一滴ずつ垂らす。
原液の中には
レーファの体内で共生している
他の菌類の微量な代謝物も含まれている。
「⋯⋯ろ過温度は室温で十分
ただし沈殿に注意⋯⋯」
独り言のように呟きながら
時也は丁寧にろ過器を調整。
溜まり始めた下層の澄んだ薬液に
揺らぎは無い。
次に、小瓶へと薬液を注ぎ
密閉しつつ、ラベルに小さく記す。
〝Penicillin G
(生成元:L.メラニヌス)
抽出時刻:20:40〟
「よし⋯⋯っ」
深く息を吐き、次に注射器の用意に入る。
冷却した注射器を取り出し
薬液を吸い上げる。
その針先には気泡一つなく
完全な密閉状態で充填が完了。
処理はすべて素手で行われたが
ティアナの結界内においては
空間そのものが隔離された
〝清浄域〟として機能する。
それでも、慎重さを決して失わないのが
時也の流儀だった。
最後に、使用済み器具を片端から回収し
廃棄用の密閉容器に詰め
保管ボックスを再び閉じる。
「レーファさん
本当に、ありがとうございました!」
彼女はまだベッドに座ったまま
手の指をじっと見つめていた。
だが、その顔には
少しだけ自信の光が灯っていた。
時也は、そんな彼女を一度だけ見つめ──
すぐに立ち上がると
結界の内側でティアナに再び一礼する。
「次は、レイチェルさんのところへ
行ってきます」
ティアナが頷くように尻尾を一振りすると
時也は静かに部屋を後にした。
⸻
廊下を滑るように歩きながら
時也は胸元の保管ボックスを片手に持ち直す
その重みは、ただの道具ではない。
レーファが自分の力で生み出した
誰かの命を救う〝希望〟そのものだった。
(レイチェルさん
もう少しだけの辛抱ですよ⋯⋯!)
そう心で呟きながら──
彼は、扉の向こうに待つ少女のもとへと
迷いなく向かっていった。