テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「⋯⋯二階の廊下を
走る音が聞こえますわね?」
アビゲイルが
そっとティーカップをソーサーに戻しながら
眉根を寄せて天井を見上げた。
夜の喫茶桜に満ちる穏やかな静けさの中
その音は不自然なほどに鋭く
階上から一定のリズムで鳴り響いていた。
ソファに体を預けていたソーレンが
半眼のまま天井を睨むように視線を上げる。
「⋯⋯あの足音は、時也だな。
いつもは音も立てずに歩くくせに
急いでると前重心になるんだ」
その声には、僅かに焦燥の色が滲んでいた。
普段なら気にも留めないが──
今夜は違う。
転生者が新たに現れ、病に伏せる恋人がいて
さらに彼の〝感情〟がぶれる要素が
いくつも重なっている。
「⋯⋯方向的に、レイチェルの部屋、だろ」
天井へ鋭く目を細めたその刹那──
「やぁ、やぁ。
相変わらず緊張感がないね、ここの夜は。
⋯⋯窓の鍵、開いてたから
つい入っちゃったよ?」
まるで〝もともとそこに居た〟かのように
空気の隙間から声が差し込んできた。
続けざまに
窓辺に据えられたカーテンがふわりと揺れ
そこから黒のロングコートを翻して
一人の男が静かに足を踏み入れる。
しなやかな動作。
軽やかな着地。
それらすべてが、あまりに自然で
〝異物〟であることを感じさせない
異様さがあった。
「あ、アライン様⋯⋯っ!」
アビゲイルが弾かれたように立ち上がる。
その声には、尊敬と畏れ
そしてほんの微かな緊張が混ざっていた。
ソーレンはというと
身体を起こすこともせず
睨みつけるだけでその存在を迎えた。
「⋯⋯鍵、開けたの、てめぇだろ」
その言葉に、男──
アラインは芝居がかった仕草で胸に手を当て
仰々しく溜め息をつく。
「えー?
ボクにそんな濡れ衣を着せるなんて⋯⋯
悲しいなぁ?
ボクはただ、偶然にも
〝風に吹かれて
揺れるカーテンを見つけた〟から
そこから入って来ただけだっていうのに」
その表情は柔らかく、声音は甘やか。
けれど、そのアースブルーの瞳は
どこまでも冷たい〝観測者〟のそれだった。
「⋯⋯で? なんの用だ。
てめぇ、今夜はSchwarzじゃねぇのか」
ソーレンが低く唸るように尋ねる。
アラインはゆっくりと
ソファの背に腰を下ろし、脚を組む。
その動作一つにも
まるで舞台の上のような優雅さがあった。
「ライエルが言うんだよ。
転生者の新たな波がね
ここ最近すごく近くなってるって」
窓の外に目をやりながら
アラインは言葉を続けた。
その口調はあくまで軽やかだが──
語られる言葉は、決して軽くない。
「⋯⋯特にこの家に入った瞬間に漂う
〝腐敗〟の匂い⋯⋯
ちょっと気になってさ?
はてさて、どんな異能を持った
転生者が現れたのかなぁって。
ボクにとって──ゴホン!
いや、〝不死鳥狩り〟にとって
有益な何かだったりしないかって
思っただけさ」
その笑みは
相手の恐怖を愉しむ獣のようでもあり
深海から静かに見上げてくる
何かのようでもあった。
アビゲイルは、しかし一歩も退かずに
静かにその目を見返した。
「⋯⋯アライン様。
申し訳ございませんが、彼らはまだ──
怯えておりますの。
どうか⋯⋯
まだそっとしておいてあげてくださいまし」
その言葉に
アラインの微笑みがわずかに揺らぐ。
そして、気怠げに首を傾けながら
視線をアビゲイルへと戻す。
「⋯⋯わかってるってば。
ねぇ、アビィ。
そんな怖い顔しないでよ?
ボクは、キミには一番
嫌われたくないんだからさ」
そう囁く声音は甘く柔らかい。
だが、アビゲイルが〝彼ら〟と
複数形で口にした瞬間──
アラインの目が、一瞬だけ鋭く光った。
「そっか。
現れたのは⋯⋯一人じゃないんだね?」
口調は変わらない。
しかしその瞬間
まるで心の奥に触れられたような感覚が
部屋の温度をひとつ下げた。
アラインの笑みは保たれたまま──
だが
天秤の片側に何かを
静かに載せるような視線で
ふたりを見つめた。
「⋯⋯そういえば、時也は?」
その問いが投げられたちょうどその時──
急いでいて閉まりきらなかったのだろう。
階上の扉の隙間から
抑えられた声が微かに届いてきた。
「レイチェルさん、少しだけ痛みますよ。
けれど⋯⋯これで必ず良くなりますからね」
その声を聞いたアラインの口元が
静かに吊り上がる。
「⋯⋯ああ、やっぱり。
転生者が、何か〝しでかしてた〟んだね」
その呟きは確信。
〝証拠〟を目にした者の声。
アラインの背に流れる長い黒髪が
夜の静寂の中でふわりと揺れた。
その影が、壁に伸びると──
まるで喰らうように
部屋の光をわずかに飲み込んでいく。
今夜の喫茶桜は──
また一歩、深く、混沌へと踏み込んでいた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!